宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

AIより賢くはなれないのが人間

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成人した大人は賢いが老年は老いて理解も乏しく行動もできず愚かで、年下も成熟してはおらず愚かである。
自分の世代からみた視点で観測するとどの世代であれ、何の属性についてでもそういう見え方にはなる。
目は二つしかついていないのだから。


「私はたこ焼きがすきではない」
これが否定文だろうか。いや否定文ではない。
私とたこ焼きの間に否定的な感情が存在する可能性についてのみ言及の域に達していて、好きの度合や思考の余地については存在していない事を表現しているに過ぎない。
「私が好きな事・もの」を聞き出すというミッションにおいて、好きに到達している品目ではない、対象外である、肯定の反対であるという値を得られたという事である。
肯定の反対が何であるかを設定していれば、その解答を選択したという肯定的な質問である。

これは他にも多く感想を持っている方を見受けらえたが「ピンクの象」と同じである。
この世に存在するものはすべて存在していて、存在を肯定され、肯定されている存在である。
なぜならば、存在しないものは存在しないからだ。
ベクトルの反対側、存在しうる振れ幅で存在していないものを虚数ともしたろうけれども、それは「可能性」の「存在」を肯定したものであり、実在の情報である。
つまり、1+1が2であったり、1に足したものがマイナスの1でゼロになることも両方ともがマイナスの1で結果マイナスの2になることもあるだろう。
1が変数としての1でマイナスの1が代入されていたとか、それ以外のものが入っていたにしても「プラスの足し算・加算」という関係性が2つの整えられた前提に対し行われた結果はかわらない。
これが8とかGとか鐵とか答えが返ってこないという肯定の上になりたっているからなのは当然である。
1+1はGである、では1+2は?という設問にたまにあたりが出てくる、という事を1+1の「否定」とは言わない。

AIなんちゃらの界隈はその程度なのか、それともそれほどの程度を求めているのか、さっぱり知れない。
知れないので意図としてAIにも人間の「なんにせよ答えを出して追加の説明を生成する」という事自体を意味とする、意味の創出こそが人生の意味というなんとも人間らしい動作を求めているのか単にわかってないだけかは判らない。
ともあれ「ではない」は否定ではなく一つの出力結果であって、式のなりたちを否定はしていない。
否定しているとすればそれを内包する環境、世界を否定しているという事である。

「私が好きなもの」という選択可能なものがこの世界にはいくつも存在している。
そこに「たこ焼き」が含まれていない。
「たこ焼き」が属するカテゴリに「好き」はない。
それらの条件を成している状況が言及するに能う量が、「たこ焼き」と「回答状況」において存在している、という事。

これがもし否定だとするならば、逆転して式を成そうとすると
「どのタイミングで」
「何について質問したときに」
「どういう状況なら」
「選択肢からたこ焼きを外すことになるか」
となる。

「もしあなたが小麦アレルギーや海産物アレルギーではなく、食せておいしく感じられ触感も問題はないたこ焼きについて衛生管理がされており不安ではない場合、小腹が減った状態で訪れた商店街で食べたいものとして候補を挙げるなら、たこ焼きは入るか?」
という質問でなければ
「私はたこ焼きがすきではない」
に成り得ない。
「私はアレルギーがあって食べられないし、食べることが出来たとしても、決死の覚悟で食べるにしても、今の状況で選択肢にたこ焼きを挙げるほどではないし、選ぶくらいならその上の選択肢であるはずの食べないを選択する」
でもなり得る。
「私はたこ焼き自体は好きだが、たこ焼きに親を殺されたのですきではない」
でもなり得る。

 

しかし少なくとも絶対に
「私はたこ焼きがすきだ」
の反対は
「私はたこ焼きがすきではない」
ではない。
すきだを否定しているわけではない。
否定しているのはたこ焼きでも私でも好きでもない。
これを否定文と言っているならば、何を否定しているのか把握しなくてはならない。

 

これはどこにでもいる
「なんでも否定することで悦にいって満足しているすぐ反なんとかになって逆張りしてめちゃめちゃにすることが偉いと感じている破壊こそが威力で力で威厳で地位でクリエイティブと勘違いしている奴」
だ。


「ではない」を否定だと思って、それを付ける事で「否定をした」と考え、否定であるのだから「肯定している」という実感を得られる。得ている実感の肯定は「私のもの」と勘違いし、自分はその「否定したはずの肯定」を勝手に得られた感覚になる。
そして相手にそのカスハラのような無限の選択肢のうちの個別対応を迫り迷惑をかけ時間を奪う事で、「肯定した自分の否定」というマウントをもってして、相手を叩きのめした強い奴だと勘違いしてその名誉を自分で賞賛して満足する。
これが反なんとかという傾向、すぐ逆張りして否定的な意見で場を見出し、かつ自分はデバッガとして優秀みたいなポジションにいる秀才である、人より秀でてあたまがよいと自覚している平均より上のはずの存在であると感違いする奴である。


ネットは広大だわ」とつぶやく自分かっこいい、みたいなものである。
「宇宙は無限だわ」ということで無限にひとしいそれらを隅々まで知り尽くした上での一言みたいに思っている奴である。


計算式をつくる仕事をしていたり普段からそういう構造に直面する事がおおい人間ならば、具体的に言語化されずとも感じてはいる事だろうと思う。
それぞれにそのしかるべき対応を知っていたり、取らざるをえなかったり、それが仕事の人も多いだろう。
AIが否定文を理解できない、と表現する人間にとっては、そういう世界観なのだろう。
これからまだまだ時間はある。そのうちに気が付けばよい。

自分の前で自分の管轄でそれをされたら、知っている人間はしかるべき対応をとっていくだろうだけの事。

「”否定”したのになあ」とか「”否定”なこともわかってないw」「否定の”否定”だよ」と思っている、感じている、それが存在していると思っていることに支障の無い生活をしているならば、それで充分だろう。
ショッピングモールのフードコートに行って、レジで「うどんがたべたいなあ」といってうどんの注文を通され商品を持ってこられて料金を請求されても「ほしいと言っただけ」で済むと思っているのだろう。
それで済む人間ももちろんいる、そういう状況にしてくれる環境のある人間もいる、またそういうシステムだってあるだろう。
ただそれは他の多くで展開されている環境や多くの人間にとっては異常な事であるという事なだけである。
それを知るべきかどうかはその環境にいる人間や想定された範囲であるかどうか、また手段をもっているかによって変わるけれども、すくなくとも「自分以外の価値観は、自分以外にある」という事だ。


計算式をつくり数字をいれたら、うまくいかないのだが、という時は世界がおかしいとか常識がおかしいとか環境が変だとか、そのスケールにアップする前に式に投入したものが成分的に「望ましい回答」につながるものだったかを試すべきだろう。
もちろんする必要などないし、今まで通りなんでもぶち込んででてきた結果の傾向から察して、その途中式を他人に投げることでどこかのだれかがそれすらも式として完成させ論として成り立たせてくれるかもしれない。


しかし「ではない」はどこにころがしても、どんな場所であっても状況であっても、何であっても「否定」ではないし、もし否定しているとすれば「極小の1事例以外の全てを否定してみせている」というトンデモであるという事には気が付いてもらいたい。
世界の全てが敵になったとしても僕が味方するというそれに近い。
近年までそれは美談として高硬度の安定的な価値を保っていた。

しかし最近の情報化社会が至った結果のひとつとして「世界の全てが君の敵になったとしたら、それは君に非があるかもしれない」というミームが存在した。
この可能性の領域に人間の知識の手が伸び始めているという事でもある。

今「ではない」マウントで快楽を貪っている知的上位者の賢者で秀才、天才の皆はその約束された地を追い出される日の存在を知り得てもらうべきだろう。
終わりや限り、また立ち退きの存在を知ってしまったら、それにむかって進んでいる事も知るだろう。

タトゥー・刺青が問題とされる100の理由

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もうええでしょ。いつまでやるんですか。

 

Q.肌に模様を描いただけで何が問題なのか。
A.肌に模様を描くのが問題です。
問題であることを問題だと言っているのがわからないのは、何が問題かわかっていないため会話が成り立たない。
ただの絵が人を襲うわけでもないというのなら街頭のポスターに制限が必要な理由がない。

じゃあ他に皮膚のトラブルを抱えている人は同じ目にあうのか。→あいます。
説明が必要になるので説明をすべき。説明の上問題がないのであれば問題のない扱いを受けるべき。
人がみなそれを知らんのは当たり前。バーコードの入れ墨を入れていてそれが管理上の必要があると説明があるなら、差別はされるべきではない。
今、人体にマークをして管理をする組織が合法的に存在しているか?

 

Q.タトゥー・刺青ごときでビビッてんじゃねえよ。
A.ビビらすことが目的であると言っているのが問題です。
包丁を持って「これで人を刺すこともできるんだぜ」って言う必要が今そこにあるという事についての意味がわからないのであれば会話が成り立たない。

 

結果:会話の成り立たない人間の入場制限が必要である。
風呂とトイレの差もわからない人間を共同浴場にいれるべきではない。
そんなものわかってるというのであれば、絵が入っている事やいままさにその目的で使っている事についてのタトゥー・刺青の何が問題か会話をしている理解ができるはず。
できていないので類推して風呂とトイレもわからないだろうし、利用料金の授受についてもドヤれば安くなるサービスだと思っているだろうし、自分はすごいので敬意を払い優先されるべきだと思っていると類推される。
そうでないのなら、そうでないと説明をすべき。説明がなりたっていないので、その時点で排除の対象となっているだけ。

 

Q.タトゥー・刺青を入れている意味、機能、価値を説明したが問題があるのか?
A.あなた一人だけの胸の内の事情を説明されても、それを共有して共同生活圏の価値に加える事はできません。
自分はそうじゃない、自分はこうだからという事で、たとえば祖母が危篤でスピードを120キロオーバーしながら公道を走行し赤信号を無視することが許容されるべきなのかどうか。
社会の機能で保障されている範囲内の行動つまり合法的な範囲での交渉、サービスの授受はあるべきだが個人の都合でそれを変更することは許されていない。

Q.タトゥー・刺青はただのファッションですが。
A.ファッションはドレスコードに従ってください。
水着やメガデスのTシャツを着て温泉に入りたいのですがよいですかと聞かれてそれは運営上の様々な問題を回避するためにご遠慮いただいておりますと言われたら従うべき。
ここはTシャツでの入場は認められませんと言われたら人権問題に発展するのか、刺青のお客様はファッションをどうにかしてからご来場くださいとなるだけ。

 

結果:あなたのおしゃれがどこでも通用すると思っているならそれは社会的な慣習や常識が欠如しているのでご退場いただきたい。
葬儀に普段着でいくのが何が問題かわかっていない人には喪服できてほしい旨を伝え、どうしても状況や事情を鑑みて特定の衣装で行きたいと要望があればそれを見て理解ができない参加予定の参列者にも事情を説明して許容を用意する必要がある。
制服やドレスコードも同じで、なにをしている人間なのかわかりやすくするため。
作業スタッフや関係ない通行人が、特定の事情のある空間にまざって同じ行動をしていたとしたら不信に思う事があるから。
香典パクリにこられたり、サービスを受ける対象者ではないのに優良サービスを立場利用で受けているつまりサービスに対してみあわない対価を要求されたものだったとされるなど。
人の土地に勝手に広告だしてはいけないように、特定の地域で出店するときは看板や外装などは自治区のルールに従うように、など。
できないのであれば、できる場所に移動していただきたいだけ。

 

逆に、なぜタトゥー・刺青がファッションとして認められ取り入れられ一般化されることを希望するのか。
服ですら、特定の傾向がある場合には制限を設けることがある。提供するサービスなどについて問題を低減し対象者を明確にしよりよい運用を求めるためだ。
タトゥー・刺青を一般化したい派はドレスコードなどについてもなくすべきだと思っているのだろうか。
宗教上のものからアピールしたり表現したいアートから、制服まで。
駅員のファッションをした人間に全然ちがう路線を指示されひどく遠回りをしても「おもしろイベント」で済むのだろうか。
警察ファッションをした人間から赤切符を切られたら「おもしろイベント」で済むのだろうか。
もちろん「おもしろイベント」で済む人間は一定数いる。
それは「あなただけの価値観で世界は回ってない」にあり、それは違反で違法なので取り締まられるべき。
自分はOKなので世界が変わるべきというのは、「世界を変えるために個人の行動欲を実現させかねない」危険な人物として社会的に保護されるべきになる。


タトゥー・刺青が有意義で価値がありファッションとして認められるべき点があるなら「そんなの個人の自由だから」以外を出していくべき。
個人の自由が通るなら5000兆円ほしい個人の意思も尊重されるべき。
なにが違うかわからん、なぜ同じにしているかわからんという話なら「わからない事が問題である」に気付くまで立ち入るべきではない。
足元のちいさな生き物がいたなんて知らないわからない、だから踏み入ったが踏みつぶしたなぞしらんかった、で済まないから入るべきではないと言っているだけ。
じゃあ先にそこにいるとなぜ説明してくれないのか、と今説明しているのにわかっていないから立ち入り自体を禁止したという事自体わかっていない人間とは会話が成立していない。

 

つまり「タトゥー・刺青を肯定させるためには、肯定させる情報を発信する必要がある」一択である。
その一択を捨てている時点で不適合である。不適合であることを適と説明できない状態で不適合ではないと否定する方法は「暴力的」の一択である。
現に暴力的な論でしかないので、それを排除する機能をしている。なぜ暴力的ではないという事をわかってくれないのかと説明をしてもらればわかりあえる可能性はある。
その説明を既にしていると、されてもいないのにしている感覚になっているズレを正す方法が「こちらの説明を聞いてもらう」「そちらの説明をしてもらう」で不可能なので、関係性の排除しかない。


タトゥー・刺青のおかげで救われた話を、バラバラになった肉片からみつけることができました以外の美談であげてもらう必要がある。
なにひとついいことがなかったそのタトゥー・刺青に、なんの配慮が必要なのか。

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部下の出来なさ自慢は上司たるもののインセンティブである。
人より上に立ち、より大きな責任とプレッシャーに苛まれながらその実やってる事は部下と同じ。
つまり部下と同じ作業をしながら同班のリーダーとして管理と指示と責任を負わされる役目、それが日本の管理職である。


額面においてのみ給料の差で役職がある、つまり役職があれば給料が変わるという単純なシステムは日本の政治が一旦出したらまるで世界や歴史を肯定した功績のように不変であるべきとされる様子にも見える。


実際は仕事の内容によって、責任によって変わるべきでありそれは給与が変わらなくとも職務内容に反映されるべきである。
職務内容に反映されるべきであるから結果的に額面はかわるものだ。
残念ながら日本はそのつながりを見いだせていない。
なぜ給料が違うのか、それは偉さが違うから。
それは立場が上だから。
それ以上の意味はないのだ。

それならば日本の役職、中間管理職がインセンティブを受け取るものがあるとしたら飲み会で職位を自分で紹介する時か、部下の出来なさ具合を自慢する時にしかない。
全くもって正義であり正当であり、当然の権利として自分の担当している部下たちの、いかにして部下でしかない人間であるかを披露することにより自信の地位の高さを表現し自身の能力の輝かしさをその部下たちの薄暗い勤務態度で照らし輝かせる必要がある。
そうしなければ、職位の存在の意味を人は、日本人は見失ってしまうのだ。

これは恒例行事であり慣例であり汎用の通例であり、社会通念であり理念であり哲学である。
そのため「そこにあるもの」として認識される以外の事はされてこなかったし、これからもされることはない。
だが一旦、その社会構造からはずれて見ると、それこそが「永遠に満たされない腐敗の浴槽」であり常に腐敗を呼び込み我々がその身をそこに浸しているのかという事に気付かされる。

できない部下が行っているのは実務である。実際に成果をあげるべき所で、所詮部下でしかない人間は部下なりの知識や能力で部下程度の仕事しかしない。
上司である管理職にまで昇華した上層のシゴデキ人間にして選ばれた人類からみれば愚の骨頂、愚者としての真髄を獲たまさに部下でしかない程度の人間の所業である。
一つの歯車としての視点、視野を持っている、保っている限りはそう映るのが当然である。
そこにない者、実務者や当事者と関係ない人間から見れば幼子ですらその違和感に気付く。
外見的にそれなりの人間で立場のある人間、責任がさもありそうな人間に指摘される事で気が付く事もある。
その役割をいわゆる「コンサルタント」が行っている。
コンサルが高い給料を貰ってどこでもひっぱりだこな職業であるのは、このためである。
実質、実態効果を現実に求めてその具体的な内容を明確にするためには、小学生に見てもらうだけでも十分である。
中学生に「仕事をするならどんな事が問題か」と作文を書いてもらっても同じ結果は得られる。
むしろ小中学生のほうがより具体的で明確に、そしてより安全で確実な方法を提案する事すらある。
しかしなぜ成人した能力に見合わないほどの多額の報酬を受け取るコンサルタントに仕事を依頼するのか。

高い金でいい生活してる人間から指摘されると、それなりだろうと感じるからである。
部下がゴミでなんの役にも立たない最底辺の人間で、能力の高い俺様が上司で給料をもらうためにしかたなく付き合わされていると考えている人間には、金もってるえらい人という情報だけで従えるのだ。
子供のように無邪気で自由で奔放な、なんの遠慮も常識もない人間が企業に対して「コンサルタント」と売り込めばバカ売れするのはウォーターサーバーと変わりないところだろう。

しかし、その常識を一旦、いままでもこれからも普通であり当然でありあたりまえの固定概念である「部下は上司に比べてただバカであるから部下でしかない」という概念を捨ててみてほしい。
「上司は偉く強く信頼され実績を認められその価値があるから人の上に立ち、部下を土足で踏んでその上に立っている」というあたりまえのふつうから離れてみてほしい。
人の上に立つということは同じ人間であっても遠慮なくなんの呵責もコストも制限もなく踏みにじる事が出来て、実際その関係性だけから気分一つで部下の人生からその家族全体、一族の末裔までも自由にできるという概念に疑問を持ってみてほしい。
謝るという事、間違いを認める事、改正をすること、非を認めること、それらはもしかして悪くないのでは、時に必要なのではないかと、ほんの少しだけでも想像してみてほしい。
なぜ憲法は変えられないのか、減税はされないのか、えん罪は取り消されないのか、それらは恥で人格否定であり、尊厳を損ない無駄で無理で存在を認められないとされているのか、無心で感じてみてほしい。

産まれたばかりの赤ん坊が歩くことも喋る事もできず、寝かせ方一つで人生を損ねてしまうような生物として最下層の出来損ないの弱者である事を大人と対等に扱う事で尊厳を認めるとして、その手を捻る事を社会でも行えるという常識に抗ってみてほしい。


たしかにそれらの快楽を手放す事の損失や、それを手放す無意味さ虚しさ、それを除いて高い立場にいることの無意味さを感じる事だとは理解できる。
しかし一旦、一瞬だとしても常識として得られている現在の価値や意味、尊厳や愉悦の摂取を止めてみてほしい。

人間として生まれて五体が満足であり、人の親となれるほどまでに成長しきった母親の体内でぬくぬくと一年も育った子供が、生まれてきてなにもできないなどありえようはずもない事は常識であり見て当然あたりまえに理解ができる事ではある。
そんな恵まれ切った人間に対してただねだることしかせず人の手を煩わせなにか施しを必要とされるなど不届きであることは周知の事実ではある。
あなたが赤子より高い立場で経験もあり判断もでき能力があり力も備えているからこそ、甘え切った軟弱な赤子の手を捻ってやろうと考えるのは、普通にしてあたりまえの当然で常識である。
生まれてすぐにすっくと二本の足で立ち上がり「天上天下」と口にした赤子がいることなぞはどこの誰にきいても当然回答が一致する、人間として最低限のたしなみではある。

それでも、目の前にいるその子供は、あなたの助けが必要なのではないかと、そんな可能性を、ありえない場面にありえない対象にありえない展開としてもし存在できるかもしれないと、言葉遊びとしてでも思考することが可能であるならば、してみてほしい。
あなたの部下は、どんなにくそバカボケカス最底辺の低能力体たらく人格破綻の人間以下なのになにか間違って人権を与えらえた家畜以下の動物であったとしても、あなたの助けが必要としてあなたの下にいるのではないかと、妄想だとしても思考の一つのレパートリーとして加えることはできないだろうか。
もしその部下がどこかのだれかの役割を果たしていたなら、全く関知する必要がない他人であり存在するかどうかもわからないような空想上のだれかかもしれなくても、救いが必要な対象となりえる可能性がゼロではないと心の片隅に置ける余裕はないだろうか。

 

おそらく、部下でさえなければ、目の前にいさえしなければ、手がとどかなければ、どんな人間、どんな生物であれ、あなたの気持ちを曇らせる事はないだろう。
しかし、あなたの手がそこに届くと見えたなら、あなたが一歩踏み出せばなにかを変えることができたかもしれないと認識できたとしたなら、私はきっと人として気持ちとして、なにか行動することに、助力を差し出す事に損失はないのではないだろうかと考えたい。

たしかに、日本は資本主義である。
実態効果に付加価値を計算して、実質容量で評価し社会構造が形成されている。

産まれた年から教育の質や量、仕事の出来で評価から立場が出来て手取りが決まっている。
部下みたいな、平社員といったクズで無能な社会の最底辺は上司である管理職からみれば消耗品としての日々の生活と仕事からみても使い終わった包装であり不用品であり、ただ面白半分に投げて捨ててだれかに処分を任せる代物かもしれない。
そんな部下を持った管理職を、その管理を任されている上司としてできない管理職であり部下ともども役立たずであると、手取りの少なさを補填するだろう。
そしてその管理をしている上司もまた、クズの社員を管理しているできない上司を持ったお荷物部署の管理職だと罵倒をすることで日々の鬱憤を晴らす事だろう。
日本の社会がそういうった形で経済を回して社会を構成して「すごいぞジャパン」ができている事は重々承知の上である。

しかし、下の下の下の人間がミスしたことは、他人の他の部署のだれかのミスは、笑って話すことで教養になりえる事もあるとは思う。
しかし、あなたの部下は、あなたの手で良くする事はできないのだろうか。
あなたは、あなたの部下をよくすることは、守る事はできない人間なのだろうか。

自分が出来ないことを、自分の能力の無さを、能力の無さから生まれた部下の失敗を、失敗する部下を笑ってみんなに共有してもらうことが管理職としての職務として、当然であるこの現状の日本が自慢の国なのだろうか。


実際、そうなのだろうとは思う。
できない部下に辟易することが当然であり自分を輝かせる価値であることは周知の事実で、現実にあってこのように体現されている。
表現され実在して、証明されている。
上司が部下を育てる、先達が後輩を育てるなどただの言葉遊び、夢の理想で机上の空論であることは、あえて言葉にするまでもない事ではある。

しかし、ほんの数ミリ秒だけでも、この日本においてどこかのだれかが、部下の失敗を守れるのは上司だけだと、すぐに空に解れて散るとしても一瞬だけでも言葉を紡いでも良いのではないだろうか。
慈悲なんて存在しないものをまるで可能性として求める事が許されでもするかのように、ふるまおうとする事を一旦ゆるすことができる可能性を、人間はもちあわせていると考えたい。

残念だが、弱者や後輩や部下、自分のほうがすこしでも多めに責任や取り分が多くなっている比較対象にある立場の人間は、戦って勝てるわけだから戦わざるを得ない。
弱者を叩く事で勝ち上がることが資本主義の原理であることは当然ではある。

「弱者を守る立場として、上がある」という考えが社会という、自然と相反する状況においてのみゆるされる可能性があったとしたならば、それはきっと何かの救いになるのではないかと考えたい。

残念ながらそんな甘い考えが許されるほど現在の日本は豊かで平和で余裕があるわけではない。

30年前の米騒動から、生産業への派遣が許可されてから、いやその10年前の運輸二法から、郵政民営化から、国民に支持される政党が解体を始めてから日本はもう後続を育てる手段を失っている。

税金を使って高い金で大手企業に発注をして、口先だけの企業に下請けに丸投げをする。そしてさらに丸投げをする。ほとんどの予算を使い切って最後の下請け業者が仕事をしなければ死んでしまう人間に仕事をさせる。そして全員から均一に税金を徴収する。

賢く豊かで余裕があり正しく判断をする暇を持て余すのは最上位のみになってしまった。

かつては庶民などは政治に興味などなくても知識などなくても平和に暮らせていた。

現在はもう後がない最下位の底辺の底の底だけが日本を支えて、あとはいかにシャンパンタワーを維持するかでしかない。

 

しっかりと奔放に管理をされず自由になにをしてよいのかわからず結果見聞きしたフィクションのとおりの世界をなぞる哀れな部下を、その実態を放置したまま成果だけを吸い上げ監視の任を苦労として笑い話をネットに流す、日本の管理職としてなすべきことを成していくのみである。

責任の本質:個人の解釈と社会的共有

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責任とは何か、解釈は自由で人それぞれであっていいものだろう。
しかしそれを他人とやり取りするときは相互に同じものとして理解されるべき。
責任とは何か。

まず私の考えている責任とは何かの話をする。
私の考えている責任はデザインであり、責められる役割。

よく聞く話が「なにかあったときにとるのが責任」らしい。
損害が発生したときにとるのが責任らしく、問題が発生したら解決に努めるのが責任らしい。
それは保障の話をしていないか?
「保障も責任だ」、と言い換えて同じものにしようとするのもよいが、ならば同じものとしてそれは責任ではなく保障だろう。

責められるというのは土下座をさせられて無理難題や罵詈雑言を言われ続ける事に抵抗せず非難を受けて不当な処分をされることを受け入れる事だろうと想像しているのだろう。
だからこそ「責められる」という言葉を誰しもが忌避し、その言葉から逃げようとしているのだろう。
その文字の持つ本来の意味がどうであれ、現在の語彙としてその意味がそれならば仕方がない。
しかし社会的な機能としてそんなものが必要なのか?それを保障として交換としたならば、損害は受けたほうが大きく不利なのではないか。
責任という名目で無加減に自信のストレスをぶつけることができる対象がすくない、それほどに安定して安全な社会であるからこそ特権を生みたいという願望だけで成り立っているように見える。

取り返しのつかない損失を出して、ただあやまって代替がないため、労力だけでそれを補填することが認められるなら、態度とはなんでも交換できる第二通貨だろう。
努力で全てが手に入る世界もすばらしいが、そんな評価基準が言いくるめられた心模様ひとつというのは貨幣経済を成り立たせる世界として無理があるだろう。
無理を通すということはもちろん詐欺、不正取引の類である。

責任はなにかが起こる前から発生しうるので保障と同一視はできない。
それも含むとして責任というならもう生まれてきた事に責任があると言うまであってよいだろう。
そんな事はない。責任は責任である。

 

デザインとしての責任、それは責められる役割。
まずその責めというのが被差別を許容という意味ではない。
責める一文字でそれらを意味することがない事からも、それ自体が保障を含むわけではない事はわかるだろう。
貝がついている漢字の系統からして「具体化する」に等しい使われ方をしている。
叱責や問責、責務や責任といった使われ方からして「強く圧力をかけて相手にストレスをかけながらすること」ではない。
具体的に結果や結論を持ったり目指したり、行う事について意義を求める事を行う、具体化するという意味だろう。
ただ行うという事の上に、それを行った上で結果を必要としている様子がその意味として使われているとみれる。

「問題があったらここに電話してください」と電話番号を記載するデザイン。
それは雑談がしたかったらではなく気になる事を伝えるためでもなく感想を述べるためのものでもない。
ただ電話がしたいときや心寂しいときに話相手になってくれる番号でもない。
「問題があったらなにをすればよいか」を「電話をする」に誘導するため、そしてその誘導先が問題に対して受付や助言や解決を促す目的の対応が準備してあるものの所でと言うわけだ。
それを掲載するのが「責任」だ。
そこに責任を負っているから、問題があった時には電話をしてくるはずだから受け付ける準備をしておく必要がある。
問題があった場合に電話をかけたらいいと理解された時点で説明「責任」は果たしている。
電話を取ったら「対応責任」が発生するし、問題と取り次いだら受付責任も、準備してある回答で解決したら解決責任も果たす。
デザインとしてそれらが準備してあって、そこに対応が入り込んだら動作をすることが責任だ。
具体的になにかがあったとき、それを具体的に解決という形にするために対応するデザイン、その具体化構造を任務としているのが責任だと私は考えている。

そうすることで責任が問題発生前からあることや責任を分けたり継いだりすること、責任とは一体なにかを説明することができるようになる。
私の説明はこれである。

 

責任は保障であり、ケースによって変化し、場合によって変わるし、言い方の問題で人によって異なる、としたならばそれは「何か」であって責任でも保障でもなんでもない。
何かがあれば何かをするぞというのは、もう言葉にする必要性もないほどに意味がない。
あー、とかうー、と同じである。
たとえば、赤ちゃんの発する「あー」とは責任であり保障であり権利であり願望であり、生体反応であり知性である、であると言えばそうかもしれないしそんなケースも1例くらいはあるかもしれない。
そんなものを存在させたところで、それをオークションにかけでもしない限り意味も価値もないものだ。

「先生、これは誰に責任を問えばよいのでしょうか?」
と問われている時点で先生は先に立つものとして役割を果たしている。
デザインが機能しているという意味において、責任を果たしている。
もし万が一なにかあったら先生が責任(保障)してくれるんですか、と問うなら、先生に保障を準備してもらえばよいだろう。
万が一問題があって一生重度な後遺症があるとして、先生が保障できるのは毎月千円程度だろう。その保障を選択したいのならすればいい。
必要があれば大手保険会社に保障の十分な保険を構築してもらって購入すべきだろう。
激安の保障を購入しておいて最高級の対応が請けられない事に不満を持つのなら、それが等しくて選択として同一にならぶとした価値観を提示した物に対して詐欺罪を訴えたほうがいい。

 

子供とはいえ「責任能力がある」のだから「自己責任」にさせればよい、という事もあるだろう。
それは各自が問題発生時、解決をすることができそれを超えた場合どういう対応をすればよいか知っているという事なのだろう。
団体行動についてまでは対応できないはずだ。
なぜなら当事者が対応を余儀なくされた場合、対応するものとして団体行動の統率から抜けるからなのは言うまでもない。
ならば組織体として各個人がそれぞれの都合で独立して動くことを定めたならば、全体の維持を規則だてる必要がある。
先生がその中間役になるのもよいだろうし、全員でそれぞれが判断をする局面を決めておくのもよいだろう。
全員で役割を分担すれば完全に自由がなくなる。自由行動をした時点で欠落としてそれを除いたオペレーションに移る必要があるからだ。
先生という部外者に統率を担わせる事で各自の自由も、追加対応に別手段を用意してもらったり他の動作を継続として問題の通達を遅らせる事もできる。
自由行動では1つの班が遅れたから全員で探す、の他に先生に任せてあとで探す、だれかに探してもらう、全員の行動を一つ進めていく間に先生が探す、など選択をし得るだろう。

 

この構造をデザインするこが責任、任を持ったものを割りあてることで行動の実際が具体化したとき物理的に動作ができる事を責任と言うだろうと考えている。
他人が別の何かだと考えていることだろうし、それぞれに思いはあるだろう。
それを共有できなければなんの意味もないし言葉にする必要もない。
「そうも言えるし、そうでもない場合もある、この言葉に含んでいるし、言い換えて同じ意味だ」と言うなら責任という言葉を空気とかハッピーとかに言い換えればいい。
そんなものに意味はないし、意味のない言葉を具体化したところで間違った方向に誘導をするならデザインとして失敗している。
なんの結果も生まなかったり間違った方向にしか誘導しないものを存在させる事はそれすでに問題である。

ただ他人を殴る正当な理由だと思っているトリガーとして「責任」という単語に暴力的な夢や希望を詰め込むのをみるのはいいかげんうんざりだ。

対処する必要

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喧嘩は同じレベルでしか起きない。

 

なめられてるとかそういうのは、いったい何なのか。
ふわっとした概念で危険を察知し対処する、みたいな話なのか。そのふわっとは空気か何かか。
空気が危険ならもう生きていくのはつらかろう。
厳密になにがどうして、どうなるからその結果がどこまで影響して、自分がどんな行動をとるべきか。
基本のきの字はここからだろう。
敵はわからんし危険かもわからんが、対処をしなくてはならない。
霞と戦うならまずその肉体を捨てなければ戦えまい。

外国人が日本に来て好き放題しているのが不満だとのお気持ち表明である。
たしかにそんなお気持ちは私も同じものを持ち合わせている。
だからといって「迷惑をかける人間」と同じ高さに降りて、同じ目線で向かい合って対処をすべき問題なのだろうか。
日本人が目線を同じにすると差別だと言われるし対処をすると犯罪として法に問われる。
そこまでしてまもりたい日本だということは日本人ならば持っている気持ちだろう。勇ましいことである。

まず実行についてだが、日本人がそれを行えば犯罪者としてその後の人生が「外国から日本に来た観光客」程度までに落ちる事は確実だろう。
同じレベルだという事はそういう事だ。
外国人はそんな扱いを受けた所でなんの問題もない。帰る家が日本の外にあるからだ。
勇ましく外国人と同じレベルに落ちて戦える回数は、人生においてそう多くはないという事になる。
人生をかけて取り組みたい事がそれであるならば躊躇はないだろうが、その一回を行ったくらいで何も変わりはしない。
むしろ外国人は罪に問われないので人生において何度でもトライし放題な上に、されたことを迷惑として自分を正当化していける。

武士として戦において名乗りを上げるのが誉というのが、何の意味も持たないというセカンドインパクトである。

では迷惑外国人を見つけたら勇猛果敢に挑んでゆくという事以外で取り組むべきだろう。

ここで「なめられてる」とは何かに戻ってみよう。
その言葉についての意味を考察したならば、それはしている側の思考が完全に反映するわけなので、それは相手の考えている事とは関係がない。
「できそうだから」「問題なさそうだから」「自分のほうが強いとおもっていそうだから」等々思いつくだろう。
それはネットを検索しても見つかる。しかし「なめている」側の相手に聞いてみたのだろうか。
自分が他人に対して「なめた態度をとる」という事で伝わってほしいアピールの願望を並べてみたところで、その言葉の意味としての「なめる・なめられる」と関わりがあるのだろうか。

他人に対して自分の有利さを通せるだろうという憶測がみてとれる、ないしはそれをしようという態度が「なめる・なめられる」ではあるだろう。
しかし、まず最初に「できるかどうかを確認・示唆してくる」という事は相手側もそれを把握できていないという事だ。
実際に自分が強制的に有利な立場を実行できるならば、相手に対して確認などする必要はないだろう。
それを自分がすることによって相手が都合のよい態度に変化してくれることを期待する、自分の実行した結果によらず損害を被らず、余分からあふれ出た何かが実際に自分の結果に貢献することを期待していることを「なめる・なめられる」だと思考しているのではないか。

「いま話題にしている主体は外国人」「なめる・なめられるの基準」という話の流れで、おそらく短絡的に「なめる・なめられる」についてだけ注視した結果では「外国人が虎の威を借りてることがなめた態度ということか?」みたいな話をしているように感じるかもしれない。

外国人はなめた態度などとっていない。

相手の煽りを「なめた態度」だと認識しているのはそれを感じている日本人の側だけなのだ。

「なめる・なめられる」というのは観察側の感覚で、なぜそれを文字にしているのかと言えば「具体的な対処としての対象にその問題をあげるため」に言語化したに過ぎず、外国人が実際に「なめる・なめられる」を所持所有しているわけではない。
その相手がもっていないものを対象に取りにいく、対処する、それについて考察する、ということの意味なさよ。相手がもっていない物について「自分がもっているからあるはずだ」という打算で戦略を立てる事に意味などあるわけがない。

「なめられている」についてどうにかすべきは、そう感じている当人のあたまの中だけだという話である。


では実際に迷惑行為を行っている外国人に対してどうすべきか。
まるで選挙で白票を投票して「世の中がよくなりますように」と問うような、そんな「なめられている態度に毅然としてむかう」みたいなお気持ちを表明してもなんの意味もない。
しかし誰かが結果を出せば「気持ちは出していましたよ」と便乗しようとする。
それは外国人が迷惑行為をする気持ちと、構造的に同じなのではないだろうかと考える。
ここが同一として同じランクに引き込み、同じ高さに目線を合わせ、なんの解決もしないパフォーマンスをお互いに繰り返すという結果になっているのではないだろうか。


ぶっちゃけ注意をしたり行為を止めたり迷惑行為をやめさせようと妨害したりすると、おそらく犯罪として日本人なら捕まるだろう。
そこまでして無意味な人生の終わらせ方を選択すべきなのか。
跡から「悪くなかったよ」と評価されるために、いつかくるかもしれないその日に賭けて日々を過ごす覚悟があるのだろうか。あるのならばそれは趣味の話なのでだれも止はしない。

しかし外国人は迷惑行為をしたところで、というかかなり重度の犯罪でも平常の日々に戻れている。ならばこれを使うべきだろう。
10問クイズでプリウスミサイルに免許を与える事が実際に可能なわけだ。
これを突っ込ませるのに免許なんて必要がない。しかし免許がとれるという事のメリットは何か。
「免許を提示せねば通過できない区画に、ミサイルを突っ込ませる事ができる」という事だ。
まず数トンの鉄塊を百キロオーバーの速度で好きなところに飛ばせる能力はこれで手に入る。
銃社会においてまず実弾を手に入れたに等しいだろう。
モデルガンを尻に刺した外国人なんて目じゃない。4ドアセダンで正面から向かえば拳銃など何の意味があろうか。

東京では広い区画を、封鎖するに至ったらしい。
外国人が暴力行為や騒動を起こすのでバリケードで封鎖されたらしいとの事だ。
これは「外国人の行動を止めることができない」から人に対して対策が取られることなく「区画」について取られたわけだ。
実質問題行動がなんの注意も受けないという事である。

こうなれば外国人観光客による自警団バイトで高額収入が狙える世界になる。
1ヤマ「こなした」なら本国にお帰りいただいて、冷めたらまた「働き」に来てもらえばいい。
政治屋のおえらいさんが引いた計画図面の上に乗っているのはこういう事だろう。

生産もしない、寄与もしない、消費と消耗の取次をするだけの人間を外から入れて出来ることなどそんなもの程度だろう。

そうしていればアメリカでは逮捕されたが、大物ヒップホップの関係者が日本に豪邸をたてて、アメリカではできなかった事をやってくれるだろう。
人身売買と違法薬物で、おそらく周辺の治安程度と富裕層の経済はまわしてくれるだろう。
日本につれてくればどの国でもできない事がし放題で、お咎めなしとあれば日本LOVE間違いなしだ。

その先がどうなるか、あたまのいい官僚のみんなは考えているのだろうけれども、頭の悪い私にはそこまでしか想像ができない。
できないし、できることならそこに至らないでほしいとは願っている。

コスパなんて無いさ コスパなんて嘘さ 寝ぼけた人が

コスパがいい」と言うのは、嘘吐きの言葉なんです。

 

小さなコストで大きなリターンがある、という事は「同じコストで比べるとリターンが大きい」という事です。
これは「同じ大きさの価値が小さい」という事になるわけです。
500mlのペットボトル飲料が150円したとします。
そして2Lの同じ製品のペットボトル飲料が100円だったとします。
コスパがよいのは前者、150円の500ml飲料のペットボトルです。
なぜならば1ml当たり0.3円であるのに比べ、2Lで100円の飲料は1mlあたり0.1円だからです。
「支払額が低い」つまりコストが低いならば「安い」けれども、それは「安い」であって「お得」とは異なります。
「お得」であることは「パフォーマンス」につながりますが、「安い」は「安く仕入れることができる」という事なので「ポテンシャル」です。
高いポテンシャルを手に入れて、それを有効に活用することで「パフォーマンス」を発揮することができますが、既に「パフォーマンス」に直結した「ポテンシャル」を形成しているコストの支払いがあります。
その支払いが「最適化された商品の形」になります。
つまり飲料が必要な状況でどれだけの量、どんな状態にあるかという事について「その目的だけを完遂する」という形に成形するコストを低減できていることが「高いパフォーマンス」につながる訳です。
飲料が必要なときに、そのシークエンスまで飲料を保持・保温する手間やコストを省いて手に入れ目的を果たし、その後余りを保存・保持する必要がないという「パフォーマンス」の高さにあなたは「0.2円」の働きで済むのか、という問いになります。
あなたが保冷の水筒を持ってきて、必要なタイミングが数回あり、そして使うたび適切な処置を行い、最後には持って帰るという行動のコストは「0.2円以下」であるのかどうかの問いです。
それはすなわち「あなたの努力は0.2円で買い取られる、またはそれ以下で買い取られるべきもの」というコスト価値の具現化であり、「あなたの労働、あなたの価値は0.2円以下なのか」という問いになります。

生産者としてみれば、原価を飲料水ではなく水道水にすることでさらにコストを下げ、水筒の大きさや量をより多くの機会に使用可能にさせ、それでもってして労働から生産をさせると「生産結果に対する費用」を抑える事ができ「生産の価値」を高める結果にはなります。
お小遣いを制限されたサラリーマンは、高いパフォーマンスを発揮できていると言えるでしょう。

さてここで「PS5ProはゲーミングPCよりもコスパが悪いのか」という問い、「PS5ProよりもゲーミングPCのほうがコスパがよいのか」という問いについて考えたいと思います。
ゲームしかできないPS5Proを12万円で買うより、PCはゲームもできて事務作業や動画編集、他のプラットフォーム向けゲームやメール、スケジュール管理、写真や動画のアーカイブも管理し使えるので「コスパがいい」のかどうか。
PS5Proの機械としての価値は「ゲームができる」として「12万円」のゲーム機です。
PCは「ゲーム、事務処理、他ゲーム、動画編集や作曲等クリエイティブな活動、生活の補助的な機能」無限の可能性だと思いますが20ほどの機能に絞ったとして「6000円のコストを20個相当」とします。
2Lの飲料を買って、小分けにして持ち運び容器を管理し在庫を保存するコストと、必要な場面は適切でしょうか。
あなたは20の機能を購入検討して12万円の予算を考えるのと、ゲームの選択肢として12万円のものがあることを選択肢に入れるのと、どちらが「ご自身の価値」として最適化されているでしょうか。
いまちょうどクリエイティブでDXな目標が10以上あり、とすればPCのポテンシャルを選択するのもありかもしれません。
もしくは現在利用中のPCをリプレイスする形でゲーミングの選択肢を取り込むというのであれば「実質ゲームというシークエンスのコストを6000円」で購入できているというコストカットとポテンシャルの入手が可能でしょう。

しかし「ゲームがしたくて、追加に19のおまけがついてくる実質ひとつ6000円のお得セットがセット価格12万円」でPCを購入するのと「プレイしたいタイトルがあるゲーム機を12万円で購入するか」となると、そのコストは同等に12万円です。
19個のおまけを活用できてはじめてPCが「コストに対して使用したポテンシャルの結果、パフォーマンス的に高くなっている」となるわけですが、その添付されたポテンシャルに対するコストも計算に入っていたでしょうか。
動画を編集するにはソフトの料金と練習や学習の時間、事務や作曲、作画についても、生活に使用するアプリや端末の設定、管理についてそれぞれ支払うコストは既にあるものや準備がされているでしょうか。
残りのポテンシャルを発揮するために追加料金を加味すると、イニシャルのコストとして倍になったりしないでしょうか。

選択肢が増える分だけPCにはウイルスや故障、各部分の調整についてアップデートの確認や設定を必要とします。水筒を持っていく手間とコストに近いものがあります。
お得な2Lを単価で計算すると小さいコストで購入して、あなたはそのポテンシャルを「まとめてお得なちょっと割高のセット」よりも高いパフォーマンスを発揮することができるのでしょうか。
もちろんできる方も多くいらっしゃると思います。
「こっちのほうがコスパがいいから」と言ってのける腕前や才能、習慣をお持ちの方は多くいらっしゃると思います。
しかし「ポテンシャルが多いからコストを割ると小さくなるのでコスパがいい」と判断するのであればそれは間違い、「コスポ(コストパーポテンシャル)がいい(低い)」「低コスポ」というべきです。
お得パックの事を「コストに対してお得になるから、量的、価格的に低減できて”お得”」とするのは認識の間違いをさせるものだと言えます。
量的にお得なパックという名前の商品は「在庫を低価格で入手できる商品」であり、おつとめ品のお得は「消費の選択肢が時間制限内のそれになる商品」です。
あなたは販売目的で業務用に設定されている在庫管理のコストより、手元にあるときのコストのほうが低いでしょうか。
あなたの消費選択は「在庫能力を外れるタイミングを迎えるランダムな販売側の選択肢」に従う事に満足でしょうか。
もちろんそこにパフォーマンスを発揮する方が多くいる事も確かです。その方々が高いポテンシャルを選択しそのままパフォーマンスに繋げている実例も多くあるでしょう。

どこかのだれかが、なにをどうして、どれがどうなった、という事についてはダメな例もありますし、とても良い例もあるでしょう。
ただその方々にむけて情報を発信するほど「その方々個々のアビリティ」を知っているわけではないはずです。
ポテンシャルをいかにパフォーマンスに変えるのか「〇〇するだけなんだから簡単なのに、どうしてしないの?」という疑問を解消するに至らないのに「パフォーマンスが高い」などと言えるでしょうか。
そんな簡単なことができないという物理的に結果がでている現実に対して「したらいいのに」という発想をする事自体、なにも知らないという事に気が付くべきです。

 

「私のアビリティは低いコストから高いパフォーマンスを発揮することが出来るので、高ポテンシャルの選択肢を選ぶことができるのだ」と誇る事以外に評価の方法などないのです。

コスパがいい」という言葉をもし顧客としてのあなたに向けられたならば、それは個人として数年来ついてもらっているトレーナーやコーチ、言葉で説明を必要としない距離の親友などからでない場合、まずあなたのアビリティとそれに対するポテンシャルを見ていないおすすめ方法だと言えるでしょう。
「とりあえずいちばんいい装備を頼む」というセリフが、高いアビリティを無くしては、人としてポテンシャルを高く秘めていなければ意味をなさないものだという事です。
普通車にハイオクを入れる意味のようなものです。
燃焼タイミングを調整された、調整するためにコストを追加した燃料で高いパフォーマンスを発揮する調整をされた車もあります。
しかしあなたの車はどういう場面で性能を発揮するように調整をされているのでしょうか。
高回転で高速域で安定した走行をされるように調整されているのでしょうか。
信号の多い街乗りで小回りがきいて加速がよく制動性能を調整されているのではないでしょうか。
そのあなたに「ハイオク」が「コスパ」として良いものにあたるのでしょうか。
「レギュラー」が「コスパがいい」としてスーパースポーツの燃料になりえるのでしょうか。


「ゲーミングPCのほうがコスパがいい」
それは、カレンダーに予定を書き込むのに高性能グラフィックボードに電気を通電させるコストが、動画を編集するために通電させている大容量ストレージの電源が、インターネットで動画を見るのに使用していないメモリ領域が、どれほどにお得なのか、コスパの達人は「PS5Proより高いパフォーマンスを発揮している」のでしょうか。
もしそのPCの機能を十分に使いコストがパフォーマンスに変化した様を見れたならば、それこそがまさに「高パフォーマンス」そのものなのでしょう。

コスパ」というのは個人の感想であり他人にとっては幻想であり、言葉としては吐いた時点で相手に届く頃にはその意味や鮮度を失い、耳に届いた方のほとんどには「腐敗した嘘」となっているのではないでしょうか。
コスパ」が存在するのはそのポテンシャルをパフォーマンスに変化させるアビリティの持ち主の胸の内にだけ存在します。

冷凍庫の冷気は冷蔵庫の中にだけあります。そこがマイナス40度であったとしても、その外側の温度は一度も変わらないどころか、上がります。
「冷凍庫は冷たいから」冷凍庫は冷たくありません。むしろ熱いのです。冷たいのは「冷凍庫の中」だけです。

あなたの吐いた「コスパ」は、どんな鮮度で誰に届いていますか。
あなたがその「内なるコスパ」を外に向けて話す時、それはまるでヒトデのように胃をひっくりかえして見せてくれているのでしょう。
そういう系のジャンル、私は好きです。

日本の宗教事情

b.hatena.ne.jp


人の原器みたいなもんを宗教とかいう括りであるとかないとか言ってられるのは全部つめこめる広さと平和さやろね。
その思考や情報だけで民族単位が争いを個人単位が行動するのとか信じられんやろね。

どの宗教がどんなで何がどうのとか、そういうのをひっくるめて宗教って括ってるわけでしょ。
そもそもそういうのが民族単位や国家単位であるものは自分のそれを「宗教」とは呼ばないんじゃない?
常識とかマナーに名前があるならそれになると思うよ。

なんかちょっと前にアイドルとか推しとかが宗教に近いとか宗教に似てるとかいう記事を誰かが書いてた気がする。
たぶんほとんどの宗教的にそういうのがいちばんNGだと思うわ。その禁忌を最初にまず余裕でぶっ壊してくるあたりが平和の証拠だよね。

たとえばAという宗教が広まっている地域があって、異なる系統のBという宗教が隣接した地域にあったら、どうなるかってそりゃ相手が全滅するまで殺し合うわけじゃん。
その宗教エリアにいる人間だという事か、そういう特徴を見ただけでいきなり殺害行動に出てくるわけよ。
常識外れの行動にでてくる理由が宗教だなんて「それはカルトで洗脳なんじゃない?」、だから宗教は怖いし宗教ってダメみたいになるよね。
お互いの推しが違うと殺し合うなんてね、というものと宗教が一緒なわけがない事くらい数秒考えたらわかるものだと想像するけれども、それがわからないということは「自分も推しでそんな異常行動を取るよ」という事なのでしょう。
宗教が違うとなぜ殺し合うのかくらい、数分考えたらわかると思うが推しでいうなら「金の使い方が違う二人が同棲してたらどうなるか」って話を考えたら「ああそれか」となるのでは。
ギャンブル大好き彼氏が生活費を全部常に賭けている「常に戦っている男」だったとして、同棲中の彼女が推しアイドルに全額投入する「愛に生きる女」だったとしたら、それは末永く仲良く愛のある生活をすると思うかという事だけれども、実態に即した話を事例から読み取るなら成功例もあるかもしれんね。
日本が多数の宗教が混在していても平和でいられる稀なケースだからこれを成功例とするなら、先のカップルの例もうまくいくエンドになることも想像に難くないはず。しかしそううまくいくケースは多くはない。
実際日本で「どうして宗教が」という話がでてくる程度には多くない。

まず宗教が何かというと人の原器、思考や感性や習慣、哲学倫理文学教養、智恵や勇気や希望のそのものである。これが日本ではサブカルチャーであるという驚愕の事実。
ほぼ「ベーシックインカム」を人生まるごと全額受領しているようなものである。

動物の肉を衛生的に処理ができないため食すのを禁忌としたり、立ち入りを禁止する理由を一人ずつ行動に反映できる程度に理解をしてもらう教育の量を安全で確実に小さくするために神や悪魔の存在を立てたり、交換の条件や違反の制度などなど。
生きるルールが全部つまっているそれからはずれると「生きていくことができない」つまり生きた状態でいることが難しい、ぶっちゃけ死ぬって事になるわけで、人が何であるかという事そのものを定義したものが宗教だ。
100円を100円として使える地域の隣に、自分の地域の100円は100円だがそれ以外は80円になる地域があったら「文化の違い」で済むだろうか。
20円を設ける智恵がすごいね、かしこいねで済むだろうか。もちろん歴史的には殺し合って相手が民族として機能しなくなる人数までといわず最後のひとりまで殺すに至る行動に出る。自分の100円という価値が多様性で揺らぐ事などないようにするために必要な行動なのだ。
この定義を混在させて「宗教が多様で」なんて言っていられるのはその根本にある安全の補償や信頼性の厚さからだろう。

移民が今後増えて行けば他の国のように崩壊することは目に見えている。
しかし戦乱があったにしても仏教が席捲した過去をみて、移民が皆「日本人」になってくれたならばそれは他国にない日本を継続できるのではないかと淡い期待もある。
私は移民はどちらかというと反対で人口減少は江戸自体くらいまでに戻って小さな経済圏として再構成するほうがよいのではと考えているけれども、この制度を止めることができないなら好転を期待している。

一般的に「宗教」として議論される範囲の「宗教」を信仰している人間について、ならば現状見れるものを改めて問う必要はないだろう。
実際に信仰として教義を記憶していたり礼拝などの動作や装着物などもルールに即しているものを使用しているだろう。
それが推し活とかわらないと言われればその程度でしかないのが日本だという事でもある。
アイドルが冠婚葬祭グッズを出せばそれはもはや宗教だと言える。
圧倒的な勢力として人数を確保している団体もあるだろう。
「それを代表とさせない」という現状の風土自体、それが「宗教」と区分したそれに当たるから「日本で”一般的に宗教と区分されているものに属している団体が日本の代表として機能していない”のはなぜか」という質問になる。
そんなものは言葉にしなくても、日本というシステムがどう成り立っているか、熱狂的な愛好者が古風なレトロ日本からなんでも擬人化するナウ日本まで、日本を成り立たせている事は問うまでもない。

私個人は、日本の伝説や理想像としての愛着などからではなく日本には象徴が機能しているから強力な地盤が形成されていると感じている。
これを守る愛国のなんとか、というつもりはないし現政府や政治には絶望しているが、自分ひとりこのままそこそこ不自由なく生涯を閉じれるならばそういう生活ができるだけで満足である単位の個人である。
特になにが良いとかなにをしようという事もなく実際どうでもいいと思ってはいるものの宗教という単位で物を言うならば日本というシステム自体が宗教だと言えると考えるし、ほかの宗教が異なる教義を取り込んできた経緯の全部を体現しているとも考える。
日本にかかればどんな陰惨な歴史も強固な思想や宗教、人としてそのものすら「女体化」するし「ケモノ化」もするし庶民と化して日常の生活もしたりする。こんなとんでもない現状で稼働している宗教があるだろうか。
攻殻機動隊草薙素子のような、電脳コイルの天沢勇子のような、強力なハッキング能力を持った宗教のその名をだれも知らないという事なのだろう。
日本はどうしてという問いを影として、そこに日本のセカンダリネームを見出そうという試みかもしれない。日本という宗教に名前を付けるとしたら、という禁忌だ。

この「日本という宗教に二つ名を与えよう」という試みが自動的に消滅することも驚愕である。宗教の禁忌にある「偶像の崇拝」が自動的に排除されているのだ。
みんなの共有キャラクターを勝手に商標登録したり商業利用すると猛烈なクレームで放棄に追い込まれるという自浄作用が発生するのもそれだろう。

あらためて、偶像の崇拝というのは「信仰の対象」を独自に解釈したり再製させたりすることにより「偽物の信仰対象」に語らせるという事だ。
教義にはない事、ルールにはない事、それに外れる事や違反や許容の外のものでも「信仰の対象」という最高位の裁定者が「それはOK」と言えたらすべてが捻じ曲がる。それを禁止するのは当たり前だろう。
別段ものいわぬ像を信仰対象だと崇めることには問題がないし、信仰心を満たす対象に物質を用いる事はむしろ良好ですらある。
「日本に二つ名をつけよう」キャンペーンがもし実行され完遂することがあったなら「日本人ならそんなことしない」とか「日本人ならやりかねない」が「実在」することで「存在しなくなる」のだ。

どういう事かと簡単におきかえると、漫画にでてくる「著作権を侵害しないように似たものに置き換えられてるあれ」である。
漫画の設定世界に「ナーメリカ合衆国」という巨大な国が、もちろん実在のアメリカとは違いまして、そこの闇の組織「インテール」が、もちろん実在の企業とは異なりまして、と話を進めることができるあれである。
勝手な風評被害をばらまくことを「代理のなにか」にさせる事で「容認」させているのだ。これをするのを自分たちの尊厳そのものでやることを禁止しているのが「偶像崇拝の禁止」である。
日本に日本を舞台にした「トンデモ」が少なく、やるなら「トンデモなので面白い」で落ち着くそれが多い事もその影響だろう。
自分たちの信仰対象すら戯画にできてかつ尊厳を失わないというこの体幹の強さは驚きである。

国際化や情報化のおかげで「人権とは人が生まれながらにもっているもの」という迷信は「法治の内にだけ存在し、日本にはそれが潤沢にある」という事実も広まっている。
多様に変化して、もはやその基盤も売りに出して崩壊の先しか見えない現状ではあるけど、この船にあとから乗ってくる人には私たちが満喫できた時代を味わってもらえないにしても、私個人はありがたかったし面白かった。
まだ「日本は宗教がはやらないのはなぜ」みたいな質問が出て、答えがないまま終わることができるフェーズではあると思う。
いまはこれに明確な考察を挟んだり答えを望んだりしないことで、日本を楽しみたいし楽しんでいってもらいたいし、この先を担う若者には、若者たちには申し訳ない気持ちしかない。