宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

自己循環の輪

最近の「アドラー心理学」部屋はすっかり毒気がぬけてファクトリーメイドのチーズナンにボンカレーがセットしてあるような、平穏な状況が続いています。
フロイトだとかラカンだとかゲマインシャフトだか、それがどうてこうして、ああなって、そして不幸は去れ幸せ来たれ、あなたも幸せそれが私の幸せ、というエクソシズムが形骸化されたようなあたたかな挨拶チャットとなっています。


一方「哲学カフェ」は「猫堕落無茶斎」があいかわらず意味のよくわからない喧嘩を売っては「こちらは本のタイトルと作者名を明記してある。だから私の勝ちだ」というスタンスで周囲をドン引きさせてくださっています。
加えて人格否定である「〇〇してなさそう」「〇〇っぽい」「〇〇もわからない程度の〇〇」をチャットルームのガイドラインに完全に抵触しながらも、管理人も一緒にその様子をお楽しみではあるのでまさに猫の動物園といった様相を呈しています。
参加されている方は同じ方法で同じ返しをログからコピーして返せばよいものではないのかと私個人は思ったりするのですが、それはきっと管理人「たけぞー」氏の逆鱗に触れるでしょうし、そうなれば申し開きの機会もなくいきなり退室処分にされるので完全に猫が餌に食らいつくショーを楽しむコロッセオとなっています。
近年、そんな残虐ショーはどこでも執り行われていないので貴重なショーであります。


「猫堕落無茶斎」の言動パターンは固定的で特に知識も知性も必要がないためBOTの制作は用意だと思われます。
ドッペルゲンガーを当ててやれば消滅するという古くからの言い伝えにもある通り自分で自分を認識するということがもし可能なタイミングがあれば自身に絶望してしまうであろうことは確かなのですが、そういった威力からの成長をだれも望んではいないと思います。
彼のあからさまに異常な問題発言は人が異常な行動をどこまで取ることができるか実験的であり実践的、具体性があって再現性も高いサンプルケースとしては非常に有用だからでしょう。
奇行を堂々と行う神経の図太さというか、自己認識力の欠如は他の人が真似をしたり鏡をみたりしたところで自己を認識することなどないかと思われるその無神経さは、並の人間には真似ができるとは思えません。
だれもやりたがらない、やろうともおもわない奇行を堂々と自身をもって自分の快楽だと認識して行ってくれる異常種は、その存在意義を自然と充分に披露してくれることは、並の人間には非常にありがたく有益だといえるでしょう。

 

 



直近では議論らしい議論として、管理人と「猫堕落無茶斎」とのなれ合い以外は特に手厳しく管理人である「ボブ(たけぞー)」氏独自のルールだけにてとりしきられているチャットルームではありますが、建前的には平等と見せかけて餌を釣る手法には手堅く他ユーザーを餌としてのみ捉えることができる腕前があってこそだと部屋の完成度を見せてくれています。

彼が直近で絡んでいた話としては関東や関西、近世の世俗とか文化について新書を読んでるかどうか、江戸時代とかには何があったとか、どうだったとか見てきた風な口ぶりでだれの本を読んだとか言っては、他メンバーの自由な発想を「そんなの本にのってないw」「本にのってないからおまえは読んでないw」「つまり本を読んでないお前は愚鈍で無知で議論にならないから馬鹿でレスバで他たたいてやるw」といういつもの流れでした。
どこの本基準でなに定義をもってして「議論」しているのかもよくわからないいつもどおり「だからお前は馬鹿なんだ」というに至るまでのシンプルパターンの経路は、定番のオチをもってくる毎週同じ時間に放送する昭和のお笑いのような「見る必要はないがつけていても特に問題ではない」感覚を呼び起こします。
このずっこけギャグが管理人もお好みの様子で、議論初心者、哲学初心者の他メンバーは「お笑いを見に来たはずなのに舞台に挙げられて無茶ぶりされて恥をかいて帰るのが不満」という至極当然の展開を不満にあげることすら楽しみとしています。
普通に考えて、視聴者は舞台の上のひどい芸と距離を置いて決して交わらないからこそ面白いわけで、自分が画面の向こうの嘲笑の原材料とされたら、普通に不満でしょう。
そこはしっかり管理人も、ちゃんと明記してある、平等である、ポリシーにのっとっている、なにより「みんなの自由を優先している」として取り合わない事も芸として披露しています。

「猫堕落無茶斎」の手順は単純明快、手法そのものより以下に「相手を馬鹿にする」という姿勢を維持しつづけるかという事が特徴的で難易度が高くなっています。
基本的に、人は自分が人であるために「他人」という「人」に対する攻撃についても手心を加えてしまいます。スプラッターホラーの痛いシーンを見ると自分も痛くなるような感覚を覚えてしまう神経を持ち合わせています。
しかし「猫堕落無茶斎」はそれを持ち合わせていないため他人に手加減をすることを知りません。関節を逆に、やわらかいところに突き刺して、そういう行為が「だれもしないのはなぜか」を考えたり「実行してみた」とすることが哲学だと考えているのです。
なぜ人は道路を横断しないのか、なぜ人は高い場所から飛び降りないのか、それは哲学だと考えているのです。実質的には学として分類し原因となる情報を最小化し再利用性をもって価値としたり使用する方向性や意味を考えるものに分離されないものを「(自分の解釈では)本にかいてあった」という理由か、もしくはただ馬鹿だからわからないのだろうという理路を自身では哲学だと思い込んでいて、それを尊厳としています。

 

「近代的な国民国家と国家意識、民族意識の形成はまた別のもんなんや」
「江戸時代の知識人に民族意識はけっこうあるんよね。」
「江戸時代は各地バラバラに行政府が独立してあったからとゆうことを前提にしてないね。民族意識はあったよ。まあ無学な下層庶民はともかく。きみ、基本的な思想史勉強しなよ」

 

「語る」ためだけに特化した情報をもっているかのように話しはしますが、現時点までにおいて「猫堕落無茶斎」自身が「本にのっている」「あった」の他には著名人の氏名以外を語ったことはありません。
意識とか前提とか、思想が何かという事について内容をなにも語ったことがありません。おそらく語りたい気持ちはあるのだということは「おまえが語るな」という言葉に見え隠れしますが、おそらく語れるほどの言葉と自信、勇気を持っていないのだと思われます。
そんな内弁慶な彼が無双で勝利の美酒に酔いしれるためには自分以外の馬鹿を馬鹿だと言い放つ事で自分は相対的に天才でしかないという自覚感覚に絶頂を感じるという方法も一つあるわけですが、それを選んだわけです。

 

「日本人の国民意識はどこからきたものなのか」

 

という問いを他のメンバーが投げたとしたら、実際その当人は何が聞きたくてそんな質問をしたのか考えるべきでしょう。それこそが哲学なはずです。
それは何百年、何千年前のだれかが言った形骸文である論や名言ではないし、だれかの執筆した本にあった何かではないのです。目の前で人が生きていて発生している現象そのものなのです。
それを「本を読んでない」「そういうのは、ある」とか、自分が井戸から出ていないので、双眼鏡で見る限りは世界にはいくつもある、という感想をいただいてもなんの意味もないのです。

質問者がよく遭遇する事象や気になる話題や遭遇した状況について、自分にはそれが再現される可能性があると考えて、それをもし二度目以降にも経験することになるなら、もしくは自分を含む他人もあわせて経験することになるなら、対策をするために情報を切り分けたいという思いがあって質問したのであろう程度は考えるべきです。
多少なりとも「本を読んだ」以外の知識があるなら、人が喋っているのだからそれは人の意図するものがあってその人の意思がそれをさせているのだろう程度は考えるはずです。
どこの本にかいてある「日本人とは」「意識とは」「歴史」が「その質問者の、質問した意義」に適合しないのであれば、どんなに高い文化的価値をつけられている学術や研究であってもまったく意味がありません。価値もありません。
風邪に対して向精神薬を投与するのが「良い」とするのか、その結果や経過、とりまく環境の状況において「最適」なのか、とりあえず精神に効くから価値があるはずだなんて考えはおおよそ常識的ではありません。
「なぜ風邪にかかったら向精神薬を飲むのか」という哲学をするならまだしも、「風邪」というテーマについてもってくる話ではありません。

「猫堕落無茶斎」はそういう局面にそうなってしまった事についてさえも「哲学してる」「これこそが哲学だ」と言って憚らないですが、哲学に「学」がついている以上、定義の範囲内で節度を守るべきです。
先に「意識について、特徴的に国民の、とりわけ日本において」という議題をまずおいて、その意図が質問者にありきの上に「自分がもってきた哲学」を重ねる不埒な行為は哲学でもなんでもなく、倫理のかけたサイコパス行為であるといえるでしょう。

そしてその勘違いの恥辱を自分に科した上で「これだから哲学を知らんやつは」となんの根拠もない否定で自分の存在場所を切り分け居座り、さも当然のように「場荒らしである自分がいることが哲学なので、哲学したまえ」「そんなこともできない知能のたりない馬鹿なのか君は」と煽ります。

そう話すには理由があり披露したい論や学がありその話題につなげるために自分の話したい議題を他人の質問の上に質問を載せるという形でもってきたのかと思えば、そんなものはなくただ「自分がすごいという評価に至るはずのちょっとそこらでみない単語を並べるのでお前を馬鹿だと呼ぶし私を天才と呼べ」しか内容がない文章を垂れ流します。
この包み隠さない承認欲求を自分で垂れ流して自分で回収するセルフスカベンジャーのような自己循環の輪は、まさに職人芸というか食人間というか、自虐のなかにも自尊を含んだまるで他人のひとりでおこなう行為をのぞき見させられているかのような背徳感すら感じさせます。

「猫堕落無茶斎」の文章はそのままコピペして使えるほどに内容がなく単純でかつ、人を不快にさせる度数の高い便利なものです。
ぜひログを保存して短文を再生可能な状態にしたり、ボットに記憶させて利用の価値を感じていただきたいと思います。