宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

倫理的な人間性と快楽の関連

前提条件は大事。
「前提として」が無いと何一つなりたたないというか成り立たせるための、というより成り立つという事自体が積み重ねてその積層が高さを成す事自体を意味しているので、前提というものは成り立ちの一部であり根幹で基礎なので、無いなら成り立ちがなくなる。つまり成り立たない。
哲学や心理学、政治の話や推理推論の話題、お気持ちや配慮とか常識の話の場面でよく遭遇する事である。
基礎や前提を成り立たせるために結局出典や歴史の話になる。それでは話題は歴史についてだったのかというほどまでには歴史の話になる。
歴史学から分類して哲学や心理学や政治学を成せばよいのではと思う程度に歴史の話になる。一体何なのだろうか。

ここでいい加減気が付かない人が多いからこそより集まりオープンチャットで集団を成して「議論」をするわけでその議論が「知ってる歴史の出典合戦」でしかなく、打ち込む文字でUNOをやっている歴史カードゲーム場となっている。
だからこそずっと噛んでいられるスルメタイトルにのし上がっているわけでもあります。
哲学や心理学といった学問、「学問」という学びに問いを求める前提としてその敷居がまず高さ故に入場を制限している関門について、学びは平等にあるべきだとしても篩をかけるのはなぜかという最初の前のエピソードゼロの段階で、そこに「前提条件」があることを見落としがちだからだろう。
だれでも参加できるという場を設けた時点で前提条件が崩壊している事に気が付きにくく、また話題をタイトルをみて自分が参加しているのが「学」だと思い込んで、その結果「参加している学というベースが成り立っている場所に自分がいて、仲間がいる」と勘違いしてしまうのだろう。
無料で自由に参加できるということは平等ではなく煩雑に玉石混淆し複雑さを増すというだけである。複雑さを状況にもって話題を進めたいという場合には非常に有用だろう。
最低の客が来た時にどういう対応が必要になるか、最高の客と最低の客が来た時にどういう状況判断が必要になるか、そんな訓練には最適で結果も十分に出せると期待ができる。
しかし自由で無料が「平等」だと考えるのはその時点で誤りであり、高低や大小、善悪や良し悪し関係なく入場を許すという事は平等ではなく「混沌の作成」でしかない。
地上の住居が埋まれば海上、水中にも人を住ませるべきだろうか。人は水中では生存できないのでそれは無理であるし、済ませるべきではない。それは人だからであってイルカならば無理ではない。
つまり水中に対しては人間は入場制限を掛ける必要がある。議論の場においては議論のできる人間もできない人間も平等に受け入れるべきだろうか。議論のできない人間は議論の場で議論ができないのだから、受け入れるべきではない。
それを受け入れた時点で「議論をするもの」が議論をしない条件を考慮しなくてはならなくなる。地上で溺死の可能性について、漂流の危険性について考慮しなくてはならなくなる。
仮に、赤信号を守るという地上のルールを「海流が強いときにも守らないといけないのか」という議論が噴出したとすると、完全に無意味でも「水中で生息が可能」という条件があればしなくてはならなくなる。
赤信号についてはイルカと人間は同じ議題で議論ができないのだ。

前提条件が違う人間を平等の名のもとに議論に加えることは、議論を崩壊させるための混沌を選んでいる事と等しい。
そのため、ほとんどの「議論・哲学・心理学」チャットルームは、前提条件を構築するための歴史語りの場となっている。

どの先生が、どの学者が、いつの事件が、どの会議で、どんな書物に書かれていて、こんな経緯から、という話である。
それを前提としているかどうかを試験で点数をつけて合格したものが専門性のある研究や学習の門戸を叩けるというものが「学」である。
チャットは基本お遊びであり学ではないので、そんなものは無用であるし全部が歴史でUNOのようなカードゲームをしているだけと認識していれば、そのとおりで間違いはないしチャットルームにおいてなんら不満はないはずである。

ときにこれを面白くするため知らない事、出典と異なる意見のもの、表現に含まれていないことを言っていないとして虚実と責めること、つまり口汚く人格否定をする人間もいる。
具体的には「猫堕落無茶斎」ではあるが、他にももちろん多数いる。多数いる中での「猫堕落無茶斎」を挙げるのは、その異常性とそれ故の不変的、固執的な変態性である。
他人が不快に感じる言葉を選択している時点でそれが不快を催す言動であることは本人は充分に理解をしているはずであり、それによって他人が不快になることを楽しみとしていることも公言して憚らない。
そしてその言動ゆえに退室を強制すると宣言を受けると必死に命乞いをする。これは不快にさせて楽しみたいのか命乞いがしたいのかまったくわからないその行動に面白味がある。
その命乞いによって管理人は主従関係を感じるだろうことから、管理人が「猫堕落無茶斎」を擁護する形で「平等と自由」を掲げる意図も理解できる。
正統派の楽しみ方としては首輪に繋がれて見境なく知性のかけらも見せずかみつく狂犬のペットとしてのドッグランで駆け回る様子を眺めるのが、「哲学カフェ」の楽しみ方だろう。


冷静に考えれば誰しも気が付く事ではありますが「前提条件が違う、なのでそこから説明する」がいかに無意味で無駄で理解をされず、かつ不快にさせてしまうかというのは「相手にその前提がないため」ですよね。
相手にない前提をこちらの持っている別の前提を説明という形で語りはじめ、そして相手と異なる前提をこちらのものに植え替えろと言われるのは不快極まりないものでしょう。
それはされたらすぐにわかるものではあるでしょうけれども、自分の庭に生えている芝に、隣から「芝生とはこういうものだ」という「隣の前提」によって植え替えられる事に不満を感じない人などいないことからも想像には易いでしょう。
自分の庭に不満があって、品質保証をしてくれる芝を提供してくれるのであれば歓迎ではありますが、議論とは治療でも相談でもないので、自分の不満と相手による改修を望んでいるわけではないという前提からして、結果はお察しのとおりになります。
人の心について語り合う場において「前提が違う」と少しでも理解ができたり気が付いたり、そもそもそこから出発したあとの対話を期待しているものだとするならば「相手が違う前提を持っている」という事を認識し「相手の前提に則る」ということがまずはじめになにより根本的に大切でしょう。
これをまず欠いた状態であることが前提としてなりたつという「書いていないから」「見えていないから」「そういうものだと思っているから」として進めることで簡単に諍いが発生します。
派閥や敷居をもって前提をなした基礎の成り立っている集まりや対象が、簡単にすれ違って争い敵対するのには、その芝生を上書きしようとするものが根本にあることは誰しも知ってはいるはずです。
しかしながら、相手の庭の芝の上に、自分の育てた芝生を植えこむという快感には抗えず、心理学や哲学、平和や理解を促すための方法や術、論の対話で簡単に分断が発生し最低で醜悪な係争に発展します。
この矛盾の構造こそが哲学・心理学の楽しさの一つでもあり、実際に実践している人間を見ることこそが最もそのテーマに沿った知識と情報の間欠泉であるといえるでしょう。

「猫堕落無茶斎」においてはその相手の前提条件がまるで見えていない眼力と、他人のつくった歴史や情報の索引を出すだけで召喚獣でも呼び出したような勝利を満面の笑みで出してくるところがテーマに沿っていると言えます。
そしてその飼い犬のリードを絞めたり緩めたりすることで情けない服従の顔を見ることが、腹を見せて転げまわって見せる飼い犬の「猫堕落無茶斎」の姿をみることこそが快感となっている管理人とのベストなパートナーシップたりえているのでしょう
我々はこの前提条件を理解しなければなりません。我々が持っている常識的であったり通念的、平等で倫理観を保ち冷静に建設的な対話をするための常識や前提条件は、ここでは通用しないのです。
一般社会では、通常の人間関係では、常識的には、ということを手放すということは、人であることの尊厳を失う事です。そこには非常に大きな危機感や恐怖、禁忌に対する嫌悪感が伴うでしょう。
しかしその先の快楽を知っているものは、麻薬や異常な行為を実行して楽しむ強大な快楽と同じものが得られるわけです。
麻薬や違法な薬物を使用したり、性的や残虐な行為といった実際の行動で被害者を出して社会性を失って得られる快感と同じものが、自分の尊厳を失うだけで得られるのです。

餌食として供物にささげられた一般のルームメンバーには大変申し訳ないのですが、常識的な範疇を守って倫理的に正しく人間性を保ったままチャットの不快を楽しんでいただき、それを超えたものだけがその猟奇的な言葉の流れで快楽を得ていただければと思います。