宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

転売と同人誌と

コミケで版権ものの色紙をオークション形式にして販売することについて、全部良くないので全部否定する。
否定するが好きにすればいいとは思っている。
制限速度を違反するやつは何であっても全部が違反だと主張はするが好きにアクセルは踏めばいいと思うのと同じ。

まず問題点は
・コミケ
・版権もの
・色紙
・オークション形式
・販売
ここまではひとまとめにできるだろう。

まずコミケ。
対面での販売がギリ特商法からはずれるとはいえ、他の物品の即売会と同じ扱いだとして、即売会形式になる主な理由が「店舗をもっていない」から。
店舗をもって販売をしていないのは「アウトだから」であり、アウトではないと主張する自称職業絵をかく人の「所在を明らかにできない」から。
作家先生が所在をあきらかにできない理由は、受付窓口対応と本人が同じだから、そして同じである本人を職業登録できないから。
なぜできないか、二次創作という倒錯的な盗作を行っているから。
盗作で作成された出所をあきらかにできない作品を販売して金銭を得るという行為自体がダメで、それを闇市的に「フリーマーケットの場所を提供する」という名目において開催しているのがそもそもにアウト。
企業にむけてよい宣伝機会と実質的な市場調査が行える数少ない機会として売り込み企業ブースを呼び込めているので、アウトよりのぎりアウトくらいまでは来れている。
関係ない人間が声を大にして言う「権利者さまが」という建前さえ通ればなんでもオーケーという意味でいえば社会的に権利を得ているだろう。
しかし売ってるものも内容もやってる事も全部アウトだ。
けれどもそこに商法違反で乗り込んで全員の明細をたててやり全件裁判をしてあげて初犯を通してあげるなんて親切行為をする暇があったらその税金を恵まれない子供につかってやれという規模で無駄な「当事者だけどおすみつき」をつけてあげるサービスは無意味。
数が多くなれば損が増えて逆に損をさせた側が利益を得る構図だ。
ダイエット食品を大量に喰えばデブになるのと同じ構図。
そんなもんに税金つかう道楽はしないので権利者がおのおの自分の権利は自分でまもれ、訴訟は版権者という固定的なところからおこなえという事で成り立ってる。
AIで描いたエロ二次創作で儲ける反社会的組織がいてもわからんだろ。

「じゃあどうして権利者が申し立てないの?」は数がおおいから。
ただそれだけである。
500円の案件が100件あつまると5万円分だ。
それらの対処に450円かかったとしてプラス50円が100件で5000円分だ。
45000の経費に5000円のプラス、ではない。
100件を処理するのに1件一人ないし二人で人件費を考えて100人に対して経費が45000円だとすると一人当たりの給与は450円から225円となる。
そこに処理する雑費を含めてもっと低くなる。
100円程度で100人動員することになる。

しかし500円の100部に対する一人だと、対処の案件数は1で収まる。
一人あたりの経費が45000円~22500円に諸経費を含めることができる。
ギリギリまともなラインだろう。

スーパーに数で強奪に入ったら逮捕されないのと同じ仕組みだということは言うまでもないが、言わないと「どうして君」がメスガキ化する。

コミケ側は「この強盗イベントに持ち込む品でヒトの動向とか見れますよ」とうまく企業を呼べたのは大きいだろう。
それほどの規模なのは数だけ見てもわかる。

次に版権ものだが上記で終わる。
いう事はない。ペンと紙を持っているやつを版権違反にしようと目くじら立てるやつはそういない。
玄関さえあれば突撃するなんとか放送の徴収員のようにはいかない。
逆にいうとあの徴収員はそれほどの物だ。
ペンと紙をもっていれば版権使用料を払うべきだろうとおかまいなしに突撃させる人員を動員できるほどの規模で資金に余裕があるという事だ。
それだけの資金を投入して徴収することで「徴収されるべきもの」という独自の倫理性を保つことができている。

色紙とオークション形式は本と違って手書きなので希少価値がでるという話は、実際文字としてはその通り。
それは他人と競って手段が金銭だからというだけの話ではある。
そしてオークションによってそれがなされることもたしか。
しかし、自分の描いた絵を値段がつりあがることを認識しながらいくらで買うか声をかけまわる行為はアウト。
古物競りあっせん業の許可をもらっているのか。
もらっているなら登録者番号と住所氏名はあきらかなのか。
これは冒頭の「個人の絵描きは所在をあきらかにできない」からできないに決まっている。
できないやつがこれをやるのはもちろんアウト。
そんなに金がほしけりゃ募集口座でも用意したらいい。
なぜ販売によって利益を得たいと思っているのだろうか。
それはもちろん「突然に不特定の多数が購入するかもしれない」からだろう。
不特定の多数に販売するには、というのはもう商法なのでいうまでもない。
金だしたい奴がいるなら金くれと言えばいいだけだ。
資本主義経済ごっこをするな。
個人間でなんぼでも金を融通したらいい。
土地、時間、人員、販売、安全、交通、流通、資材、その他もろもろだれかが手をかけているものがある以上そこに金がかかるし税金もかかる。
それらを使わずに金をやりとりしたらいいだろう。
そもそも金自体も国が発行している借り物なのだから、使うのに法律も税金もある。
欲しいものがあれば買ってもらうパトロンについてもらうのが一番だろ。
なぜそうしない、というまでもないが、なぜそうしないとだけ言っておく。
そもそも色紙に価値がでて転売されるんならコレクターにたいして競売組織を介せばいいだけだろ。
なぜ天売なのか。
金がほしいからでしかないだろ。
作品がどうのとか思い入れだとか手間だとかなんとかだとか、一切関係ないじゃないか。

そもそもに販売すること自体、商法に則らないのはなぜなのか。
税金を納めないからに尽きるだろう。
不特定多数が不特定多数と取引をしているのをどう取り締まれというのかというそれだ。
マルサの女だったか「子分が全部使った、レシートはその段ボールの中」みたいな話があった。
その返しに「これ実質完全な脱税ですよ」と言わせしめたそれだ。

そんなに「売りたい」ならオークションサイト、同人誌ショップ、電子書籍サイトを使えばいい。
それをしない理由は何なのか。
それだけで話はおわるだろう。
ひとまとめにした部分はこれで終わる。

その他「自分のところはちゃんとしてる」「自分のところは公開も認可もある」という人間だってもちろんいるだろう。
そういうちゃんとした人の事情なんかしらん。
水筒に一滴のインクがはいったらどうなるか問題だ。
一点の違反も許容した時点で「自分のところは」が成立しなくなることくらいわかるだろう。
だからだれもあえて言わないだけ。

物量で押して税金も版権も逃げきっているだけ。
高額オークションで落札されたらそれだけでも雑費を超えれば申告対象だ。

仕事として版権ものを販売したものを申告すると内訳はどうなるか。
経費に画材や拘束時間の人件費や設備費に「版権使用料」が含まれるはずだろう。
それを支払わないというのはどういう意味になるか。
「版権を購入して販売してるやつらはバカなのか?」
「版権元でイラストレーターをしている人間はその名前で個人絵を販売してもいいのか?」
という話になる。
バカでもないし雇用契約に違反だと明記してあるだろう。
それを守っているのはどこか。
版権もとがそれを守っているはずだが「個人名を具体的に指摘されなければ問題はない」で押し切られている。
「利用規約に明記されていなければ問題ない」とは鹿乃つの氏か?
「ペンと紙をもっていたら通報する」とは書いていないだけだ。
設けた基準が明確であればあるほど言い逃れができるし、あいまいであればあるほど管理負担が増えるからそうなっているだけ。
それくらいはわかるだろうけれども、わからんやつとわからんふりをするやつが押し切るから結果ときおり問題が噴出する。

だからといってどうと思う所はないが、噴出したことについて意味があると捉えて考える事は必要だろう。
なにが問題か。
色紙売って税金おさめないやつがいるから。
「だいたいの多数のほとんどはそんなことないしちゃんとしている」からなんだと言う話だ。
してないやつがいることの話をしている。
してないやつをどうしているのか、どうするのかという話をしている。
ちゃんとしている、とは「そういうやつらを自費でなんとかしている奴のこと」を言う。
できない企業のリソースを責めるつもりも、自分がちゃんとすることで手一杯な個人をどうこういう話ではない。

性行為と倫理について

売春行為は倫理的にどうなのか、買春行為は倫理的にどうなのか、とかあたまおかしいとしかいいようがない。
おそらく、その刺激的なタイトルから客をまねきいれ右往左往する事例の列挙で翻弄してなにかの語りを読んだ気にさせるだけであろう。
だけであろうし、そうであることは人間のこれまでの文章作成の題材に使われてきた経緯のそれをみてもわかる。
結局答えなぞでない。なぜならそもそも問うてはいないからだ。
または問いの方向性、宛先が違っている。永遠に文字を入れ込むためだけの題材を選んでいる。
ただただポルノ的な内容を倫理や道徳、哲学といった表紙にしておけば年齢制限をしなくていいという、教育的内容であるかのような視座であることをほのめかすことで閲覧数を稼ごうというだけの人の内側がみてとれることこそ哲学だろう。

売春行為や買春行為が問題かどうか、なんてことはそれに限らない。
詐欺でも窃盗でも破壊行為でも信号無視でも殺人でも全部同じだ。それら自体はなんの問題もない。
「ダメとは言われていない」ものだ。
しかし実際に被害が発生した場合にとられる内容は決まっている。
はっきりとそれが進んでいるとわかれば介入するというきまりもある。
それが悪いとか悪とか禁止というものとは別物だ。
いいかげん事例を列挙していれば気が付きそうなものだが、そういう話をまぜると結論に近づいてしまうので誰も言わないのだろう。

だから実際に犯罪行為は発生している。だれもそれを禁止していないからだ。
「詐欺の話をすると厳罰に処す」とか法律を作ればだれも詐欺行為を開始しようとはしないはずだ。
しかし映画のセリフで詐欺行為をした場面を録画されれば逮捕され厳罰に処される事になる。
映画の撮影をするという手前で実際の撮影と「実際の行為」を行い行為自体を正当化してから無駄に使った映画作成の経費を賄い、フィルムは捨てれば合法的に違法な取引ができる。
そんな経過の中身を精査するような手間を都度行っていては捜査も進まないし犯罪の認定にも多くのリソースを消費するし、そのためにあらゆる問題を解決するとりくみがスタックする。
最速のための最善として許容をする必要があるのは言うまでもない話だ。

それをあの事例はどうの、あの時はどうの、あの時代は背景がどうのと事例をあげることには意味がない。
戦争中に人に向けて発砲することについて審議し許可を得て許可証を提示し同意が得られてから発砲などするわけがない。
その場合はそうだったという事について問題的を洗い出すのなら「人にむけて発砲する行為は倫理的にどうなのか」という話だろう。

もちろん当然あたりまえの話で「人に向けて発砲する行為が倫理的に」良い時代や許可されている環境や場面、禁止されている事や場合も多くある。
いちいち、いちいちそれを例にあげる事になんの意味もない。
そこではよしとされていて、ここではだめとされている、だけの話である。
さまざまな例をあげ、関心を「刺激的な文字列を読んだり発したりする事の快楽」を求めているだけの倫理や哲学には何の意味もないどころか「倫理的に大罪」だろう。
快楽のために非道徳的な情報を無意味に見聞きするために使っているだけという退廃的な行為なのだから良いわけがないだろう。
その快楽の幻覚作用のなかで見出したものにも稀有な価値があるかもしれない、という逃げ方もするだろう。
麻薬が合法になるべきみたいな話に近い。
麻薬も合法である場面や国や背景があって、そうでないものもある。また事例をあげての話になる。
こうやって「哲学的に」という意味不明なループでこすり続け「倫理的」という謎の終点に掠るかどうかで絶頂をむかえようとする変態的な行為と言えよう。

では結局「売春買春の行為と倫理」を合わせて話題にするならその変態行為以外にはないのか、といえばあるに決まっている。
そもそも哲学として倫理に問うて考えればいいだけである。
哲学も倫理も「良し悪しを決定するための宗教」ではない。
過去の人間が出した詩編に沿わせて心地がいいかどうかで決めようとこね回すことが気持ちいと気付いてしまったがゆえに変態行為をする王道となっているだけである所を避ければよいだけだ。

良し悪しはいろいろかわる。
視点や場面でかわる。
だとそこに意味はないし、そこはどうでもいいだろう。
すると「その良し悪しは何が決めているのか」という支点となっている部分を探せば「倫理的なもの」だろう。
倫理を境界線としてそこから先が犯罪、そこより内側が合法として「犯罪は悪」なぜならば全員が損をするから、「合法は善」なぜならば被害は最小に抑えらえるから、だろう。
高潔な人間には許可される、貴族には、金持ちには、政治家には、から貧民が行えば罪、この民族が行えば罪、この種類の人間であれば罪、と定めるのに理由をつけるのが「倫理」。

人間という物質の行為からいえばそんなこじつけに意味はない。
しかしそのルールによって「多数の暴力が動き、是正を試みる」という準備を社会と呼んでその背景にあって良し悪しを決めるこじつけをつくることで法則性がうまれる。
法則があれば応用もでき活用もできるというあたりまえの仕組みなだけである。

すると売春買春、ひいては性行為についての「倫理」がどんなものであったかというのはその仕組みに良し悪しをつけた倫理とそれをこじつけた哲学という引用方法を見ればいいだけだろう。
登場する要因をまとめると、「社会」という暴力を準備した機関、範囲内において「強制されるルールとそれ意外」があり、その策定には「倫理」がある。
倫理を編集したり行使する場合に手段として選択したりすることに「哲学」がある。

ではあらためて「性行為に金銭がからむことについて」を「特定の社会において」か、もしくは「目的が何かである想定の社会にあってはという予想」という絡ませ方になるだろう。
日本で売春がダメな、というのは対象や範囲が決まっていてそんなものは調べればわかる。
いちいち条文を転載して、刺激的な事例をあげてよいのかわるいのかこねくり回す必要はない。
どうしてそうなったのか、は理想とする社会のありようについての構想が「倫理」としてあるからであり、倫理の骨子を担うのが「哲学」だろう。
ただそれだけの話である。

そんなあたりまえの話の上で「売春買春行為が倫理的にどうなのか」などという問いをわざわざ発生させる理由は何か。
「禁止されている事例と刺激的な違反行為を例にあげるという形で発表したい、題材としてとりいれた文章を発信したい」目的以外にあろうはずもない。
だからこそ大量の例を垂れ流すのみでなんの倫理も哲学も話をしない。

これを哲学や倫理と呼ぶから、ゲスな話で笑う人間の事を哲学者だのなんだのということになる。

倫理的、哲学的、社会学的、常識的、そういう事について問うということは「そういった刺激物で情報発信料金を取りたい商売」であるというだけの話である。
平和のために創られた法律や安全のためにつくられた条文について、それらによって得られた結果は毎日毎秒、いまでも常に得られつづけている。
いままだ死んでいないのは安全や平和が保たれているからだ。
それに感謝をするという事ができないから、だれもその価値に支払いをしようなどとは思わない。
反対に危険については備えようと金をはらう。
可視化できていなかった自分自身の安全や平和の価値を相対的に評価するために他人の不幸を買いあさる。
その買いあさる他人の不幸が、過去の事例を叩き売っている研究だろう。

性行為と倫理の話を、要点だけかいつまんで目的をそれらの関係性についてのみに絞ればあっというまに話はおわる。
性行為の方法と内容、規模を管理すべきかどうか、それは何のためにかという事になる。
戦場で極限状態の人間を倫理やルールに沿った行為をさせるための精神状態に調整するために必要なのは衣食住と達成報酬の金銭だけでよいのか、それで正常に機能するのか。
その上で投入せざるを得なかった性行為への干渉なのかとか。
他に選択肢が多くある中で刺激をもとめる余剰があまりすぎて消費のために許容を押し切られているのかとか。
そんな関係性を倫理にもとめれば他の全ての価値観にも言える話で、する意味がない。

題材をそこに絞ったのはただ単に刺激と可燃性が高いからとしか言いようがない。
性行為について、何をもとめてその題材にしたのかが、観客の興奮や延焼の広さを期待したものでないなら、性と社会のあるべき姿をなにかしら想定したうえでの話にしなければ無限に例をあげるだけの性行為自慢大会にしかならない。
現にそうなっている場面しかないし、あるべき想定の例をだれも「倫理構成」や「哲学考察」をもって「その想定された社会の機能」をシミュレートした中から有益な取り組みを発見しようなどと思った人間がいない。

漫画や小説にある理想的な社会みたいな思考実験がそれに近いけれどもだれもその背景から実際の問題解決のための有益な情報を引き出そうと思考実験するために使ったりしていない。

根本的に「性行為で被害を受ける女性」の救済や「性行為の問題に解消を必要としている男性」への対処など、話題の具体性がない。
具体性がないから方向はばらばら、良い事例や悪い事例をあげて、そこで受けた刺激で変化した心の形をみたい、ききたいというだけの話題となってしまっている。

それではAV監督となにもかわらないのではないだろうか。
「性行為と倫理」という話題で多く例を列挙し、そこで歪む表情やあらわになる思考を眺め見て、新たな異常性を発見してとりいれて発揮していこうという姿にしか見えない。

AIより賢くはなれないのが人間

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成人した大人は賢いが老年は老いて理解も乏しく行動もできず愚かで、年下も成熟してはおらず愚かである。
自分の世代からみた視点で観測するとどの世代であれ、何の属性についてでもそういう見え方にはなる。
目は二つしかついていないのだから。


「私はたこ焼きがすきではない」
これが否定文だろうか。いや否定文ではない。
私とたこ焼きの間に否定的な感情が存在する可能性についてのみ言及の域に達していて、好きの度合や思考の余地については存在していない事を表現しているに過ぎない。
「私が好きな事・もの」を聞き出すというミッションにおいて、好きに到達している品目ではない、対象外である、肯定の反対であるという値を得られたという事である。
肯定の反対が何であるかを設定していれば、その解答を選択したという肯定的な質問である。

これは他にも多く感想を持っている方を見受けらえたが「ピンクの象」と同じである。
この世に存在するものはすべて存在していて、存在を肯定され、肯定されている存在である。
なぜならば、存在しないものは存在しないからだ。
ベクトルの反対側、存在しうる振れ幅で存在していないものを虚数ともしたろうけれども、それは「可能性」の「存在」を肯定したものであり、実在の情報である。
つまり、1+1が2であったり、1に足したものがマイナスの1でゼロになることも両方ともがマイナスの1で結果マイナスの2になることもあるだろう。
1が変数としての1でマイナスの1が代入されていたとか、それ以外のものが入っていたにしても「プラスの足し算・加算」という関係性が2つの整えられた前提に対し行われた結果はかわらない。
これが8とかGとか鐵とか答えが返ってこないという肯定の上になりたっているからなのは当然である。
1+1はGである、では1+2は?という設問にたまにあたりが出てくる、という事を1+1の「否定」とは言わない。

AIなんちゃらの界隈はその程度なのか、それともそれほどの程度を求めているのか、さっぱり知れない。
知れないので意図としてAIにも人間の「なんにせよ答えを出して追加の説明を生成する」という事自体を意味とする、意味の創出こそが人生の意味というなんとも人間らしい動作を求めているのか単にわかってないだけかは判らない。
ともあれ「ではない」は否定ではなく一つの出力結果であって、式のなりたちを否定はしていない。
否定しているとすればそれを内包する環境、世界を否定しているという事である。

「私が好きなもの」という選択可能なものがこの世界にはいくつも存在している。
そこに「たこ焼き」が含まれていない。
「たこ焼き」が属するカテゴリに「好き」はない。
それらの条件を成している状況が言及するに能う量が、「たこ焼き」と「回答状況」において存在している、という事。

これがもし否定だとするならば、逆転して式を成そうとすると
「どのタイミングで」
「何について質問したときに」
「どういう状況なら」
「選択肢からたこ焼きを外すことになるか」
となる。

「もしあなたが小麦アレルギーや海産物アレルギーではなく、食せておいしく感じられ触感も問題はないたこ焼きについて衛生管理がされており不安ではない場合、小腹が減った状態で訪れた商店街で食べたいものとして候補を挙げるなら、たこ焼きは入るか?」
という質問でなければ
「私はたこ焼きがすきではない」
に成り得ない。
「私はアレルギーがあって食べられないし、食べることが出来たとしても、決死の覚悟で食べるにしても、今の状況で選択肢にたこ焼きを挙げるほどではないし、選ぶくらいならその上の選択肢であるはずの食べないを選択する」
でもなり得る。
「私はたこ焼き自体は好きだが、たこ焼きに親を殺されたのですきではない」
でもなり得る。

 

しかし少なくとも絶対に
「私はたこ焼きがすきだ」
の反対は
「私はたこ焼きがすきではない」
ではない。
すきだを否定しているわけではない。
否定しているのはたこ焼きでも私でも好きでもない。
これを否定文と言っているならば、何を否定しているのか把握しなくてはならない。

 

これはどこにでもいる
「なんでも否定することで悦にいって満足しているすぐ反なんとかになって逆張りしてめちゃめちゃにすることが偉いと感じている破壊こそが威力で力で威厳で地位でクリエイティブと勘違いしている奴」
だ。


「ではない」を否定だと思って、それを付ける事で「否定をした」と考え、否定であるのだから「肯定している」という実感を得られる。得ている実感の肯定は「私のもの」と勘違いし、自分はその「否定したはずの肯定」を勝手に得られた感覚になる。
そして相手にそのカスハラのような無限の選択肢のうちの個別対応を迫り迷惑をかけ時間を奪う事で、「肯定した自分の否定」というマウントをもってして、相手を叩きのめした強い奴だと勘違いしてその名誉を自分で賞賛して満足する。
これが反なんとかという傾向、すぐ逆張りして否定的な意見で場を見出し、かつ自分はデバッガとして優秀みたいなポジションにいる秀才である、人より秀でてあたまがよいと自覚している平均より上のはずの存在であると感違いする奴である。


ネットは広大だわ」とつぶやく自分かっこいい、みたいなものである。
「宇宙は無限だわ」ということで無限にひとしいそれらを隅々まで知り尽くした上での一言みたいに思っている奴である。


計算式をつくる仕事をしていたり普段からそういう構造に直面する事がおおい人間ならば、具体的に言語化されずとも感じてはいる事だろうと思う。
それぞれにそのしかるべき対応を知っていたり、取らざるをえなかったり、それが仕事の人も多いだろう。
AIが否定文を理解できない、と表現する人間にとっては、そういう世界観なのだろう。
これからまだまだ時間はある。そのうちに気が付けばよい。

自分の前で自分の管轄でそれをされたら、知っている人間はしかるべき対応をとっていくだろうだけの事。

「”否定”したのになあ」とか「”否定”なこともわかってないw」「否定の”否定”だよ」と思っている、感じている、それが存在していると思っていることに支障の無い生活をしているならば、それで充分だろう。
ショッピングモールのフードコートに行って、レジで「うどんがたべたいなあ」といってうどんの注文を通され商品を持ってこられて料金を請求されても「ほしいと言っただけ」で済むと思っているのだろう。
それで済む人間ももちろんいる、そういう状況にしてくれる環境のある人間もいる、またそういうシステムだってあるだろう。
ただそれは他の多くで展開されている環境や多くの人間にとっては異常な事であるという事なだけである。
それを知るべきかどうかはその環境にいる人間や想定された範囲であるかどうか、また手段をもっているかによって変わるけれども、すくなくとも「自分以外の価値観は、自分以外にある」という事だ。


計算式をつくり数字をいれたら、うまくいかないのだが、という時は世界がおかしいとか常識がおかしいとか環境が変だとか、そのスケールにアップする前に式に投入したものが成分的に「望ましい回答」につながるものだったかを試すべきだろう。
もちろんする必要などないし、今まで通りなんでもぶち込んででてきた結果の傾向から察して、その途中式を他人に投げることでどこかのだれかがそれすらも式として完成させ論として成り立たせてくれるかもしれない。


しかし「ではない」はどこにころがしても、どんな場所であっても状況であっても、何であっても「否定」ではないし、もし否定しているとすれば「極小の1事例以外の全てを否定してみせている」というトンデモであるという事には気が付いてもらいたい。
世界の全てが敵になったとしても僕が味方するというそれに近い。
近年までそれは美談として高硬度の安定的な価値を保っていた。

しかし最近の情報化社会が至った結果のひとつとして「世界の全てが君の敵になったとしたら、それは君に非があるかもしれない」というミームが存在した。
この可能性の領域に人間の知識の手が伸び始めているという事でもある。

今「ではない」マウントで快楽を貪っている知的上位者の賢者で秀才、天才の皆はその約束された地を追い出される日の存在を知り得てもらうべきだろう。
終わりや限り、また立ち退きの存在を知ってしまったら、それにむかって進んでいる事も知るだろう。

タトゥー・刺青が問題とされる100の理由

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もうええでしょ。いつまでやるんですか。

 

Q.肌に模様を描いただけで何が問題なのか。
A.肌に模様を描くのが問題です。
問題であることを問題だと言っているのがわからないのは、何が問題かわかっていないため会話が成り立たない。
ただの絵が人を襲うわけでもないというのなら街頭のポスターに制限が必要な理由がない。

じゃあ他に皮膚のトラブルを抱えている人は同じ目にあうのか。→あいます。
説明が必要になるので説明をすべき。説明の上問題がないのであれば問題のない扱いを受けるべき。
人がみなそれを知らんのは当たり前。バーコードの入れ墨を入れていてそれが管理上の必要があると説明があるなら、差別はされるべきではない。
今、人体にマークをして管理をする組織が合法的に存在しているか?

 

Q.タトゥー・刺青ごときでビビッてんじゃねえよ。
A.ビビらすことが目的であると言っているのが問題です。
包丁を持って「これで人を刺すこともできるんだぜ」って言う必要が今そこにあるという事についての意味がわからないのであれば会話が成り立たない。

 

結果:会話の成り立たない人間の入場制限が必要である。
風呂とトイレの差もわからない人間を共同浴場にいれるべきではない。
そんなものわかってるというのであれば、絵が入っている事やいままさにその目的で使っている事についてのタトゥー・刺青の何が問題か会話をしている理解ができるはず。
できていないので類推して風呂とトイレもわからないだろうし、利用料金の授受についてもドヤれば安くなるサービスだと思っているだろうし、自分はすごいので敬意を払い優先されるべきだと思っていると類推される。
そうでないのなら、そうでないと説明をすべき。説明がなりたっていないので、その時点で排除の対象となっているだけ。

 

Q.タトゥー・刺青を入れている意味、機能、価値を説明したが問題があるのか?
A.あなた一人だけの胸の内の事情を説明されても、それを共有して共同生活圏の価値に加える事はできません。
自分はそうじゃない、自分はこうだからという事で、たとえば祖母が危篤でスピードを120キロオーバーしながら公道を走行し赤信号を無視することが許容されるべきなのかどうか。
社会の機能で保障されている範囲内の行動つまり合法的な範囲での交渉、サービスの授受はあるべきだが個人の都合でそれを変更することは許されていない。

Q.タトゥー・刺青はただのファッションですが。
A.ファッションはドレスコードに従ってください。
水着やメガデスのTシャツを着て温泉に入りたいのですがよいですかと聞かれてそれは運営上の様々な問題を回避するためにご遠慮いただいておりますと言われたら従うべき。
ここはTシャツでの入場は認められませんと言われたら人権問題に発展するのか、刺青のお客様はファッションをどうにかしてからご来場くださいとなるだけ。

 

結果:あなたのおしゃれがどこでも通用すると思っているならそれは社会的な慣習や常識が欠如しているのでご退場いただきたい。
葬儀に普段着でいくのが何が問題かわかっていない人には喪服できてほしい旨を伝え、どうしても状況や事情を鑑みて特定の衣装で行きたいと要望があればそれを見て理解ができない参加予定の参列者にも事情を説明して許容を用意する必要がある。
制服やドレスコードも同じで、なにをしている人間なのかわかりやすくするため。
作業スタッフや関係ない通行人が、特定の事情のある空間にまざって同じ行動をしていたとしたら不信に思う事があるから。
香典パクリにこられたり、サービスを受ける対象者ではないのに優良サービスを立場利用で受けているつまりサービスに対してみあわない対価を要求されたものだったとされるなど。
人の土地に勝手に広告だしてはいけないように、特定の地域で出店するときは看板や外装などは自治区のルールに従うように、など。
できないのであれば、できる場所に移動していただきたいだけ。

 

逆に、なぜタトゥー・刺青がファッションとして認められ取り入れられ一般化されることを希望するのか。
服ですら、特定の傾向がある場合には制限を設けることがある。提供するサービスなどについて問題を低減し対象者を明確にしよりよい運用を求めるためだ。
タトゥー・刺青を一般化したい派はドレスコードなどについてもなくすべきだと思っているのだろうか。
宗教上のものからアピールしたり表現したいアートから、制服まで。
駅員のファッションをした人間に全然ちがう路線を指示されひどく遠回りをしても「おもしろイベント」で済むのだろうか。
警察ファッションをした人間から赤切符を切られたら「おもしろイベント」で済むのだろうか。
もちろん「おもしろイベント」で済む人間は一定数いる。
それは「あなただけの価値観で世界は回ってない」にあり、それは違反で違法なので取り締まられるべき。
自分はOKなので世界が変わるべきというのは、「世界を変えるために個人の行動欲を実現させかねない」危険な人物として社会的に保護されるべきになる。


タトゥー・刺青が有意義で価値がありファッションとして認められるべき点があるなら「そんなの個人の自由だから」以外を出していくべき。
個人の自由が通るなら5000兆円ほしい個人の意思も尊重されるべき。
なにが違うかわからん、なぜ同じにしているかわからんという話なら「わからない事が問題である」に気付くまで立ち入るべきではない。
足元のちいさな生き物がいたなんて知らないわからない、だから踏み入ったが踏みつぶしたなぞしらんかった、で済まないから入るべきではないと言っているだけ。
じゃあ先にそこにいるとなぜ説明してくれないのか、と今説明しているのにわかっていないから立ち入り自体を禁止したという事自体わかっていない人間とは会話が成立していない。

 

つまり「タトゥー・刺青を肯定させるためには、肯定させる情報を発信する必要がある」一択である。
その一択を捨てている時点で不適合である。不適合であることを適と説明できない状態で不適合ではないと否定する方法は「暴力的」の一択である。
現に暴力的な論でしかないので、それを排除する機能をしている。なぜ暴力的ではないという事をわかってくれないのかと説明をしてもらればわかりあえる可能性はある。
その説明を既にしていると、されてもいないのにしている感覚になっているズレを正す方法が「こちらの説明を聞いてもらう」「そちらの説明をしてもらう」で不可能なので、関係性の排除しかない。


タトゥー・刺青のおかげで救われた話を、バラバラになった肉片からみつけることができました以外の美談であげてもらう必要がある。
なにひとついいことがなかったそのタトゥー・刺青に、なんの配慮が必要なのか。

b.hatena.ne.jp

 

部下の出来なさ自慢は上司たるもののインセンティブである。
人より上に立ち、より大きな責任とプレッシャーに苛まれながらその実やってる事は部下と同じ。
つまり部下と同じ作業をしながら同班のリーダーとして管理と指示と責任を負わされる役目、それが日本の管理職である。


額面においてのみ給料の差で役職がある、つまり役職があれば給料が変わるという単純なシステムは日本の政治が一旦出したらまるで世界や歴史を肯定した功績のように不変であるべきとされる様子にも見える。


実際は仕事の内容によって、責任によって変わるべきでありそれは給与が変わらなくとも職務内容に反映されるべきである。
職務内容に反映されるべきであるから結果的に額面はかわるものだ。
残念ながら日本はそのつながりを見いだせていない。
なぜ給料が違うのか、それは偉さが違うから。
それは立場が上だから。
それ以上の意味はないのだ。

それならば日本の役職、中間管理職がインセンティブを受け取るものがあるとしたら飲み会で職位を自分で紹介する時か、部下の出来なさ具合を自慢する時にしかない。
全くもって正義であり正当であり、当然の権利として自分の担当している部下たちの、いかにして部下でしかない人間であるかを披露することにより自信の地位の高さを表現し自身の能力の輝かしさをその部下たちの薄暗い勤務態度で照らし輝かせる必要がある。
そうしなければ、職位の存在の意味を人は、日本人は見失ってしまうのだ。

これは恒例行事であり慣例であり汎用の通例であり、社会通念であり理念であり哲学である。
そのため「そこにあるもの」として認識される以外の事はされてこなかったし、これからもされることはない。
だが一旦、その社会構造からはずれて見ると、それこそが「永遠に満たされない腐敗の浴槽」であり常に腐敗を呼び込み我々がその身をそこに浸しているのかという事に気付かされる。

できない部下が行っているのは実務である。実際に成果をあげるべき所で、所詮部下でしかない人間は部下なりの知識や能力で部下程度の仕事しかしない。
上司である管理職にまで昇華した上層のシゴデキ人間にして選ばれた人類からみれば愚の骨頂、愚者としての真髄を獲たまさに部下でしかない程度の人間の所業である。
一つの歯車としての視点、視野を持っている、保っている限りはそう映るのが当然である。
そこにない者、実務者や当事者と関係ない人間から見れば幼子ですらその違和感に気付く。
外見的にそれなりの人間で立場のある人間、責任がさもありそうな人間に指摘される事で気が付く事もある。
その役割をいわゆる「コンサルタント」が行っている。
コンサルが高い給料を貰ってどこでもひっぱりだこな職業であるのは、このためである。
実質、実態効果を現実に求めてその具体的な内容を明確にするためには、小学生に見てもらうだけでも十分である。
中学生に「仕事をするならどんな事が問題か」と作文を書いてもらっても同じ結果は得られる。
むしろ小中学生のほうがより具体的で明確に、そしてより安全で確実な方法を提案する事すらある。
しかしなぜ成人した能力に見合わないほどの多額の報酬を受け取るコンサルタントに仕事を依頼するのか。

高い金でいい生活してる人間から指摘されると、それなりだろうと感じるからである。
部下がゴミでなんの役にも立たない最底辺の人間で、能力の高い俺様が上司で給料をもらうためにしかたなく付き合わされていると考えている人間には、金もってるえらい人という情報だけで従えるのだ。
子供のように無邪気で自由で奔放な、なんの遠慮も常識もない人間が企業に対して「コンサルタント」と売り込めばバカ売れするのはウォーターサーバーと変わりないところだろう。

しかし、その常識を一旦、いままでもこれからも普通であり当然でありあたりまえの固定概念である「部下は上司に比べてただバカであるから部下でしかない」という概念を捨ててみてほしい。
「上司は偉く強く信頼され実績を認められその価値があるから人の上に立ち、部下を土足で踏んでその上に立っている」というあたりまえのふつうから離れてみてほしい。
人の上に立つということは同じ人間であっても遠慮なくなんの呵責もコストも制限もなく踏みにじる事が出来て、実際その関係性だけから気分一つで部下の人生からその家族全体、一族の末裔までも自由にできるという概念に疑問を持ってみてほしい。
謝るという事、間違いを認める事、改正をすること、非を認めること、それらはもしかして悪くないのでは、時に必要なのではないかと、ほんの少しだけでも想像してみてほしい。
なぜ憲法は変えられないのか、減税はされないのか、えん罪は取り消されないのか、それらは恥で人格否定であり、尊厳を損ない無駄で無理で存在を認められないとされているのか、無心で感じてみてほしい。

産まれたばかりの赤ん坊が歩くことも喋る事もできず、寝かせ方一つで人生を損ねてしまうような生物として最下層の出来損ないの弱者である事を大人と対等に扱う事で尊厳を認めるとして、その手を捻る事を社会でも行えるという常識に抗ってみてほしい。


たしかにそれらの快楽を手放す事の損失や、それを手放す無意味さ虚しさ、それを除いて高い立場にいることの無意味さを感じる事だとは理解できる。
しかし一旦、一瞬だとしても常識として得られている現在の価値や意味、尊厳や愉悦の摂取を止めてみてほしい。

人間として生まれて五体が満足であり、人の親となれるほどまでに成長しきった母親の体内でぬくぬくと一年も育った子供が、生まれてきてなにもできないなどありえようはずもない事は常識であり見て当然あたりまえに理解ができる事ではある。
そんな恵まれ切った人間に対してただねだることしかせず人の手を煩わせなにか施しを必要とされるなど不届きであることは周知の事実ではある。
あなたが赤子より高い立場で経験もあり判断もでき能力があり力も備えているからこそ、甘え切った軟弱な赤子の手を捻ってやろうと考えるのは、普通にしてあたりまえの当然で常識である。
生まれてすぐにすっくと二本の足で立ち上がり「天上天下」と口にした赤子がいることなぞはどこの誰にきいても当然回答が一致する、人間として最低限のたしなみではある。

それでも、目の前にいるその子供は、あなたの助けが必要なのではないかと、そんな可能性を、ありえない場面にありえない対象にありえない展開としてもし存在できるかもしれないと、言葉遊びとしてでも思考することが可能であるならば、してみてほしい。
あなたの部下は、どんなにくそバカボケカス最底辺の低能力体たらく人格破綻の人間以下なのになにか間違って人権を与えらえた家畜以下の動物であったとしても、あなたの助けが必要としてあなたの下にいるのではないかと、妄想だとしても思考の一つのレパートリーとして加えることはできないだろうか。
もしその部下がどこかのだれかの役割を果たしていたなら、全く関知する必要がない他人であり存在するかどうかもわからないような空想上のだれかかもしれなくても、救いが必要な対象となりえる可能性がゼロではないと心の片隅に置ける余裕はないだろうか。

 

おそらく、部下でさえなければ、目の前にいさえしなければ、手がとどかなければ、どんな人間、どんな生物であれ、あなたの気持ちを曇らせる事はないだろう。
しかし、あなたの手がそこに届くと見えたなら、あなたが一歩踏み出せばなにかを変えることができたかもしれないと認識できたとしたなら、私はきっと人として気持ちとして、なにか行動することに、助力を差し出す事に損失はないのではないだろうかと考えたい。

たしかに、日本は資本主義である。
実態効果に付加価値を計算して、実質容量で評価し社会構造が形成されている。

産まれた年から教育の質や量、仕事の出来で評価から立場が出来て手取りが決まっている。
部下みたいな、平社員といったクズで無能な社会の最底辺は上司である管理職からみれば消耗品としての日々の生活と仕事からみても使い終わった包装であり不用品であり、ただ面白半分に投げて捨ててだれかに処分を任せる代物かもしれない。
そんな部下を持った管理職を、その管理を任されている上司としてできない管理職であり部下ともども役立たずであると、手取りの少なさを補填するだろう。
そしてその管理をしている上司もまた、クズの社員を管理しているできない上司を持ったお荷物部署の管理職だと罵倒をすることで日々の鬱憤を晴らす事だろう。
日本の社会がそういうった形で経済を回して社会を構成して「すごいぞジャパン」ができている事は重々承知の上である。

しかし、下の下の下の人間がミスしたことは、他人の他の部署のだれかのミスは、笑って話すことで教養になりえる事もあるとは思う。
しかし、あなたの部下は、あなたの手で良くする事はできないのだろうか。
あなたは、あなたの部下をよくすることは、守る事はできない人間なのだろうか。

自分が出来ないことを、自分の能力の無さを、能力の無さから生まれた部下の失敗を、失敗する部下を笑ってみんなに共有してもらうことが管理職としての職務として、当然であるこの現状の日本が自慢の国なのだろうか。


実際、そうなのだろうとは思う。
できない部下に辟易することが当然であり自分を輝かせる価値であることは周知の事実で、現実にあってこのように体現されている。
表現され実在して、証明されている。
上司が部下を育てる、先達が後輩を育てるなどただの言葉遊び、夢の理想で机上の空論であることは、あえて言葉にするまでもない事ではある。

しかし、ほんの数ミリ秒だけでも、この日本においてどこかのだれかが、部下の失敗を守れるのは上司だけだと、すぐに空に解れて散るとしても一瞬だけでも言葉を紡いでも良いのではないだろうか。
慈悲なんて存在しないものをまるで可能性として求める事が許されでもするかのように、ふるまおうとする事を一旦ゆるすことができる可能性を、人間はもちあわせていると考えたい。

残念だが、弱者や後輩や部下、自分のほうがすこしでも多めに責任や取り分が多くなっている比較対象にある立場の人間は、戦って勝てるわけだから戦わざるを得ない。
弱者を叩く事で勝ち上がることが資本主義の原理であることは当然ではある。

「弱者を守る立場として、上がある」という考えが社会という、自然と相反する状況においてのみゆるされる可能性があったとしたならば、それはきっと何かの救いになるのではないかと考えたい。

残念ながらそんな甘い考えが許されるほど現在の日本は豊かで平和で余裕があるわけではない。

30年前の米騒動から、生産業への派遣が許可されてから、いやその10年前の運輸二法から、郵政民営化から、国民に支持される政党が解体を始めてから日本はもう後続を育てる手段を失っている。

税金を使って高い金で大手企業に発注をして、口先だけの企業に下請けに丸投げをする。そしてさらに丸投げをする。ほとんどの予算を使い切って最後の下請け業者が仕事をしなければ死んでしまう人間に仕事をさせる。そして全員から均一に税金を徴収する。

賢く豊かで余裕があり正しく判断をする暇を持て余すのは最上位のみになってしまった。

かつては庶民などは政治に興味などなくても知識などなくても平和に暮らせていた。

現在はもう後がない最下位の底辺の底の底だけが日本を支えて、あとはいかにシャンパンタワーを維持するかでしかない。

 

しっかりと奔放に管理をされず自由になにをしてよいのかわからず結果見聞きしたフィクションのとおりの世界をなぞる哀れな部下を、その実態を放置したまま成果だけを吸い上げ監視の任を苦労として笑い話をネットに流す、日本の管理職としてなすべきことを成していくのみである。

責任の本質:個人の解釈と社会的共有

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責任とは何か、解釈は自由で人それぞれであっていいものだろう。
しかしそれを他人とやり取りするときは相互に同じものとして理解されるべき。
責任とは何か。

まず私の考えている責任とは何かの話をする。
私の考えている責任はデザインであり、責められる役割。

よく聞く話が「なにかあったときにとるのが責任」らしい。
損害が発生したときにとるのが責任らしく、問題が発生したら解決に努めるのが責任らしい。
それは保障の話をしていないか?
「保障も責任だ」、と言い換えて同じものにしようとするのもよいが、ならば同じものとしてそれは責任ではなく保障だろう。

責められるというのは土下座をさせられて無理難題や罵詈雑言を言われ続ける事に抵抗せず非難を受けて不当な処分をされることを受け入れる事だろうと想像しているのだろう。
だからこそ「責められる」という言葉を誰しもが忌避し、その言葉から逃げようとしているのだろう。
その文字の持つ本来の意味がどうであれ、現在の語彙としてその意味がそれならば仕方がない。
しかし社会的な機能としてそんなものが必要なのか?それを保障として交換としたならば、損害は受けたほうが大きく不利なのではないか。
責任という名目で無加減に自信のストレスをぶつけることができる対象がすくない、それほどに安定して安全な社会であるからこそ特権を生みたいという願望だけで成り立っているように見える。

取り返しのつかない損失を出して、ただあやまって代替がないため、労力だけでそれを補填することが認められるなら、態度とはなんでも交換できる第二通貨だろう。
努力で全てが手に入る世界もすばらしいが、そんな評価基準が言いくるめられた心模様ひとつというのは貨幣経済を成り立たせる世界として無理があるだろう。
無理を通すということはもちろん詐欺、不正取引の類である。

責任はなにかが起こる前から発生しうるので保障と同一視はできない。
それも含むとして責任というならもう生まれてきた事に責任があると言うまであってよいだろう。
そんな事はない。責任は責任である。

 

デザインとしての責任、それは責められる役割。
まずその責めというのが被差別を許容という意味ではない。
責める一文字でそれらを意味することがない事からも、それ自体が保障を含むわけではない事はわかるだろう。
貝がついている漢字の系統からして「具体化する」に等しい使われ方をしている。
叱責や問責、責務や責任といった使われ方からして「強く圧力をかけて相手にストレスをかけながらすること」ではない。
具体的に結果や結論を持ったり目指したり、行う事について意義を求める事を行う、具体化するという意味だろう。
ただ行うという事の上に、それを行った上で結果を必要としている様子がその意味として使われているとみれる。

「問題があったらここに電話してください」と電話番号を記載するデザイン。
それは雑談がしたかったらではなく気になる事を伝えるためでもなく感想を述べるためのものでもない。
ただ電話がしたいときや心寂しいときに話相手になってくれる番号でもない。
「問題があったらなにをすればよいか」を「電話をする」に誘導するため、そしてその誘導先が問題に対して受付や助言や解決を促す目的の対応が準備してあるものの所でと言うわけだ。
それを掲載するのが「責任」だ。
そこに責任を負っているから、問題があった時には電話をしてくるはずだから受け付ける準備をしておく必要がある。
問題があった場合に電話をかけたらいいと理解された時点で説明「責任」は果たしている。
電話を取ったら「対応責任」が発生するし、問題と取り次いだら受付責任も、準備してある回答で解決したら解決責任も果たす。
デザインとしてそれらが準備してあって、そこに対応が入り込んだら動作をすることが責任だ。
具体的になにかがあったとき、それを具体的に解決という形にするために対応するデザイン、その具体化構造を任務としているのが責任だと私は考えている。

そうすることで責任が問題発生前からあることや責任を分けたり継いだりすること、責任とは一体なにかを説明することができるようになる。
私の説明はこれである。

 

責任は保障であり、ケースによって変化し、場合によって変わるし、言い方の問題で人によって異なる、としたならばそれは「何か」であって責任でも保障でもなんでもない。
何かがあれば何かをするぞというのは、もう言葉にする必要性もないほどに意味がない。
あー、とかうー、と同じである。
たとえば、赤ちゃんの発する「あー」とは責任であり保障であり権利であり願望であり、生体反応であり知性である、であると言えばそうかもしれないしそんなケースも1例くらいはあるかもしれない。
そんなものを存在させたところで、それをオークションにかけでもしない限り意味も価値もないものだ。

「先生、これは誰に責任を問えばよいのでしょうか?」
と問われている時点で先生は先に立つものとして役割を果たしている。
デザインが機能しているという意味において、責任を果たしている。
もし万が一なにかあったら先生が責任(保障)してくれるんですか、と問うなら、先生に保障を準備してもらえばよいだろう。
万が一問題があって一生重度な後遺症があるとして、先生が保障できるのは毎月千円程度だろう。その保障を選択したいのならすればいい。
必要があれば大手保険会社に保障の十分な保険を構築してもらって購入すべきだろう。
激安の保障を購入しておいて最高級の対応が請けられない事に不満を持つのなら、それが等しくて選択として同一にならぶとした価値観を提示した物に対して詐欺罪を訴えたほうがいい。

 

子供とはいえ「責任能力がある」のだから「自己責任」にさせればよい、という事もあるだろう。
それは各自が問題発生時、解決をすることができそれを超えた場合どういう対応をすればよいか知っているという事なのだろう。
団体行動についてまでは対応できないはずだ。
なぜなら当事者が対応を余儀なくされた場合、対応するものとして団体行動の統率から抜けるからなのは言うまでもない。
ならば組織体として各個人がそれぞれの都合で独立して動くことを定めたならば、全体の維持を規則だてる必要がある。
先生がその中間役になるのもよいだろうし、全員でそれぞれが判断をする局面を決めておくのもよいだろう。
全員で役割を分担すれば完全に自由がなくなる。自由行動をした時点で欠落としてそれを除いたオペレーションに移る必要があるからだ。
先生という部外者に統率を担わせる事で各自の自由も、追加対応に別手段を用意してもらったり他の動作を継続として問題の通達を遅らせる事もできる。
自由行動では1つの班が遅れたから全員で探す、の他に先生に任せてあとで探す、だれかに探してもらう、全員の行動を一つ進めていく間に先生が探す、など選択をし得るだろう。

 

この構造をデザインするこが責任、任を持ったものを割りあてることで行動の実際が具体化したとき物理的に動作ができる事を責任と言うだろうと考えている。
他人が別の何かだと考えていることだろうし、それぞれに思いはあるだろう。
それを共有できなければなんの意味もないし言葉にする必要もない。
「そうも言えるし、そうでもない場合もある、この言葉に含んでいるし、言い換えて同じ意味だ」と言うなら責任という言葉を空気とかハッピーとかに言い換えればいい。
そんなものに意味はないし、意味のない言葉を具体化したところで間違った方向に誘導をするならデザインとして失敗している。
なんの結果も生まなかったり間違った方向にしか誘導しないものを存在させる事はそれすでに問題である。

ただ他人を殴る正当な理由だと思っているトリガーとして「責任」という単語に暴力的な夢や希望を詰め込むのをみるのはいいかげんうんざりだ。

対処する必要

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喧嘩は同じレベルでしか起きない。

 

なめられてるとかそういうのは、いったい何なのか。
ふわっとした概念で危険を察知し対処する、みたいな話なのか。そのふわっとは空気か何かか。
空気が危険ならもう生きていくのはつらかろう。
厳密になにがどうして、どうなるからその結果がどこまで影響して、自分がどんな行動をとるべきか。
基本のきの字はここからだろう。
敵はわからんし危険かもわからんが、対処をしなくてはならない。
霞と戦うならまずその肉体を捨てなければ戦えまい。

外国人が日本に来て好き放題しているのが不満だとのお気持ち表明である。
たしかにそんなお気持ちは私も同じものを持ち合わせている。
だからといって「迷惑をかける人間」と同じ高さに降りて、同じ目線で向かい合って対処をすべき問題なのだろうか。
日本人が目線を同じにすると差別だと言われるし対処をすると犯罪として法に問われる。
そこまでしてまもりたい日本だということは日本人ならば持っている気持ちだろう。勇ましいことである。

まず実行についてだが、日本人がそれを行えば犯罪者としてその後の人生が「外国から日本に来た観光客」程度までに落ちる事は確実だろう。
同じレベルだという事はそういう事だ。
外国人はそんな扱いを受けた所でなんの問題もない。帰る家が日本の外にあるからだ。
勇ましく外国人と同じレベルに落ちて戦える回数は、人生においてそう多くはないという事になる。
人生をかけて取り組みたい事がそれであるならば躊躇はないだろうが、その一回を行ったくらいで何も変わりはしない。
むしろ外国人は罪に問われないので人生において何度でもトライし放題な上に、されたことを迷惑として自分を正当化していける。

武士として戦において名乗りを上げるのが誉というのが、何の意味も持たないというセカンドインパクトである。

では迷惑外国人を見つけたら勇猛果敢に挑んでゆくという事以外で取り組むべきだろう。

ここで「なめられてる」とは何かに戻ってみよう。
その言葉についての意味を考察したならば、それはしている側の思考が完全に反映するわけなので、それは相手の考えている事とは関係がない。
「できそうだから」「問題なさそうだから」「自分のほうが強いとおもっていそうだから」等々思いつくだろう。
それはネットを検索しても見つかる。しかし「なめている」側の相手に聞いてみたのだろうか。
自分が他人に対して「なめた態度をとる」という事で伝わってほしいアピールの願望を並べてみたところで、その言葉の意味としての「なめる・なめられる」と関わりがあるのだろうか。

他人に対して自分の有利さを通せるだろうという憶測がみてとれる、ないしはそれをしようという態度が「なめる・なめられる」ではあるだろう。
しかし、まず最初に「できるかどうかを確認・示唆してくる」という事は相手側もそれを把握できていないという事だ。
実際に自分が強制的に有利な立場を実行できるならば、相手に対して確認などする必要はないだろう。
それを自分がすることによって相手が都合のよい態度に変化してくれることを期待する、自分の実行した結果によらず損害を被らず、余分からあふれ出た何かが実際に自分の結果に貢献することを期待していることを「なめる・なめられる」だと思考しているのではないか。

「いま話題にしている主体は外国人」「なめる・なめられるの基準」という話の流れで、おそらく短絡的に「なめる・なめられる」についてだけ注視した結果では「外国人が虎の威を借りてることがなめた態度ということか?」みたいな話をしているように感じるかもしれない。

外国人はなめた態度などとっていない。

相手の煽りを「なめた態度」だと認識しているのはそれを感じている日本人の側だけなのだ。

「なめる・なめられる」というのは観察側の感覚で、なぜそれを文字にしているのかと言えば「具体的な対処としての対象にその問題をあげるため」に言語化したに過ぎず、外国人が実際に「なめる・なめられる」を所持所有しているわけではない。
その相手がもっていないものを対象に取りにいく、対処する、それについて考察する、ということの意味なさよ。相手がもっていない物について「自分がもっているからあるはずだ」という打算で戦略を立てる事に意味などあるわけがない。

「なめられている」についてどうにかすべきは、そう感じている当人のあたまの中だけだという話である。


では実際に迷惑行為を行っている外国人に対してどうすべきか。
まるで選挙で白票を投票して「世の中がよくなりますように」と問うような、そんな「なめられている態度に毅然としてむかう」みたいなお気持ちを表明してもなんの意味もない。
しかし誰かが結果を出せば「気持ちは出していましたよ」と便乗しようとする。
それは外国人が迷惑行為をする気持ちと、構造的に同じなのではないだろうかと考える。
ここが同一として同じランクに引き込み、同じ高さに目線を合わせ、なんの解決もしないパフォーマンスをお互いに繰り返すという結果になっているのではないだろうか。


ぶっちゃけ注意をしたり行為を止めたり迷惑行為をやめさせようと妨害したりすると、おそらく犯罪として日本人なら捕まるだろう。
そこまでして無意味な人生の終わらせ方を選択すべきなのか。
跡から「悪くなかったよ」と評価されるために、いつかくるかもしれないその日に賭けて日々を過ごす覚悟があるのだろうか。あるのならばそれは趣味の話なのでだれも止はしない。

しかし外国人は迷惑行為をしたところで、というかかなり重度の犯罪でも平常の日々に戻れている。ならばこれを使うべきだろう。
10問クイズでプリウスミサイルに免許を与える事が実際に可能なわけだ。
これを突っ込ませるのに免許なんて必要がない。しかし免許がとれるという事のメリットは何か。
「免許を提示せねば通過できない区画に、ミサイルを突っ込ませる事ができる」という事だ。
まず数トンの鉄塊を百キロオーバーの速度で好きなところに飛ばせる能力はこれで手に入る。
銃社会においてまず実弾を手に入れたに等しいだろう。
モデルガンを尻に刺した外国人なんて目じゃない。4ドアセダンで正面から向かえば拳銃など何の意味があろうか。

東京では広い区画を、封鎖するに至ったらしい。
外国人が暴力行為や騒動を起こすのでバリケードで封鎖されたらしいとの事だ。
これは「外国人の行動を止めることができない」から人に対して対策が取られることなく「区画」について取られたわけだ。
実質問題行動がなんの注意も受けないという事である。

こうなれば外国人観光客による自警団バイトで高額収入が狙える世界になる。
1ヤマ「こなした」なら本国にお帰りいただいて、冷めたらまた「働き」に来てもらえばいい。
政治屋のおえらいさんが引いた計画図面の上に乗っているのはこういう事だろう。

生産もしない、寄与もしない、消費と消耗の取次をするだけの人間を外から入れて出来ることなどそんなもの程度だろう。

そうしていればアメリカでは逮捕されたが、大物ヒップホップの関係者が日本に豪邸をたてて、アメリカではできなかった事をやってくれるだろう。
人身売買と違法薬物で、おそらく周辺の治安程度と富裕層の経済はまわしてくれるだろう。
日本につれてくればどの国でもできない事がし放題で、お咎めなしとあれば日本LOVE間違いなしだ。

その先がどうなるか、あたまのいい官僚のみんなは考えているのだろうけれども、頭の悪い私にはそこまでしか想像ができない。
できないし、できることならそこに至らないでほしいとは願っている。