宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

異常な振る舞いと健康を考える

皆さんは、哲学や心理学のチャットルームに入る時、何を目的に何をもとめて、どんな意図で入室されていますか?
ほとんどの方は他人の言動を集積している分野にてマウントを取ったり行動を支配したり自分の都合よく事実を捻じ曲げたり、なんとでも言い訳ができる分野で相手を言い負かしたいという気持ちで来られているのではないでしょうか。
または、傷ついた心を癒してほしくて来られる方を餌として求めて待ち伏せするために来られているのではないでしょうか。
事実それ以外の人間が来られることは、それを承知で観戦するために来ている人だけであるのは多くの部屋がそうであるという事実しかないところではあります。
学問として学ぶべきところなどないですし、式も法もないので検討したりなにか成果を生み出したりする事がない分野の特徴でもあります。

心理学、哲学、という話題をするとき、いかに自分が人間を超越した存在であるかを誇示するだけという事が多く、それらはそれ以外に何の役にも立たないものでもあります。
行動生理学や脳神経医学ではなく、それらが出力した最終成果物の形を品評する「心理学」はいわば美術と同じ分野になります。
そのため歴史を語り、系譜を語る以外にその存在を使用するこは無く、そこから発展するならば会話としてはマウントの取り合いと人格否定、そしてなれ合いという美術界と同じ系譜をなぞる事になります。
哲学も同じで、ついでにいうならば過去の偉人や著名人の発言が現在の現象に符合していると唱えて、さらにそこから未来が予測できるという雑談をするものでもあります。

数千年前の哲学者が何かを語ったからと現在において使用する意義などまったくありません。表現として固定的に使われている洗練された言語の形であるなら、日常会のこの言語で使用しているものすべてはそうなります。
二千年間だれもアップデートしなかった言葉の意義たるは、しなくてもよいもの、つまりまったくなんの効果も変化ももたらさない、意味がないため形を変えることがなかった、外敵がいなかったから進化も変化もなかった言葉だと言えるでしょう。
そんなものを使う必要性と場面と、ないはずの効果を求めるのはその効果でなにか優位に立てると感じている、実質優位もなにも価値がないのだから意味がないのにあるとするならばそれは相手の損失、罵倒して侮蔑して穢すこと、負けさせることによる勝利を得る事、つまりマウントを取る事のみが目的であることが確実になります。
基本、哲学というのはそういう自己満足によってよくわからない不安感を払拭するために自分を自分で賞賛し感情を高ぶらせるためだけにあるものです。

哲学の根本は、聡くあろうとすること、賢くなることで「自分自身の精神的被害を小さくしよう」というものです。
生物は物理的な構造の不足は協力をすることで補うことができます。しかし精神はそうはなりません。その精神的な問題点を解消するのに物理的な協力も効果的ですがそれが求められない場合、本人以外は為す術がありません。
社会的な保障などで物理面は補えますが、生物の相互関係がどういう形になったとしても精神的な変化に直接的かつ目的に沿った方向へ変化させることは難しいのです。
生物が複数の個体を発生させるのは物理的な構造がまったく同じであるものが複数ある必要はないのですが、中身がことなるため同じ構造のそれぞれの可能性を探ることができるためです。
そのため精神の構造は多様で多岐にわたり、それぞれが異なります。精神が問題を受けて行動が鈍った場合に健康な体であれば、不足していれば、重症であれば、などの場面ごとに可能性を探ることができます。

その中で、強力が得られず精神的な負荷を軽減しなければならない状況においての手段として考案された提案の集まりが哲学です。
文学者がおおよそ性的に異常な欲求をもって奔放な性格で実家が太いため倫理観を乱してそれを書き残したものを教科書に載せて学んできたように、哲学者は自分の不都合な状況を物理的に解消できないならば、妄想をすることで気分がハイになるという手法を書き残して学んできました。
何々なのはなぜか、という問いに求める結果は「スッキリ」という効果であるという構造式をもつその姿をみれば、冷静に判断すれば何の役にも立たないおまじないであることは気が付くはずです。
現に実際哲学や心理学を学んだ、という人間が世になにかを成したものはありませんし、救済の実例は哲学や心理学の介在しない人間関係であることがほとんどでしょう。
人の行動が心理学や哲学で説明ができる、というならば科学的にも文学的にも説明できますし、それで未来を予測することも可能でしょう。予定を立てたり期待した結果のために計画をたてるのは哲学も心理学も関係ありません。
それを心理のおくそこでは何である、と百年前の人間が発言した、千年前の人間が表現した、というのは歴史の知識でしかありません。

宗教もそうですが、それを使って妄想の中で異世界転生をして勇者になりきるのは長く人間の娯楽として親しまれてきました。劇や音楽、小説や絵画などを生み出し文化を向上させ市場経済を発展させ、科学を進化させてきました。
それらの貢献の原材料となったものが哲学や心理学、ではなく原材料の成分表記に使える単位としてあるのが哲学であったり心理学であるもので直接関与するものでもそれらを生み出すための原材料が含まれているわけではありません。
お菓子をつくるのに砂糖や小麦粉、卵とか牛乳が必要になります。それらは農業や工業の技術で発展させ進化し語学で情報化しています。それらを形成する知識として「グラム」や「センチメートル」といった単位が存在します。
グラムやメートルは科学を進歩させたり料理の方法を発展させたりしていません。その位置が哲学といえましょう。
グラムがポンドで、インチがメートルで、と言ったり言わせたり、言ったことを指摘して笑ったり、指摘されたことを怒ったりするのが「心理学・哲学チャット部屋」の全てだと言えます。

 

さて、今注目している「アドラー心理学」「哲学カフェ」ですが、まさにそれだけの事についてある部屋なので、初心者の方は入室して気軽に場を和ませる冗談を言ったなら「B」に差別だ誹謗中傷だ警察に通報すると言われ、心理学って何ですかと言えば「クー」によくわからない説明をされてそんなこともわからないのは異常で屑ですが私はそれでもよしとしてあげますと謎のマウントを取られます。
いきなり精神の強度を試される試練をぶっかけられるような部屋ではありますが、率先して発言していかなくても十分楽しめるので心理学や哲学に興味のある方はとりあえず入室して眺めているだけでも充分にその価値があると思います。
ちゃんとした話でまともな内容であれば広がりはしない、だれも理解はしないというのは哲学や心理学の発展と有用性についての社会的認知の度合いを見ればそれがそのままの結果だと言えます。
異常な行動と発言が常に蔓延している状態、常に観測点が存在する実験場となっている現場をただ見るだけでも、その哲学のそのものの意味としてのなりたちを垣間見ることができるでしょう。


千年前の人間も「愛がなければ人生はつらい」と感じていてそれを短文に記したものが哲学だったり、百年前の人間も現在と同じように「人が喪失の苦しみを味わうのはなぜか」と心の痛みを感じてそれを和らげる方法を考えたのが哲学だったりします。
そんなものは脳神経の一部に手術をすると軽減できるというのは医学的にもわかっていますし、特定の薬効成分がそれを軽減できることも、特定の運動や行動もそれを解消できるのはわかっています。
その解決方法に単位という手段を用いることでより体系的な構造へ導きやすくすることができるようにと存在するものが心理学や哲学でそれ以上でもそれ以下でもありません。
だれがなにをどうい言ったという歴史を紐解き、哲学者〇〇が何々と言ったという言葉を発したとしても、その言葉が導く結果は発言者が単位を唱えることでまるでそれを用いた実際の行動や結果を支配したかのような高揚感を感じるだけです。
「哲学・心理学を語る」とはそれだけのことである前提をもってして、異常な人間に感化されることなく、異常な行動に影響されることなく、異常さを真に受けたりせず正常な心を保って楽しんでいただきたい。
人間の言語にいつから「愛」が組み込まれ表現されるようになったかわかりませんが、いまだにそれが何かを示せていない時点で哲学や心理学があくまで後追いで度合いに目盛りを付け足すだけの存在であるかは認識できます。
何千年と感情を表現したり追求したりしても「月が綺麗ですね」が「愛しています」と同じだと言う得るなんてことは、鉄鉱石をみて刀の切れ味を語るようなものがグラムやメートルなどの「単位」だけで言えば言えてしまうがまったく意味のない事と同じだと言えます。
人間がいまだに作れると言っているものの限界が常に状態という現象だけで、混ぜたり熱したり冷やしたり叩いたりする以外になにもできない現実に似ています


仮に「哲学的に・心理学的に」という言葉を含んだ文章をチャットで発言しようとした自分を認識できた時、それは異常な行動であるという事に気が付き正常な世界へ引き戻る注意を払っていただきたいと考えます。
もちろん異常な行動をする方が増えることは楽しみでもありますが、「クー」は作られた異常、異常者本人ではないためどこまで狂っても「戻ってこれる・戻さなくてもいい」捨て駒につかえる人格、演じられた人格であるため「他の人がしているから自分にもできるのでは」と、安易に考えられないことをお勧めします。
かの状態まで異常さを極めてしまったらおそらく人間として自立した社会生活が送れなくなるため、それが人の領域内であると考えるのは安全とは言えません。

昔話に「返事をしてはいけない」というくだりがある怪談はいくつかあります。返事をすると相手が見つけて取り込んでしまいにやってくるから、という説明であるものが多いですが現実的に言うと「返事をした時点で存在を認識し、それがいずれ全体を蝕む」可能性を示唆していると言えるでしょう。
インセプションという映画で心の奥底にアイデアを植え込むと勝手に発展していずれ自分の人格に影響をするようになるといったテーマを取り扱っていました。これは哲学や心理学を単位としてイメージの影響度や位置を示すのに有用な作品だと言えるでしょう。
同じ意味の単語や文節を千年前、百年前の哲学者が見つけて表現していればその言葉でもよいかもしれませんが、最新のソースを共有できる情報で示している概念について利用することのほうがより実用的でしょう。
どこの古代の人間が「奥底に植え付けたイメージが肥大すること」を言い表していたかなど知りませんし、知っている人がそれを自慢げに教えてくださっても今現在に「インセプション」があることを利用するほうが結果を生産に至らしめるにあたり効果的です。

質問をすることであることを前提としてくる、無いものを「無いとしたら」と発言することであることとしてくる、という手法は「クー」の得意技でありこれに「存在するものとしての前提」をもって返事をしてしまうと、そこからすべての常識が瓦解してしまいます。
「侮辱罪で人権侵害で差別だから警察に訴えると法的な裁きを受けますよ」と「B」が気に入らない事をすぐに遮断するためのお決まりの定型句で挨拶がわりに法的仲裁を仕掛けてきますが、そんなものは存在しないので「じゃあ一体どういう風にするんですかw」等と返事をしてしまうと「誹謗中傷や人格否定」の実演をしてくる、浴びせられるという結果に至ります。
実際そういう様子を見る事が学びでありこのオープンチャットの部屋の意義でもありますが、まともな考えで一般的な良識で普通の発言をするとそういった場面に遭遇してしまうので注意が必要です。
あくまで「人間がどれだけ汚くのし上がり人の上で胡坐をかいて自分を虚構や妄想で高揚させることができるか」という異常者がより冴えた異常さを研ぎ澄ませあっている部屋としてお楽しみいただき、日々の健康を保っていただきたいと思います。