宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

アイデンティティの変容と成長

他人の言葉を語ることで安心する時期、誰しもにあるのではないでしょうか。
自分の私生活ほどにまではかかわらない程度の人間と複数会う機会がある時期に、そうなりがちである気がします。
中学生になった時、高校デビューした時、初めての職場で、社会人サークルに参加した時、様々に機会はあると思います。

「猫堕落無茶斎」にもそれが来ているのではないでしょうか。そう感じさせられます。
オープンチャットによってはじめて不特定多数の人間と会話をする機会を得ることができたのではないでしょうか。
常に固定的な範囲で人間関係を築いてきた、学校や会社において大きく人間関係を変化させることがなかったのかもしれません。
ということは、職種は一般的ではなく成果は特に必要とされない状況にあったのかもしれません。
職種や教育の内容が一般的であったならば、人員の移動について流動的になります。
また成果については評価をされたりそれに差がでれば特定化されて同じ状況や環境の中でも変動を起こしますし、また対外的にもその説明を必要とされたり評価を受けることで接する対象が変わってきます。
そう考えるといかに抑圧された生活の中にあったかと想像できるため、現在の「他人にやたらと異常なまでに執拗な人格否定を行い罵倒し自分がいかに上位で高等で高潔な存在か」と誇示する人格になりはててしまうことも理解できなくはありません。

そもそもに異常な精神構造をもって生まれてきてしまったのではない、もしそうであってもあたたかく生きてきたけれどもここでは「猫堕落無茶斎」となりはててしまっているという事も充分に考えうる可能性はあります。
どちらにしても、非常に重く社会性を書いている生きづらさを自身も感じているというのがチャットの態度で見て取れることは間違いありません。

 

繰り返しこちらで紹介している「猫堕落無茶斎」の「本よんだ」「誰がいってた」に加えそれに(何の根拠もなく)「〇〇はあった」「〇〇だった」発言とそれに加えてその情報を支える出典や解説の無さは、今の彼をどのように支えているのでしょうか。
構造的には、彼は知ってしまった「伝票の見出しだけで相手は疲弊する」という手段を今は楽しんでいるのではないかと思われます。


実生活において、精神的に疲れを感じるに至る経験の経緯としては、まず必要があり対処が必要で、そのために消費を行い請求をされ支払いを行う、そして支払ったために減少したリソースについて再評価するという流れがあります。
いいと言われている商品について、まず「いいもの」と「それがあると何が期待できる」、加えて「期待できるそれの複合的な結果の要素としてさらに期待値があがる」という情報を自己で形成しニーズを生みます。
そのニーズには商品の購入などの対処が必要で、金銭や労力の支出が必要になってきます。それを交換し入手するという消費行動を行い支払いの請求を受けるわけですが、交換という行為の完了と他に発生する支払いについては対処の完了という充実感と直結しない人がほとんどでしょう。
そのため最初の必要性を生み出す欲求を、支払いや請求といった「別の負荷」が対比となって抑え込む結果になることもあるのではないかと思います。

つまり相手の意欲を折るのに「請求書をちらつかせる」だけで、その意欲を完全に折ることも可能なのです。それが最初の欲求や解消したいと考える問題に大して、より無関係であれば意欲を削ぐ効果が大きくなるわけです。
100円で買える手段が、いま必要でまさに今それをかなえるためには「1000円」必要だとしたら、900円分損なので100円の出費で抑えられるタイミングや場所、状態に至るようコストを支払うか、今解決して得られるバリューのために購入するのかということです。
それはもちろん即時性というバリューに900円が設定されているため「等価交換」が成り立ちます。しかしそう感じることができない人も多くいるでしょう。
100円で購入した場合でさえ、その100円は他につかえたかもしれないという「そもそもの必要性」を交換から除外することさえあるのではないでしょうか。
「解決手段を得ることができた」と「それに対して等価交換で支出をした」はなぜか別と捉えられて等しいと感じられず「損」だと考えることさえあるのでしょう。

同じように、たとえば性別の問題について国際情勢を踏まえた上で日本の在り方を考えようという議論において、生物学的分類を基軸に置いた考えを出したいと意向を示した相手に対して「差別的だ」と人格否定を行うことは、相手の心理的負荷に直接的な効果を示せるというわけです。
生物学的な分類がどんなものであるか、それとは関係ない「性差別問題」についてを結びつける距離の間にある複雑で多量の話題、問題、議題、論や学問、発言や事象についての全てがストレスに変質し得る重量を持つと言えるでしょう。
その脈絡のない「請求書」を一蹴することができればよいのですが、まずその表題の「請求書」の三文字だけで精神を疲弊させ、なぜ関係がないと見えるそれが今でてきたのかをいちいち説明されることで精神を全体的に折る事になります。

生物学と性別、分類の方法と分類の意義、そして分類した結果の効果などについて話をしたいとした所に「差別」という全然関係な話題を「切り離せない重要なファクター」などと、関係がないのだから切り離す以前に融合もしていないし無いわけだからファクターでもなんでもないのに、全然別の議題に「刺激的な表現や単語」で精神を削りに来ます。
精神を削られてしまうので防衛措置としてその話題についての説明的な会話になると、それはもう術中です。とにかく精神を削る表現や単語「例だから」「事実だから」という理由で並べたて聞かせることで疲弊を誘います。
疲弊した精神の人間が正常な判断をすることが困難になったタイミングで人格否定で罵倒をして終了です。
さすがに常識のある人間は、文字としても書き表すのにためらわれる差別的で残酷で変態的な文字や言葉を「事実だから」とすることや「誰かから聞いただけで自分が思ったわけでもなく、自分が言うわけでもない」としたとしても自分の口から発言できるものではありません。

「猫堕落無茶斎」の得意な手法の一つ「いかにひどい日本語を使うかを、他の誰かの所為にすることで自身はそんな言葉を選んでいないとする」があるわけです。
もちろん出てくるものが汚いもので、出しているのがその口ならばその口が汚く臭いものであることは間違いないのですが本人は「この汚物は他人のもので」という事で清潔を保てると考えているわけです。
他人の言葉を借りることに躊躇のない人間にはそういった精神的状態であることは理解できますし、その時期に「言葉という形のないもの」を捉え理解することは困難であるだろうと想像できます。
その時期を過ぎると自分の行動を思い出した時、その異常性に気が付くことだろうとは思いますが自分の時期的変化や経過を記録としてもっていない、また記憶していないならばずっとその酷い状態に気が付かずそのままでいる可能性もありそうです。
オープンチャットによってログがのこることでやっと他人とコミュニケーションを取ることができるようになったであろう「猫堕落無茶斎」がそれに気が付いたりできるかどうかは、ログを読んだり本を読んだしか記憶できない記憶力が過去を思い返す能力を得た時に発生するかもしれません。
個人的には、まだまだ異常の底までその奇行を重ねていただきたいとひそかに願うものではありますが、人間としての幸福を考えたときにはいつしかそれも卒業せねばならない時がくるのかもしれないと考えると、若干切なさもあります。


哲学の話には時折「経済や資本主義について」の話題になることもあります。人の動きの複合的で他に専門性でもっていかれている分野以外はなんでも哲学に近いと考えられる傾向のそれだと思います。
わからないことを考えるのが哲学という認識にあればその根本から派生するであろうことは想像に難くないでしょう。
つまり経済や資本主義という言葉で括られている範囲は広くその単語でなにかを議題にすべき程度の広さではないものですが「哲学で」いうと範囲たりえることも足り得ないからこそいえるということが「哲学だ」と自己循環で変換をしてしまいがちなのかもしれません。
実際そんなものは哲学ではないのですが「ではない」という否定や存在しないという表現で「存在しない無」を「定義する」ことで「無が存在する」という言葉を作り出してしまい「無という存在を」のような完全に意味のない話になってしまいます。


心理学の話では「相手が」「本当に」という部分がそれになりますが、基本的に人が理解しえる人間の心理は自分のものだけです。他の人間は行動を見て認識し記憶したり判断したりすることはできますが全ては自分の発生させる情報です。
これを学問や論説として一旦人の関連性を切り離し物理現象のような情報群に置くことで「理解することで他人のそれを自分のものとして扱うことができる」という条件を想像出来てしまうことになります。
実際「心理学」が「人を操ることができる情報群」として理解された時期がありました。
相手に対して腕を振り上げれば防御の姿勢か回避の姿勢をとることででしょう。それは心理学的に、などと言うのは不毛なわけですが、その行動と結果をして「心理学を実行した」つまり心理学の理解を自分がしている、また他人からみて自分が「心理学を扱える人間である」と認識されうる時代もあったのです。

この「猫堕落無茶斎」のふるまいについて管理人が許容しているというか、管理人もその言動でストレスをためて不満の声を揚げる他メンバーに「暴言を吐いた」として強制退室ボタンを押すという楽しみを持っているため完全に猫の餌場と化しており一般人には地獄なのですが、やはり地獄も人間の娯楽のテーマになりがちな舞台であるため残ったメンバーは離れられない模様です。
地獄そのものである環境を改善したい、平等にあってほしいと声をあげるメンバーもいらっしゃいますが先にまずそれは無理でそもそも猫が汚らしい言葉で一般メンバーに汚物を吐きかけ悶える姿を管理人と二人で見て楽しむ場所であることを認識していないことは大変つらいことであるだろうとは思います。
しかしその前提条件を理解せずに純粋に人として正しく優しく広く浅く考えていこうと思われている方こそが、おぼれて悶える姿こそが楽しみであるという「猫堕落無茶斎」と管理人の二人の関係性を部外者として観察することこそが楽しみであると、気が付いたものだけが楽しめるという背徳感も、申し訳ないですが楽しみであります。


文化の醸成は人の成長にも似てそんな時代もあるという事で、それが変化していくこともあるでしょう。そういう時期はありましたが現在では言われる場面は少なくなっていると思います。
その現象の一因には「そうであった時期」が存在していたという事とその認識、さらに対処があって変化した結果なのだと思います。

他人の記録や結果の情報は利用するのに、自分の行動や過去は振り返らないというのは若さにはってほしい精神の方向性だと思いますが、いい歳をした大人がオープンチャットでそういった態度をしているのを見ると、精神的な痛みを感じます。
その痛みという大きさの刺激を与えてくれるLINEオープンチャットの部屋が「哲学カフェ」なのであります。

まるで炭酸水のような刺激的で満腹感のある「異常者の発言行動」が継続的に楽しめる珍しい部屋です。
アドラー心理学」がいまひとつ観察水槽としての魅力や刺激に欠ける昨今、楽しみな部屋の一つと言えるでしょう。