宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

無責任な行動と生命エネルギー

学問というのは、何だろうか。
哲学や心理学、文学や教養のタイトルを冠したオープンチャットの部屋では、まあそんなものはありきで「学問的には」とか「学術においては」という形で利用されはしているがその語の意味するところは雰囲気である。
学といえばえらい人が学びたいと望んでいる複数の人間にご高説賜ってくださる一部状況において一次的で一方向的な伝達をされる部類の情報だ、という雰囲気だろう。
実際にそういうものだろうか。学があるとか学を得るといった表現はそれに沿う事ができるだろうか。あきらかに内容的には同じものを指し示す事であっても可逆性がないならば別ものだろう。
別ものならば別になったという言葉を挟むか、別の言葉にすべきである。雲から蜘蛛が生まれて蜘蛛の糸で曇りをつくる事ができるならば、それぞれを「くも」で呼ぶことは、どうあっても伝わらないので避けるべきである。
一つのまとまった形式に納めることで、情報の単位にすることができたものが学でそれを得る手段が学問なのではないだろうか。

そうではない、そうではないと辞書にかいてある、なんとなく違う気がする、違うといいたい、それではダメだという事で前提を全て知り尽くしさらに誤りを見つけ正しきを知っているとマウントがとれる、のであれば、私の誤りであろう。白紙に戻す。
白紙の戻すので「どこが違っている」「こうなっているから違う」「ここはダメだ」と言う必要がない。白紙なのでそんな指摘をする先をすべて、ご指摘どうり破棄して白紙にしようというのだから。

では何かを説明してもらおう。その前提で話をしよう。もちろん問わせてももらう。他の応用例でその語に矛盾がないか、齟齬がないか、問わせてもらおう。その上で無理無茶があれば「そうなんだ」と漏らさせてもらおう。
私が作らずとも、基礎を作ってもらえるならその土俵の上で遊ぼうではないか。土俵のありようについてありか無しか問い合っているのは、もったいない。せっかくのその土壌がもったいないではないか。
ここに言葉で遊びにきているのだから、さんざん遊ぼうではないか。

ここは私だけの空間なので私の定義を引っ張り出す以外にバリエーションがなく意味もないのだが、他に使うものがないので私の定義でもって話を進める。
哲学とは聡く考えた事を人に伝達しそれを基準に使って物を見た場合、いろんな見え方という信号を身体が受け取ることができるという纏めであり纏めの伝達方法だと考える。
学問的になどと言うのであれば、そのシステムから派生する内容であるべきで、新しくても伝統的であっても同じデータソースからであるとい事を宣言することになる。
それならば言い方は「学問的、学術的、〇〇学として」という言い方になるわけがない。岩手県の農村出身の人間が自分の出生を基礎に会話をする場合「同じ東北出身として」として切り出すことになんら意味があるだろうか。
東北全域で、という切り出しの話であったとしても東北出身という参加の仕方はない。自分の出生を聞かれて凡そ「焦点を暈す」ために使う事はある。つまりそういうことである。
焦点をあわせないことを目的には使うが、焦点を合わせるためには使えないし使わない、という事である。ただそれだけの事である。
「哲学をやっておりまして」が「自分は聡く学問をしていて教えることができるだけの精度と量の知識を持っている」を意味しないことは脊髄反射で理解することができる。
曖昧で焦点のあわない対象から槍が降ってくるという状況作成には十分使える。自分がいかに愚者で知識がなく無責任で非道の限りを尽くす最低の人間だとしてから「お前は最低だ」と言う手段もあるといえば、あるのと同じ。

「猫堕落無茶斎」はとにかくこの「曖昧で暈した」中に身を置くのが大好きで、これはおそらくルイスキャロルの「不思議の国のアリス」のチェシャ猫をモデルにしていることを含んでいるのだろう。
常に意味もなくにやけては煙のように消えるという特性はそのロールプレイのなりきりがいかに自然に彼に馴染んでいるかがよくわかる。

学問という詳細度からほんの少し焦点を合わせ気味に暈してくるのが「クー」である。彼は具体的な著名人の名前や一節を引用したり、毎回完全に意味をはき違えているにしても必死に解説をつけてくる。
そして完全に意味をはき違え根本から間違っているため毎回こたえにはたどり着かないことを、他の一般の人間が「現実や実際の固有事象に大して効力を見つけるのが困難であること」と同じだとの勘違いから社会人の葛藤に寄り添えるものだとして寄り添おうとしてくれる。

根本的に「アドラー心理学」を使って悩みを軽減したい、現実の事象に解決を見出したいとして、道具としてそれを使うならば「自分がどうであるかは相手とは関係がない」を根本に置くジャンルである。
たとえばプレゼントひとつにしても、相手が喜ぶか利用するか邪魔にならないかどう思うか思われたくないか、というのは前提としてすら出てこないくらいに無関係なのである。
自分がなにを贈るか、だけである。しかし贈るには相手がおり、贈るものや方法タイミングや状況などもあり、相手も同じ数の条件があり、その中から最も効果的な「一品」を選ぼうとするのは完全に全てが食い違っている。
しかし、その食い違いを「哲学」だと勘違いして、一つに品にどれだけの意味をその場で込めることができるかについてのみ品評会を開く。完全に贈るも祝うも考察することも全てが意味のない行為である。
この無意味な行為をしたあげくに「全部がよくてなんでもいい」と完全にその脳が酸素を消費した時間すら無駄であると否定しきって締めくくる、人間の時間を、人間でいることそのものを無意味にして嘲る本格派の悪魔である。


宗教関連についても不道徳で背信的、学問についても学ぶ必要がないとしたり、学べていないことですら発言ができるという事を知としたり、表題のアドラー心理学さえもその基本である「他人と自分を切り分け、他人を気にしない」を完全に無視するどころかまったくの正反対で「他人ばかりを気にして、無関係な他人事を話題にして問題提起し、他人の行動をいちいち名前付けして呼称すること」をそれだとしている。
きれいに正反対の行動をとれるということは、まさに熟知しているに思わせる行動であるが、唯一の悦楽のための行動選択が単に正反対であったというだけのことなのが純粋さであり蒸留された悪意そのものとして、他の悪意と異なり純粋に楽しめる一因でもある。

「クー」はとにかく他人の一挙手一投足を名前付けして行動を「行動した」と声を出して「それいいね」と付け加える。チャットルームで発生する事象全てに影をつけ、その実在を証明する現象として自分を在らせているのだ。
神ないし神の御手になりきったつもりでなりきりチャットをしているのだとすれば、まさになりきりである。
千変万化し全ての事象に対応するがゆえに全てであり、個としての優位性が損失することについても「クー」という一個人とその他現象を使役するとして自身の欲求を最大限に満足させるものになっている。
会話する相手はそんな人間と時間を過ごすことの無駄と無意味さにストレスを感じるはずのものであるが、「アドラー心理学」部屋では、既に「クー」を人間として扱っていないため共存が可能となっている。
自分自身が人間という価値を失っている事に気が付いていないのか、人としての名残に未練があるのか時折人間扱いしてあげているよ(私が私に)とまるで人間のようなどこにも宛先の無い文章を投下するのだが、これは人ではない宣言を都度発することによって認知既知を高めようとしているのかもしれない。

まさに塵芥、ごみや廃棄物、排泄物そのものが口をひらいているかのようななりきり実演を行う「クー」ではあるが、その不要さについては「猫堕落無茶斎」も負けてはいるもの、追いすがってはいる。

この両名は人とはここまでに羞恥や倫理を無くして動物的に、動物ですら知性と習性があるのにそれよりも行動に無責任な、まるで原初の生命のような、微生物やアメーバの類のしなやかさとたくましさを感じさせる。

もし本当に生命エネルギーが両手の先から発射されたらどうしよう、と悩んで毎日波動の発射練習をしているような、完全な無駄だけで作られた文字を形成できる才能はなかなか見られるものではない。
本当に無職で暇を持て余している人間の特権だろう。
「クー」に関しては昨今の行動から、もしかすると居場所がなくなり強制的に社会的な生活を強いられ一般人のような行動と思考を強いられることになるかもしれないが、日本の子供部屋おじさん、ニート、引きこもりの人数から鑑みても、このままいてくれる可能性は期待できる。