宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

倫理的な人間性と快楽の関連

前提条件は大事。
「前提として」が無いと何一つなりたたないというか成り立たせるための、というより成り立つという事自体が積み重ねてその積層が高さを成す事自体を意味しているので、前提というものは成り立ちの一部であり根幹で基礎なので、無いなら成り立ちがなくなる。つまり成り立たない。
哲学や心理学、政治の話や推理推論の話題、お気持ちや配慮とか常識の話の場面でよく遭遇する事である。
基礎や前提を成り立たせるために結局出典や歴史の話になる。それでは話題は歴史についてだったのかというほどまでには歴史の話になる。
歴史学から分類して哲学や心理学や政治学を成せばよいのではと思う程度に歴史の話になる。一体何なのだろうか。

ここでいい加減気が付かない人が多いからこそより集まりオープンチャットで集団を成して「議論」をするわけでその議論が「知ってる歴史の出典合戦」でしかなく、打ち込む文字でUNOをやっている歴史カードゲーム場となっている。
だからこそずっと噛んでいられるスルメタイトルにのし上がっているわけでもあります。
哲学や心理学といった学問、「学問」という学びに問いを求める前提としてその敷居がまず高さ故に入場を制限している関門について、学びは平等にあるべきだとしても篩をかけるのはなぜかという最初の前のエピソードゼロの段階で、そこに「前提条件」があることを見落としがちだからだろう。
だれでも参加できるという場を設けた時点で前提条件が崩壊している事に気が付きにくく、また話題をタイトルをみて自分が参加しているのが「学」だと思い込んで、その結果「参加している学というベースが成り立っている場所に自分がいて、仲間がいる」と勘違いしてしまうのだろう。
無料で自由に参加できるということは平等ではなく煩雑に玉石混淆し複雑さを増すというだけである。複雑さを状況にもって話題を進めたいという場合には非常に有用だろう。
最低の客が来た時にどういう対応が必要になるか、最高の客と最低の客が来た時にどういう状況判断が必要になるか、そんな訓練には最適で結果も十分に出せると期待ができる。
しかし自由で無料が「平等」だと考えるのはその時点で誤りであり、高低や大小、善悪や良し悪し関係なく入場を許すという事は平等ではなく「混沌の作成」でしかない。
地上の住居が埋まれば海上、水中にも人を住ませるべきだろうか。人は水中では生存できないのでそれは無理であるし、済ませるべきではない。それは人だからであってイルカならば無理ではない。
つまり水中に対しては人間は入場制限を掛ける必要がある。議論の場においては議論のできる人間もできない人間も平等に受け入れるべきだろうか。議論のできない人間は議論の場で議論ができないのだから、受け入れるべきではない。
それを受け入れた時点で「議論をするもの」が議論をしない条件を考慮しなくてはならなくなる。地上で溺死の可能性について、漂流の危険性について考慮しなくてはならなくなる。
仮に、赤信号を守るという地上のルールを「海流が強いときにも守らないといけないのか」という議論が噴出したとすると、完全に無意味でも「水中で生息が可能」という条件があればしなくてはならなくなる。
赤信号についてはイルカと人間は同じ議題で議論ができないのだ。

前提条件が違う人間を平等の名のもとに議論に加えることは、議論を崩壊させるための混沌を選んでいる事と等しい。
そのため、ほとんどの「議論・哲学・心理学」チャットルームは、前提条件を構築するための歴史語りの場となっている。

どの先生が、どの学者が、いつの事件が、どの会議で、どんな書物に書かれていて、こんな経緯から、という話である。
それを前提としているかどうかを試験で点数をつけて合格したものが専門性のある研究や学習の門戸を叩けるというものが「学」である。
チャットは基本お遊びであり学ではないので、そんなものは無用であるし全部が歴史でUNOのようなカードゲームをしているだけと認識していれば、そのとおりで間違いはないしチャットルームにおいてなんら不満はないはずである。

ときにこれを面白くするため知らない事、出典と異なる意見のもの、表現に含まれていないことを言っていないとして虚実と責めること、つまり口汚く人格否定をする人間もいる。
具体的には「猫堕落無茶斎」ではあるが、他にももちろん多数いる。多数いる中での「猫堕落無茶斎」を挙げるのは、その異常性とそれ故の不変的、固執的な変態性である。
他人が不快に感じる言葉を選択している時点でそれが不快を催す言動であることは本人は充分に理解をしているはずであり、それによって他人が不快になることを楽しみとしていることも公言して憚らない。
そしてその言動ゆえに退室を強制すると宣言を受けると必死に命乞いをする。これは不快にさせて楽しみたいのか命乞いがしたいのかまったくわからないその行動に面白味がある。
その命乞いによって管理人は主従関係を感じるだろうことから、管理人が「猫堕落無茶斎」を擁護する形で「平等と自由」を掲げる意図も理解できる。
正統派の楽しみ方としては首輪に繋がれて見境なく知性のかけらも見せずかみつく狂犬のペットとしてのドッグランで駆け回る様子を眺めるのが、「哲学カフェ」の楽しみ方だろう。


冷静に考えれば誰しも気が付く事ではありますが「前提条件が違う、なのでそこから説明する」がいかに無意味で無駄で理解をされず、かつ不快にさせてしまうかというのは「相手にその前提がないため」ですよね。
相手にない前提をこちらの持っている別の前提を説明という形で語りはじめ、そして相手と異なる前提をこちらのものに植え替えろと言われるのは不快極まりないものでしょう。
それはされたらすぐにわかるものではあるでしょうけれども、自分の庭に生えている芝に、隣から「芝生とはこういうものだ」という「隣の前提」によって植え替えられる事に不満を感じない人などいないことからも想像には易いでしょう。
自分の庭に不満があって、品質保証をしてくれる芝を提供してくれるのであれば歓迎ではありますが、議論とは治療でも相談でもないので、自分の不満と相手による改修を望んでいるわけではないという前提からして、結果はお察しのとおりになります。
人の心について語り合う場において「前提が違う」と少しでも理解ができたり気が付いたり、そもそもそこから出発したあとの対話を期待しているものだとするならば「相手が違う前提を持っている」という事を認識し「相手の前提に則る」ということがまずはじめになにより根本的に大切でしょう。
これをまず欠いた状態であることが前提としてなりたつという「書いていないから」「見えていないから」「そういうものだと思っているから」として進めることで簡単に諍いが発生します。
派閥や敷居をもって前提をなした基礎の成り立っている集まりや対象が、簡単にすれ違って争い敵対するのには、その芝生を上書きしようとするものが根本にあることは誰しも知ってはいるはずです。
しかしながら、相手の庭の芝の上に、自分の育てた芝生を植えこむという快感には抗えず、心理学や哲学、平和や理解を促すための方法や術、論の対話で簡単に分断が発生し最低で醜悪な係争に発展します。
この矛盾の構造こそが哲学・心理学の楽しさの一つでもあり、実際に実践している人間を見ることこそが最もそのテーマに沿った知識と情報の間欠泉であるといえるでしょう。

「猫堕落無茶斎」においてはその相手の前提条件がまるで見えていない眼力と、他人のつくった歴史や情報の索引を出すだけで召喚獣でも呼び出したような勝利を満面の笑みで出してくるところがテーマに沿っていると言えます。
そしてその飼い犬のリードを絞めたり緩めたりすることで情けない服従の顔を見ることが、腹を見せて転げまわって見せる飼い犬の「猫堕落無茶斎」の姿をみることこそが快感となっている管理人とのベストなパートナーシップたりえているのでしょう
我々はこの前提条件を理解しなければなりません。我々が持っている常識的であったり通念的、平等で倫理観を保ち冷静に建設的な対話をするための常識や前提条件は、ここでは通用しないのです。
一般社会では、通常の人間関係では、常識的には、ということを手放すということは、人であることの尊厳を失う事です。そこには非常に大きな危機感や恐怖、禁忌に対する嫌悪感が伴うでしょう。
しかしその先の快楽を知っているものは、麻薬や異常な行為を実行して楽しむ強大な快楽と同じものが得られるわけです。
麻薬や違法な薬物を使用したり、性的や残虐な行為といった実際の行動で被害者を出して社会性を失って得られる快感と同じものが、自分の尊厳を失うだけで得られるのです。

餌食として供物にささげられた一般のルームメンバーには大変申し訳ないのですが、常識的な範疇を守って倫理的に正しく人間性を保ったままチャットの不快を楽しんでいただき、それを超えたものだけがその猟奇的な言葉の流れで快楽を得ていただければと思います。

愛と自炊

吾輩はおじさんである。
金は常にない。
何に使っているのかとんと見当けんとうがつかぬ。
誰かと薄暗い宿泊施設でニャーニャーパパ活している事だけは記憶している。
吾輩はここで始めて本当の愛というものを見た。

そんな貧乏ぐらしをしているおじさんであるが、貧乏が故に生活が苦しい。
パパ活は人生において重要なファクタなので回数を減らすことは難しい。
固定費ももちろん難しい。
では結局食費になるわけである。自炊は高い。
自炊というものが何かという事も最近ホッテントリに入っていたけれども、原材料から購入することは価格において既に逆転現象が起きている。
材料と完成品を買うのがほぼ等価になっているのだ。そうなれば調理がおわり個別に完成品が梱包されている状態が最も価格が抑えられる。
とくに冷凍食品。最近の冷凍食品は品質が高くなり価格が低くなる最高の状態である。
消費期限の近い食材食品はベネフィットされたニーズにターゲットが絞られ価格が凡そ貧乏人の3倍になっている。時代は冷凍である。

流通関係のことやらで去年の末ごろから冷凍食品が注目されはじめた、と世論を押し流そうとしていたけれども結局だれの口も伝わらなかった冷凍食品である。
実際、安くて品質が高い。実際にうまいのだ。
おそらく脂分の関係ではないかとみているのだけれども、ラーメンはその旨さを冷凍に見いだせていない。スープの冷凍技術について家庭用の-20℃程度で保てるこってりスープの開発が必要なのではないだろうか。
問題はスープだけなのか、と問われると、だけである。麵は既に旨い。
ラーメンのスープだけ都合ができれば最上の品質にして最大のボリュームを誇る冷凍ラーメン麺が手に入るのだ。
そこでその問題を解決しうる冷凍食品の一品に「キンレイつけ麺」がある。ボリュームがなんと麺300グラムなのだ。美味い。
麺がやたらとおいしくて、うまい。そして成人男性をたった1玉で満足させうるボリューム。これにスープがあればラーメンとしては最高なのだけれども、その問題をつけ麺という形で濃いスープで補っている。
このスープもうまい。しかしながらラーメンにするにいたる濃度や量、そして脂分を満たしていないのかラーメン量ほどに汁を増やさないつけ麺という事で解決をしている。
これが激安店ならば120円程度で変えるのだ。業務用の麺ならばおそらく20円前後で買えるのが相場だろう。3玉相当を買えば60円程度、およそその冷凍めんの半分の金額で買う事ができる。
しかしながら品質と満足度が全然ちがう。各段にうまいのだ。1玉およそ60円程度の麺としてもその他の麺の倍は満足感がある。つまり実質安い業務用麺の倍の価値があるおいしさである。
この麺がうまいことで、スープについての価値が跳ね上がるのだ。さすがに美味いといえども毎日同じものを食べ続けるのは困難である。

そこで、貧乏人は麺のまとめ煮、スープの節約を行う。袋麺替え玉などのテクニックだ。
袋麺で最強なのは生活協同組合のPB商品の袋麺。
コロナ後の世界情勢から石油ショックで大幅値上げが起きる前は激安店のPBや明星食品の評判屋が価格と品質を兼ね備えていた。しかし両者を含め全体が一気に値上がりしとても購入できるものではなくなってしまった。
袋麺は凡そ1袋100円程度の価格相場で5袋セットになっており、安くなるタイミングで5袋が300円中盤を切る場合がある。
生活協同組合の袋麺は5袋で300円を切る。たしかに同じ価格帯の激安点PBやそのOEM麺はあるが、内容がまったく異なるのだ。
生活協同組合の5袋袋麺は、麺の量、味、包装の品質、スープが100円袋麺に劣らない。その完璧な品質で袋麺なのだから、2玉同時に煮て1スープでいただくことも問題ない。
袋麺で替え玉を行うとスープの濃度に問題が生じやすいが、2玉同時に似てしまえば1スープ残る。
貧乏人の麺チョイスで最も重要なのは味。貧乏であるがゆえに献立はループしがちなため、できるだけ選択範囲の中で飽きない工夫が必要なのである。
そして健康に気遣う金銭的余裕もないし準備や予定計画ができないからこその貧乏であるが故、新鮮なトッピングは対応できない。
麺類を食べる時に付属している調味料が余ることこそが、貧乏ジャンクの麺生活に大きなウエイトを占める事になる。
ラーメンスープを余らせていれば、何にでも使う事ができる。袋スープをそのままおいていれば保存期間は短いが、非常に有用だ。
ちょっとした味付けに使用して安い食材に満足感を与えたり、他の麺に安いスープを使用することで付属している高めのスープを取り置くことも可能である。

ここで、極端にうますぎる「キンレイつけ麺」の麺に対してまとめ煮をした生活協同組合のスープを使用することで「高級魚介つけめんスープ」をキープすることができる。
これは冷凍なので高い品質を袋麺粉スープのように湿気でダメにするまでの期間以上に保持することが可能だ。

また他に生活協同組合とキンレイの悪魔的合わせ技として「焼きそば」がある。これはもう食の革命と言っていいくらいに危険度が高い合わせ技である。
方法としては、まず「生活協同組合のPB生めん3玉セット焼きそば(105円程度)」を購入し、生活協同組合の袋麺スープでいただく。太ちぢれ麺のラーメンでラーメンに飽きが来ていない状態であれば充分においしくいただける取り合わせである。
こうすることで「焼きそば粉ソース3袋」を入手することができる。そして悪魔の禁断レシピ「キンレイ麺で焼きそば」に至る。キンレイつけ麺300グラムに対し袋ソースを2袋使用する。このうまさたるや脳を破壊しかねない危険性すら感じさせる。
その大満足をもってしてさらにつけ麺スープが余るのだ。この魚介醤油と魚介豚骨のスープは俗にいうごく一般的な「魚骨粉入り魚介系つけめんスープ」なのであるが、それが生タイプであり冷凍であることは、他の調味に再利用の幅と満足感がとても高い。
太麺300グラムで焼きそばの異常なまでのうまさに加え節約であり、これはもはや人間が達してよい食の文化レベルを超えているのではないかと自らの行為に恐怖する程である。

調味料を買っておけばよいのではと発想できるほどに生活水準の高い人間にはお薦めできないし、この人を殺す魔法がごとき満足感とうまさだけを追求され凝縮され洗練された「太麺300グラム焼きそば」を味わっていただく筋合いはない。
瓶単位で購入することの維持の無駄とイニシャルコスト、開封してからの保存期間に対する保存料や調味の具合、それがもたらす貧乏による固定的な購入範囲で発生する献立ループから言えば、単品での価格とその付属品の再利用性が重要なのだ。
年収300万円ちょうどの私が体感している食の文化レベルは、およそ10倍の年収域にあるそれと同じだと自負している。もちろん年収は現在が最高値でありそれ以下の生活しか知らないので完全に妄想ではある。
しかし私は10倍というなんの根拠もないが体感として10倍の幸福というタイトルのつけられた満足感を脳にダイレクトに発生させることに成功している。

おそらく大麻の合法化や麻薬成分についての合法化を訴えている人間も、その体験が人を数う可能性があることについて、救いが実在することについて訴えているのだろう。
私も「キンレイ冷凍つけ麺300グラム麺を生活協同組合PB焼きそばソースで」という化学変化で震えるほどの幸福感と満足感を得ている。もはやこれは救済である。
安い食事で生活を楽にして、楽しみに使おう、人生のうるおいには金が必要でありそのための節約として食費から減らそう、ではないのだ。
既に「つけ麺x1」「袋麺x5」「生麺焼きそばx3」の合計9食分、スープの組み合わせとしては「つけ麺に焼きそばソースx2」「乾麺のうち2食を麺大盛(2食分)」「焼きそば麺をラーメンスープでx3」で6食行うことで袋麺x1と焼きそばソースx1の余裕を残す節約をした上で、脳に直撃する麻薬的効果の満腹幸福感を得ているのだ。

年収が倍、10倍ある人間は手の込んだ料理を素晴らしい雰囲気につつまれた中で楽しく会話しながらいただくのであろうけれども、脳が感じ得る麻薬的なうまさによる直接的刺激は得られず常識的なふるまいで常識的に食事を終えるしかないだろう。
うますぎて白目をむいて鼻汁や涎、へんな汗や汁をこぼしまきちらしながら跳ねて「うまい」と叫ぶほどの食事は、そこにはないだろう。

アイデンティティの変容と成長

他人の言葉を語ることで安心する時期、誰しもにあるのではないでしょうか。
自分の私生活ほどにまではかかわらない程度の人間と複数会う機会がある時期に、そうなりがちである気がします。
中学生になった時、高校デビューした時、初めての職場で、社会人サークルに参加した時、様々に機会はあると思います。

「猫堕落無茶斎」にもそれが来ているのではないでしょうか。そう感じさせられます。
オープンチャットによってはじめて不特定多数の人間と会話をする機会を得ることができたのではないでしょうか。
常に固定的な範囲で人間関係を築いてきた、学校や会社において大きく人間関係を変化させることがなかったのかもしれません。
ということは、職種は一般的ではなく成果は特に必要とされない状況にあったのかもしれません。
職種や教育の内容が一般的であったならば、人員の移動について流動的になります。
また成果については評価をされたりそれに差がでれば特定化されて同じ状況や環境の中でも変動を起こしますし、また対外的にもその説明を必要とされたり評価を受けることで接する対象が変わってきます。
そう考えるといかに抑圧された生活の中にあったかと想像できるため、現在の「他人にやたらと異常なまでに執拗な人格否定を行い罵倒し自分がいかに上位で高等で高潔な存在か」と誇示する人格になりはててしまうことも理解できなくはありません。

そもそもに異常な精神構造をもって生まれてきてしまったのではない、もしそうであってもあたたかく生きてきたけれどもここでは「猫堕落無茶斎」となりはててしまっているという事も充分に考えうる可能性はあります。
どちらにしても、非常に重く社会性を書いている生きづらさを自身も感じているというのがチャットの態度で見て取れることは間違いありません。

 

繰り返しこちらで紹介している「猫堕落無茶斎」の「本よんだ」「誰がいってた」に加えそれに(何の根拠もなく)「〇〇はあった」「〇〇だった」発言とそれに加えてその情報を支える出典や解説の無さは、今の彼をどのように支えているのでしょうか。
構造的には、彼は知ってしまった「伝票の見出しだけで相手は疲弊する」という手段を今は楽しんでいるのではないかと思われます。


実生活において、精神的に疲れを感じるに至る経験の経緯としては、まず必要があり対処が必要で、そのために消費を行い請求をされ支払いを行う、そして支払ったために減少したリソースについて再評価するという流れがあります。
いいと言われている商品について、まず「いいもの」と「それがあると何が期待できる」、加えて「期待できるそれの複合的な結果の要素としてさらに期待値があがる」という情報を自己で形成しニーズを生みます。
そのニーズには商品の購入などの対処が必要で、金銭や労力の支出が必要になってきます。それを交換し入手するという消費行動を行い支払いの請求を受けるわけですが、交換という行為の完了と他に発生する支払いについては対処の完了という充実感と直結しない人がほとんどでしょう。
そのため最初の必要性を生み出す欲求を、支払いや請求といった「別の負荷」が対比となって抑え込む結果になることもあるのではないかと思います。

つまり相手の意欲を折るのに「請求書をちらつかせる」だけで、その意欲を完全に折ることも可能なのです。それが最初の欲求や解消したいと考える問題に大して、より無関係であれば意欲を削ぐ効果が大きくなるわけです。
100円で買える手段が、いま必要でまさに今それをかなえるためには「1000円」必要だとしたら、900円分損なので100円の出費で抑えられるタイミングや場所、状態に至るようコストを支払うか、今解決して得られるバリューのために購入するのかということです。
それはもちろん即時性というバリューに900円が設定されているため「等価交換」が成り立ちます。しかしそう感じることができない人も多くいるでしょう。
100円で購入した場合でさえ、その100円は他につかえたかもしれないという「そもそもの必要性」を交換から除外することさえあるのではないでしょうか。
「解決手段を得ることができた」と「それに対して等価交換で支出をした」はなぜか別と捉えられて等しいと感じられず「損」だと考えることさえあるのでしょう。

同じように、たとえば性別の問題について国際情勢を踏まえた上で日本の在り方を考えようという議論において、生物学的分類を基軸に置いた考えを出したいと意向を示した相手に対して「差別的だ」と人格否定を行うことは、相手の心理的負荷に直接的な効果を示せるというわけです。
生物学的な分類がどんなものであるか、それとは関係ない「性差別問題」についてを結びつける距離の間にある複雑で多量の話題、問題、議題、論や学問、発言や事象についての全てがストレスに変質し得る重量を持つと言えるでしょう。
その脈絡のない「請求書」を一蹴することができればよいのですが、まずその表題の「請求書」の三文字だけで精神を疲弊させ、なぜ関係がないと見えるそれが今でてきたのかをいちいち説明されることで精神を全体的に折る事になります。

生物学と性別、分類の方法と分類の意義、そして分類した結果の効果などについて話をしたいとした所に「差別」という全然関係な話題を「切り離せない重要なファクター」などと、関係がないのだから切り離す以前に融合もしていないし無いわけだからファクターでもなんでもないのに、全然別の議題に「刺激的な表現や単語」で精神を削りに来ます。
精神を削られてしまうので防衛措置としてその話題についての説明的な会話になると、それはもう術中です。とにかく精神を削る表現や単語「例だから」「事実だから」という理由で並べたて聞かせることで疲弊を誘います。
疲弊した精神の人間が正常な判断をすることが困難になったタイミングで人格否定で罵倒をして終了です。
さすがに常識のある人間は、文字としても書き表すのにためらわれる差別的で残酷で変態的な文字や言葉を「事実だから」とすることや「誰かから聞いただけで自分が思ったわけでもなく、自分が言うわけでもない」としたとしても自分の口から発言できるものではありません。

「猫堕落無茶斎」の得意な手法の一つ「いかにひどい日本語を使うかを、他の誰かの所為にすることで自身はそんな言葉を選んでいないとする」があるわけです。
もちろん出てくるものが汚いもので、出しているのがその口ならばその口が汚く臭いものであることは間違いないのですが本人は「この汚物は他人のもので」という事で清潔を保てると考えているわけです。
他人の言葉を借りることに躊躇のない人間にはそういった精神的状態であることは理解できますし、その時期に「言葉という形のないもの」を捉え理解することは困難であるだろうと想像できます。
その時期を過ぎると自分の行動を思い出した時、その異常性に気が付くことだろうとは思いますが自分の時期的変化や経過を記録としてもっていない、また記憶していないならばずっとその酷い状態に気が付かずそのままでいる可能性もありそうです。
オープンチャットによってログがのこることでやっと他人とコミュニケーションを取ることができるようになったであろう「猫堕落無茶斎」がそれに気が付いたりできるかどうかは、ログを読んだり本を読んだしか記憶できない記憶力が過去を思い返す能力を得た時に発生するかもしれません。
個人的には、まだまだ異常の底までその奇行を重ねていただきたいとひそかに願うものではありますが、人間としての幸福を考えたときにはいつしかそれも卒業せねばならない時がくるのかもしれないと考えると、若干切なさもあります。


哲学の話には時折「経済や資本主義について」の話題になることもあります。人の動きの複合的で他に専門性でもっていかれている分野以外はなんでも哲学に近いと考えられる傾向のそれだと思います。
わからないことを考えるのが哲学という認識にあればその根本から派生するであろうことは想像に難くないでしょう。
つまり経済や資本主義という言葉で括られている範囲は広くその単語でなにかを議題にすべき程度の広さではないものですが「哲学で」いうと範囲たりえることも足り得ないからこそいえるということが「哲学だ」と自己循環で変換をしてしまいがちなのかもしれません。
実際そんなものは哲学ではないのですが「ではない」という否定や存在しないという表現で「存在しない無」を「定義する」ことで「無が存在する」という言葉を作り出してしまい「無という存在を」のような完全に意味のない話になってしまいます。


心理学の話では「相手が」「本当に」という部分がそれになりますが、基本的に人が理解しえる人間の心理は自分のものだけです。他の人間は行動を見て認識し記憶したり判断したりすることはできますが全ては自分の発生させる情報です。
これを学問や論説として一旦人の関連性を切り離し物理現象のような情報群に置くことで「理解することで他人のそれを自分のものとして扱うことができる」という条件を想像出来てしまうことになります。
実際「心理学」が「人を操ることができる情報群」として理解された時期がありました。
相手に対して腕を振り上げれば防御の姿勢か回避の姿勢をとることででしょう。それは心理学的に、などと言うのは不毛なわけですが、その行動と結果をして「心理学を実行した」つまり心理学の理解を自分がしている、また他人からみて自分が「心理学を扱える人間である」と認識されうる時代もあったのです。

この「猫堕落無茶斎」のふるまいについて管理人が許容しているというか、管理人もその言動でストレスをためて不満の声を揚げる他メンバーに「暴言を吐いた」として強制退室ボタンを押すという楽しみを持っているため完全に猫の餌場と化しており一般人には地獄なのですが、やはり地獄も人間の娯楽のテーマになりがちな舞台であるため残ったメンバーは離れられない模様です。
地獄そのものである環境を改善したい、平等にあってほしいと声をあげるメンバーもいらっしゃいますが先にまずそれは無理でそもそも猫が汚らしい言葉で一般メンバーに汚物を吐きかけ悶える姿を管理人と二人で見て楽しむ場所であることを認識していないことは大変つらいことであるだろうとは思います。
しかしその前提条件を理解せずに純粋に人として正しく優しく広く浅く考えていこうと思われている方こそが、おぼれて悶える姿こそが楽しみであるという「猫堕落無茶斎」と管理人の二人の関係性を部外者として観察することこそが楽しみであると、気が付いたものだけが楽しめるという背徳感も、申し訳ないですが楽しみであります。


文化の醸成は人の成長にも似てそんな時代もあるという事で、それが変化していくこともあるでしょう。そういう時期はありましたが現在では言われる場面は少なくなっていると思います。
その現象の一因には「そうであった時期」が存在していたという事とその認識、さらに対処があって変化した結果なのだと思います。

他人の記録や結果の情報は利用するのに、自分の行動や過去は振り返らないというのは若さにはってほしい精神の方向性だと思いますが、いい歳をした大人がオープンチャットでそういった態度をしているのを見ると、精神的な痛みを感じます。
その痛みという大きさの刺激を与えてくれるLINEオープンチャットの部屋が「哲学カフェ」なのであります。

まるで炭酸水のような刺激的で満腹感のある「異常者の発言行動」が継続的に楽しめる珍しい部屋です。
アドラー心理学」がいまひとつ観察水槽としての魅力や刺激に欠ける昨今、楽しみな部屋の一つと言えるでしょう。

自己循環の輪

最近の「アドラー心理学」部屋はすっかり毒気がぬけてファクトリーメイドのチーズナンにボンカレーがセットしてあるような、平穏な状況が続いています。
フロイトだとかラカンだとかゲマインシャフトだか、それがどうてこうして、ああなって、そして不幸は去れ幸せ来たれ、あなたも幸せそれが私の幸せ、というエクソシズムが形骸化されたようなあたたかな挨拶チャットとなっています。


一方「哲学カフェ」は「猫堕落無茶斎」があいかわらず意味のよくわからない喧嘩を売っては「こちらは本のタイトルと作者名を明記してある。だから私の勝ちだ」というスタンスで周囲をドン引きさせてくださっています。
加えて人格否定である「〇〇してなさそう」「〇〇っぽい」「〇〇もわからない程度の〇〇」をチャットルームのガイドラインに完全に抵触しながらも、管理人も一緒にその様子をお楽しみではあるのでまさに猫の動物園といった様相を呈しています。
参加されている方は同じ方法で同じ返しをログからコピーして返せばよいものではないのかと私個人は思ったりするのですが、それはきっと管理人「たけぞー」氏の逆鱗に触れるでしょうし、そうなれば申し開きの機会もなくいきなり退室処分にされるので完全に猫が餌に食らいつくショーを楽しむコロッセオとなっています。
近年、そんな残虐ショーはどこでも執り行われていないので貴重なショーであります。


「猫堕落無茶斎」の言動パターンは固定的で特に知識も知性も必要がないためBOTの制作は用意だと思われます。
ドッペルゲンガーを当ててやれば消滅するという古くからの言い伝えにもある通り自分で自分を認識するということがもし可能なタイミングがあれば自身に絶望してしまうであろうことは確かなのですが、そういった威力からの成長をだれも望んではいないと思います。
彼のあからさまに異常な問題発言は人が異常な行動をどこまで取ることができるか実験的であり実践的、具体性があって再現性も高いサンプルケースとしては非常に有用だからでしょう。
奇行を堂々と行う神経の図太さというか、自己認識力の欠如は他の人が真似をしたり鏡をみたりしたところで自己を認識することなどないかと思われるその無神経さは、並の人間には真似ができるとは思えません。
だれもやりたがらない、やろうともおもわない奇行を堂々と自身をもって自分の快楽だと認識して行ってくれる異常種は、その存在意義を自然と充分に披露してくれることは、並の人間には非常にありがたく有益だといえるでしょう。

 

 



直近では議論らしい議論として、管理人と「猫堕落無茶斎」とのなれ合い以外は特に手厳しく管理人である「ボブ(たけぞー)」氏独自のルールだけにてとりしきられているチャットルームではありますが、建前的には平等と見せかけて餌を釣る手法には手堅く他ユーザーを餌としてのみ捉えることができる腕前があってこそだと部屋の完成度を見せてくれています。

彼が直近で絡んでいた話としては関東や関西、近世の世俗とか文化について新書を読んでるかどうか、江戸時代とかには何があったとか、どうだったとか見てきた風な口ぶりでだれの本を読んだとか言っては、他メンバーの自由な発想を「そんなの本にのってないw」「本にのってないからおまえは読んでないw」「つまり本を読んでないお前は愚鈍で無知で議論にならないから馬鹿でレスバで他たたいてやるw」といういつもの流れでした。
どこの本基準でなに定義をもってして「議論」しているのかもよくわからないいつもどおり「だからお前は馬鹿なんだ」というに至るまでのシンプルパターンの経路は、定番のオチをもってくる毎週同じ時間に放送する昭和のお笑いのような「見る必要はないがつけていても特に問題ではない」感覚を呼び起こします。
このずっこけギャグが管理人もお好みの様子で、議論初心者、哲学初心者の他メンバーは「お笑いを見に来たはずなのに舞台に挙げられて無茶ぶりされて恥をかいて帰るのが不満」という至極当然の展開を不満にあげることすら楽しみとしています。
普通に考えて、視聴者は舞台の上のひどい芸と距離を置いて決して交わらないからこそ面白いわけで、自分が画面の向こうの嘲笑の原材料とされたら、普通に不満でしょう。
そこはしっかり管理人も、ちゃんと明記してある、平等である、ポリシーにのっとっている、なにより「みんなの自由を優先している」として取り合わない事も芸として披露しています。

「猫堕落無茶斎」の手順は単純明快、手法そのものより以下に「相手を馬鹿にする」という姿勢を維持しつづけるかという事が特徴的で難易度が高くなっています。
基本的に、人は自分が人であるために「他人」という「人」に対する攻撃についても手心を加えてしまいます。スプラッターホラーの痛いシーンを見ると自分も痛くなるような感覚を覚えてしまう神経を持ち合わせています。
しかし「猫堕落無茶斎」はそれを持ち合わせていないため他人に手加減をすることを知りません。関節を逆に、やわらかいところに突き刺して、そういう行為が「だれもしないのはなぜか」を考えたり「実行してみた」とすることが哲学だと考えているのです。
なぜ人は道路を横断しないのか、なぜ人は高い場所から飛び降りないのか、それは哲学だと考えているのです。実質的には学として分類し原因となる情報を最小化し再利用性をもって価値としたり使用する方向性や意味を考えるものに分離されないものを「(自分の解釈では)本にかいてあった」という理由か、もしくはただ馬鹿だからわからないのだろうという理路を自身では哲学だと思い込んでいて、それを尊厳としています。

 

「近代的な国民国家と国家意識、民族意識の形成はまた別のもんなんや」
「江戸時代の知識人に民族意識はけっこうあるんよね。」
「江戸時代は各地バラバラに行政府が独立してあったからとゆうことを前提にしてないね。民族意識はあったよ。まあ無学な下層庶民はともかく。きみ、基本的な思想史勉強しなよ」

 

「語る」ためだけに特化した情報をもっているかのように話しはしますが、現時点までにおいて「猫堕落無茶斎」自身が「本にのっている」「あった」の他には著名人の氏名以外を語ったことはありません。
意識とか前提とか、思想が何かという事について内容をなにも語ったことがありません。おそらく語りたい気持ちはあるのだということは「おまえが語るな」という言葉に見え隠れしますが、おそらく語れるほどの言葉と自信、勇気を持っていないのだと思われます。
そんな内弁慶な彼が無双で勝利の美酒に酔いしれるためには自分以外の馬鹿を馬鹿だと言い放つ事で自分は相対的に天才でしかないという自覚感覚に絶頂を感じるという方法も一つあるわけですが、それを選んだわけです。

 

「日本人の国民意識はどこからきたものなのか」

 

という問いを他のメンバーが投げたとしたら、実際その当人は何が聞きたくてそんな質問をしたのか考えるべきでしょう。それこそが哲学なはずです。
それは何百年、何千年前のだれかが言った形骸文である論や名言ではないし、だれかの執筆した本にあった何かではないのです。目の前で人が生きていて発生している現象そのものなのです。
それを「本を読んでない」「そういうのは、ある」とか、自分が井戸から出ていないので、双眼鏡で見る限りは世界にはいくつもある、という感想をいただいてもなんの意味もないのです。

質問者がよく遭遇する事象や気になる話題や遭遇した状況について、自分にはそれが再現される可能性があると考えて、それをもし二度目以降にも経験することになるなら、もしくは自分を含む他人もあわせて経験することになるなら、対策をするために情報を切り分けたいという思いがあって質問したのであろう程度は考えるべきです。
多少なりとも「本を読んだ」以外の知識があるなら、人が喋っているのだからそれは人の意図するものがあってその人の意思がそれをさせているのだろう程度は考えるはずです。
どこの本にかいてある「日本人とは」「意識とは」「歴史」が「その質問者の、質問した意義」に適合しないのであれば、どんなに高い文化的価値をつけられている学術や研究であってもまったく意味がありません。価値もありません。
風邪に対して向精神薬を投与するのが「良い」とするのか、その結果や経過、とりまく環境の状況において「最適」なのか、とりあえず精神に効くから価値があるはずだなんて考えはおおよそ常識的ではありません。
「なぜ風邪にかかったら向精神薬を飲むのか」という哲学をするならまだしも、「風邪」というテーマについてもってくる話ではありません。

「猫堕落無茶斎」はそういう局面にそうなってしまった事についてさえも「哲学してる」「これこそが哲学だ」と言って憚らないですが、哲学に「学」がついている以上、定義の範囲内で節度を守るべきです。
先に「意識について、特徴的に国民の、とりわけ日本において」という議題をまずおいて、その意図が質問者にありきの上に「自分がもってきた哲学」を重ねる不埒な行為は哲学でもなんでもなく、倫理のかけたサイコパス行為であるといえるでしょう。

そしてその勘違いの恥辱を自分に科した上で「これだから哲学を知らんやつは」となんの根拠もない否定で自分の存在場所を切り分け居座り、さも当然のように「場荒らしである自分がいることが哲学なので、哲学したまえ」「そんなこともできない知能のたりない馬鹿なのか君は」と煽ります。

そう話すには理由があり披露したい論や学がありその話題につなげるために自分の話したい議題を他人の質問の上に質問を載せるという形でもってきたのかと思えば、そんなものはなくただ「自分がすごいという評価に至るはずのちょっとそこらでみない単語を並べるのでお前を馬鹿だと呼ぶし私を天才と呼べ」しか内容がない文章を垂れ流します。
この包み隠さない承認欲求を自分で垂れ流して自分で回収するセルフスカベンジャーのような自己循環の輪は、まさに職人芸というか食人間というか、自虐のなかにも自尊を含んだまるで他人のひとりでおこなう行為をのぞき見させられているかのような背徳感すら感じさせます。

「猫堕落無茶斎」の文章はそのままコピペして使えるほどに内容がなく単純でかつ、人を不快にさせる度数の高い便利なものです。
ぜひログを保存して短文を再生可能な状態にしたり、ボットに記憶させて利用の価値を感じていただきたいと思います。

神様と視線誘導:意義のある情報拡散の背景

最近面白い話題に二つほどブックマークした。
直近で話題にしている「クー」にも繋がる話で興味があった。
興味深いと書くほど深みがないし、興味があるというほど意欲もない。

ぶっちゃけそうたいして内容を深く読み全体に配慮して考えているわけでもないから、実際どうでもいい話であって私個人の感想のみである。
どこかのだれかに賛同するわけでもなく、反対意見もなく、そういう仕組みがありそれを利用して、特定のコミュニケーションが発生するというだけの話である。

 

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この反応が昭和に生まれた「お客様は神様です」の三波春夫による発言を曲解した文化が継承されていて、その概念的な構造は「クー」のよく用いるものに似ている。
もとの三波春夫発言を説明されたオフィシャルなところの本人からの意図は「自分が不特定多数の圧倒的な対比率で顧客に接する場合の精神のありようは神と対峙したそれであろう」という現場へ望む体勢の話であった。
つまり自分の提供品を全力で提供するにあたり直接的に交換を求めない、間接的に結果を私は得るのだからという関係性である。
これを単語だけで「神という立場の客がいて、提供者は所詮人間程度のものである」と接続を組み換え完全に異なる意図で話を進めたのが「客が神様理論」である。
この「逆にいうと」と逆でもなんでもない、とんでもない方向に接続をしなおすフランケンシュタインのモンスター作成法で人の道を道なき所に勝手につくってそのサービス品質に最高を求めようというキメラを作り出す手法である。
お客様のご意見が最優先、という商法であるとしてもそれは商売の範疇であって行動の主導権をお客様に与えてそれに追随する事こそが商売だとはどこにも書いていない。それこそ書いてないからしていいのかと同じ理論ではある。
してはいけないというのが常識やお気持ちだからそんなものでは対処できないのであれば明記すべき、「放題」を掲げるべきではないというのなら自分がどんなお客なのかを額に書いておかなければ「自分というテロリストを通過させるなんてなんてあまいゲートなんだ」と発言するようなものである。
迷惑系Youtuberや、飲食店やデパートのサービスで無茶をして動画を撮影する系統となんら変わりはしない。迷惑行為で逮捕されても問題ないだろう。
「放題」とかいてあるんだから「放題」してもいいだろうというのは個人の解釈なのでそれが提供されているサービスと同一かどうかは個人の知的レベルの話である。
自動車を「自動」と書いてあるので運転中寝てましたで済むのかどうかと同じである。食べるのは放題だが「選ぶ」のは放題ではないとしたら反論できるのだろうか。また食べるにも主語はないので「お客を食べる店」だとしたらどうだろうか。
もちろんそういう前提をまるごと「前提」として話をすべきでいま言語の理解を出すタイミングではないし、問題は特定の店において特定の人の特定の行為だけである。
人が無理と言うものを「なぜできないんだやれるはぞだろやれると自分は確信しているそれをやらないのは不条理だ、自分はその不条理を控えてやるがほかの全員はそれを許すかな」と声高に店内で叫ぶ、店頭で叫ぶというのはその料金とその目的である料理との関係性においてありなのか、必要なのかと考えたら、黙って食うか黙って出ていくかしかないだろうという話である。
もちろん食べ放題を「店内でなにをしてもいい」と勘違いしているとんでもない狂人が入ってくる可能性はある。看板に「放題」と書いてあるので独自理論の放題を勝手に持ち込んでくる人間は実在する。
ほかにも玄関をあけていれば動物や昆虫が入ってくる可能性もあるし通気口からもありえる。おつりの小銭がなくなる可能性だって店の椅子が壊れるとか電球が切れるなんてことも可能性としてはあり得る。
テーブルが拭きたてでちょっとしめっていて入店直後に手をおいたらすこし不快になることもありえるだろうし床の模様が気に入らない客が入ってくる場合もある。柱の位置がその日の風水で不吉な店もあるだろう。
書いてないから、そういうのはクレームをつけて拡散して自分がなにか得をして、店が不利益を被ることが必要なのかどうかというだけの話である。
5人前ずつ頼んで50人前注文時に、その態度がどの地方や当人の表現方法で攻撃的であったか、相手に不愉快な印象を与えるものであったかはわからないが、とにかく45人前までは可能だったという事だろうとして、それ以上連続して注文する必要性や意義や特別性を感じなかったのだろうか。
だとすれば牛タンを日常的に1キロ程度食べる生活をしていてなんら疑問に思っていなかったということに気が付くべきだろうし、そうなるタイミングはどこかであったはずだ。
それもなく、牛タンを1キロくらい食べるのは普通だろという生活をしていたとして、そんな人間を想像することもできないのでどういう方法で一般的にキロ単位で牛肉を恒常的に食べて他の人間と差を感じない生活をしているのかまったくわからないけれども、だとすれば食べ放題を選択してきたのはなぜかという疑問もある。
放題でなくてもキロ単位で肉を食べてきて、料金が安いからと選択したと言うのならまずキロで注文するのではないか。キロ肉があるかないか聞かずにキロを食うのは、量に関してもサービスに関しても、常識としてもいろいろ不足している可能性がある。
もちろん、全部が不足していて、50人前の肉を注文できず、自分が10人前の肉を食べられない状況に、料金を支払って全ての準備を自分は完了していて席についているのになってしまっているとしたら、問題は店にあるかもしれない。
しかしそれは店が解決すべき問題であって、SNSで拡散して「僕1キロ肉食べる人なんだけど、ここはダメっていう」の日記を晒す必要があるのだろうか。もちろんメモアプリを使うこともできず、再度自分が間違いをしないためにもメモを残すためにSNSを使用している可能性はある。
そうだとして、全部がそうだとして、肉をキロたべる日記をSNSでつけるモンスターが普通の生活をしてみんなの隣にいるというのは、それ自体が問題ではないだろうか。
衛生チェックと称してねそべったりサービス確認と称して汁をまき散らしたり、割りばしがなくなったときの対応チェックとか「そんなことするはずがないだろう」であったり「そういうことは想定していない」で営業をしている店は多くある。
どうしてそれを明記しないのかという問題があるとすれば「明記すればそれを防げるのか」という話でもある。もちろん防げはしない。
法律でも殺人がいけないとか窃盗がいけないという話は書いていない。してはならないと書いてあっても実際に事件は起きている。「したらどうなるか」が書いてあって「した人間」について状況をよく確認して構成の期間を設けるのが法的な処置である。
店側が対処できるものはほとんどなにもないと言っていい。客を選ぶしかないのだ。選び方は会員制、高料金、抽選、ドレスコード、等々あるかと思うが他に「現場で素行が常識の範疇であること」もあるだろう。
客として通してもらえたから店はなにをされても文句が言えない許可を与えてしまっている、自分が食べ物だと認識して食べたら責任は食べた側にある、と言うのだろうか。そうなのであれば「食べ物に擬態すること」について、まるで客であるかのような顔をして敷居をまたぐことに問題があるだろう。
テロリストはテロリストの顔をして、クレーマーはクレーマーの顔をして門をくぐれと言うのであれば、それはその通りだとおもう。ぜひ実行してもらいたい。それだけで世界平和は各段に高いレベルに引き上げられる。
50人前の制限が書いていない、単品についての注文上限数が書いていない、ということを確認して注文するのであれば明らかに相手が想定していない注文をしようとしている事になる。
店側が提供していないものを注文しようとしている事について、していないと返事をされることについて、ないものについての保障やそれについての問題提起や改善要求をするのはふつうに考えて妨害行為である。
客にむかって「あなたみたいな普通の見た目で普通の量を食べそうで常識的な対応をしてくれそうだと思われる人は店内に通すが、そうでなければ帰ってもらう」という意見を受けたとき「店が崩壊するかもしれない客を、客として扱わないのは人権侵害だ」と言うのだろうかという感じである。
擬態もしていない毒を盛られて、毒だとわかっていても食さねねばならぬのなら、食うなと注文するなと出ていけと言われても応じるべきだろう。食べる以外の選択肢については一切なんら都合のよくない事には対応しないという事は「客」にも「放題」にも含まれていないはずだ。
現に自分が50人前に到達しなかったという事については不満を漏らすわけである。

論理的に崩壊しているという事は、しているというだけで済むのでさておいてそれがどれだけ社会性を失っていて異常な行為であるかは考える必要がある。
これは移民問題にも起こり得る話で、実際には日本人同士でさえ、一般になりたつと思われるコミュニケーションにおいてさえ日常的に発生する問題であるからだ。
自分の解釈をコミュニティ内で、コミュニケーション関係者において共通認識とさせようとする、その意図は発言者にのみにだけ利益があることを、というのが最も重大な問題点である。
もちろんそれが問題にならない場合もあるし、それが成功している場合もある。共通とさせるとともに責任を負う事でその共通認識を利用するにあたり利益を発生させるものとなり得る場合があるからだ。
しかしそれが固定的でなく、永続性がないことは人の世を鑑みれば理解できる話で、またそれを組み込まず前提としないで単語の印象だけで自分の都合を責任なく強制しようとするところに問題があるし、人はそれをしがちである。


根本的に、継続性について考慮することがない世代を生み出してしまったのが核家族の結果で、現状それを助長する文化で各個人が孤立するようになってきている。
組織化しなければ、集団化しなければ、人間も含め生物はみな全て等しく全体で生きなければ、生きていけないものであるというなによりも優先させるべき絶対的な根幹を喪失した、ある意味人間性という動物性からの脱却が度を過ぎて無機質な文化そのものの輪郭が人の形をしたなにかとして社会を動かし始めているといって良いのではないだろうか。
機械が人間を管理するような社会を目指していると本気で言っても信じられる程度には人間が生物から脱却するのを理想としているとしか思えない方向性ではあると思う。
それが良いか悪いかは別として、独特であるとともにその独創性もまた生物の思考から生まれたものの一つとしてこの世界にどう存在していくのかという事は楽しみである。

アドラー心理学」部屋においては、「クー」や「B」が自己都合でその場の気分で適当に論理や理屈を捏ねるけれども、その場しのぎで適当で軽くなんの継続性も背景もなく相手の気分を押しつぶして自分の重さや大きさを自分で実感することで日々の満足感を得ているだけという傾向や動作に似ている。
近代のこれらの文化や教育、娯楽などが形成してしまった結果なのだろう。たしかに周りに迷惑ばかりをかけて本人が喜ぶという幼稚性は、迷惑をかけられる側にとってみれば不快感しか得られるものはないが、その不快感を感じるという人間性こそ生産性や有意義な成果へ至れるストレスという原動力になり得るというのもまたアドラー心理学があてはめることができる部分でもあると言えるだろう。
そうなると、ただ問題の発生機械と化している、それが自分の満足であると快楽であると錯覚している「クー」や「B」は自身をすり減らして楽しいと感じていることでその身を蝕んでいる薬物中毒者のように哀れではある。
しっかと彼らの貢献を自分の糧として楽しんでいきたい。

ときにこの「貢献」が捧げもの、貢物、自分の利益を考えず他人のために尽くすこと、と「クー」は誤解曲解をしているわけではありそれをまったく関係ない「アドラーが」と続けてきて誤解を植え付けようとしてくるわけですが、この「貢献」はそのお客様にみ貢物で捧げる商品の事でもない、客と店主もその交換が等価であろうとする時点で平等な立場であることを説明したい。

貢物を献げるわけなので下から上に無償で提供することかと思われがちですが、これも単語で捧げるの言い換えで使ってその場で雰囲気を持っていこうと経緯を無視して語るのでそうなるわけで、これが「ささげる」とか「差し出す」と言うならそう言えばよいわけでなぜ「貢献」という言葉にしているかを前提にしないと会話が成り立いません。
その成り立たない会話を釣銭詐欺のように「貢献といえば差し出して満足いただく自己犠牲の愛」みたいなニュアンスで差しこんできて意味不明な献身性を求めていく、自分は一切差し出さないスタンスなのが「クー」であります。
貢物というものもその動作を考えると立場が下の者が上のものに使ってもらうために無料で差し出すものを思い浮かべると思いますが、それは「その経緯をとっぱらって直接下のものと上のもとが繋がっている状態」であり資本主義経済の構造に置き換えると「メーカー直売」に近い状態なわけです。
競争や選別、商品価値と社会における知名度や利用度からたどり着いた選択肢を上位者が利用するわけではなく、ダイレクトに上下がつながった有利な状態なわけです。
これを献げるとはそこで直接的に利益がないまたはとても薄い見返りで交換することになりますが、これは先の「直接的に利益を求めない」お客様神様理論にも同じことが言えるわけです。
その場では納めるものといただくものの関係性ができあがるけれども、その場で交換は等価ではないくても交換に応じるのは、その差分がその時点で発生していなくとも後に期待ができるからだというわけです。
その暗黙の信頼関係が立場を接続状態を不確定なものにして表現する、自分と神様との関係のような表現になります。
もちろん資本主義経済はそこに保険を掛ける意味で二重の発行通貨を用意し、信頼を価値として契約や料金にすることにしています。しかし発行貨幣が全てそれを賄いきれるわけではなく、もちろん暗黙のままである場合も多くあります。
マナーを守るとか常識の範囲内でいることを品とってそれを上向きに保つことで貨幣化していない価値をいずれ利用が可能な時に引き出すために貯めているわけです。

それを明示的に金銭に変換しなくてはならない状態というのは、その後という可能性にある大きさ、ポテンシャルを交換時、成約時に決定することで安全性を確保しますが、大きさは制限されます。
金融派生商品などその約束自体を商品にしているものは結果が大きくなる予想で売り買いされますが、結果期待値よりも小さくなることもあります。
その場で現金化することで安全な利益を確定させることはできますが、経時的に小さくなることはありませんが、大きくなることもありません。

貢献という文字の意味するところは、その流通の経路を経て結果価値を付与されたものをやり取りする方法ではなく、ダイレクトにまだ価値のついてないポテンシャルを含んだままやり取りをする事を意味します。
その手渡す内容が物であったり約束であったりする「貢献」は一旦その交換対象を両方が手を離した状態で、その価値を手放すと受け取るの動作だけに関係性をもつことで交換を不条理なものとしていますが、その意義はより大きな結果への期待にあります。
これは賭け事や投資も同じで一旦持ち合わせを手放しの状態にして、期待の実動部に使用することでより効率的で大きな結果に繋げるという構造は始終関係や縦の関係や搾取の関係ではありません。
「貢献」はより大きな結果に期待してポテンシャルを充分に引き出すために、最適な利用の箇所やタイミングのために占有権を一旦破棄した状態に置くことを意味します。

共同体にて「貢献」するということはその提供主として直接的にリターンやレスポンスを得ようとすることではなく、だれでも利用できる状態で提供するということです。
その利益を得ることができる範囲が「共同体」であり、その受け取りをするためには自分を確立しておかなければ配分先を見つけることができなくなります。
そのために提供したものはだれであるかという責任がついてきますし、使用したのが誰かという責任も発生します。
これは経済社会において金銭、貨幣に占有権がないのと似ているでしょう。お金に所有権があるなら支払いの際に占有権放棄を毎回しなくてはなりません。あなたの100円玉を手放すとき、私は手放します、この人に渡します、それについて依存はありません、同意がありますと書いてサインが必要で、その渡された人間も会社の売り上げに記載するとき同じように占有権を移譲しなくてはなりません。
利便性と効率性を実現するために、だれでもの範囲を明確にしておかなければ、誰でも秒で思いつく「しらない人がもっていったらどうするの?」が発生します。
そうならないための信頼関係に共同体です。

搾取とか縦の関係とか、実際その共同体を思考したときに出てくるわけがないのですが、それをわざわざ保険のように明言しておかなければならないという状況の、共同体の認識の低さと危うさは教育などによって伸ばしていくべきで、常識や倫理といった安全性を自立という形で育まれたものが担うべきなのはもう何百年とこの世で紡がれてきたものです。
これを一言で「いますぐそれをすればいいだけじゃん」で突き崩せるわけがないのに、人の知性の成長を阻害してその場の判断を責任と言い換えて、貢献や共同体をいびつなものに言い換えて一度きりの無茶な交換を強いるように迫るのが昭和にはヤクザがいましたが、今は一般人がそれを行うようになり「クー」も「B」もその類といって遜色はないでしょう。

ヤクザが問題だったのは組織化しているところで、その迷惑行為で被害がでた場合訴え出ることができるのですがその法的介入の末解決したとしても「組織として連続した別のもの」が続けて迷惑行為ができるというところにありました。
つまり何度でも「不利益な一度きりの交換」を迫れるわけです。しかも「一度きり」を毎回できる可能性があるわけです。その都度法的な措置を取ればいいじゃないかと秒で思いつくでしょうけれども、ずっと「違う誰か」が迫ってくるわけです。
それが組織化されていることの問題点で、一人が一人きりで行えば終わる話が永遠に終わりがないのです。そんな事する人がいるのかと疑問に思うわけですが、そんな事しかできない人をあつめて、それをすることで誉められ地位を得ることができる人間を集めていると、永遠に可能なわけです。
現実的ではないかもしれませんが潰すまで実在した話で、現在でも「そんなことするわけがない、するはずがない」と秒で判断できる「闇バイト」や「甘い誘惑」に乗る人間は存在するわけです。

これは価値が手放しな状態で共有されると利用において効率的になるのを悪用しようと思うと「結果につながらないことが確実で完全なゴミ」を混ぜ込むことで「貢献した」に対する利益を期待する者が出てきます。これが「クー」です。
食べ放題ならいくらでも食べていい、なんて訳がないのにそれを在るとして、際限なんてないと常識にはあるものを無いとして、ただ自分だけが利益を得て他者に損しかもたらさない毒を共有域に投げこむ人間が出てくるわけです。
これはもちろん危機管理に貢献するために発生する、共同体自身の進化のための自己発生的な劣悪性、優位性と劣等感を内部で発生させたもので意義もあり貢献をしています。
実際に具体的な損をして被害を被るものが出てくる事で、それを補填する責任を負う事で共同体に存続しつづけることができるというのは日本の長所でもあり短所でもあります。
完全なサイコパスを野に放つ危険性と、一度の間違いを更生してそれを活かして社会をよりよくできる人間の両方を存在させることができるのです。

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これはよくしらないのにどちらか側の意見に賛同するという、よくわからない状況である。
北か南かどちらに流れているかわからない渦の中で、自分は北を目指すと言っているようなもの。そっちは北なのか?
判らず知らずに言うのは構わないだろうし私もよくわからず話をしたり意見をしたりはする。わかっていないからという事からする行動でもある。
しかしどちらかの側についたり気持ちがわかるとしたり、それを独自に理解した個人的な見解をもってどちらか側であるというリスクしかないリスクをまるごと取るという、あるじも特におらず目的も特にないのに陰腹を切るような決意の行動は、一体なんのために行っているのかと謎である。
謎とはいったが、そういうパフォーマンスで見た目前後の経緯や関係性は特になくその場面だけの絵で「なんかかわいそう」等感情を引き出せたら「かわいそうとおもったら高評価とチャンネル登録よろしくお願いします」の流れであるのはもはや近年のテンプレートなので、そういうコンテンツなのだろうとは理解はしている。
よくわからないものを判断基準にする場合は自己責任における範囲でなければ、聡明な人間であれば想定外のところから想定外の反応をいただくであろうリスクは考えうるわけで、なにかわからなんがどういう利益や被害が出るかもわからないが、とにかくワクワクしたいから「わからんけど」やってみるの精神のバイタリティがなければできないことではある。
この方の場合はどんな反応であっても反論し攻撃し利益に変えるという意気込みと自身とバイタリティがあるからこそであろうとは想像に難くないわけではあるけれども、それは「B」に似ているとも言える。

アドラー心理学が、人間関係に特化して関係性の連続性を切ったり繋げたりすることでちょうどよい距離感を探す手立てをまとめたものとして使える部分がここには大きくあると思います。
実際だれがどれだけ肉を食おうが捨てようが、知ったことではないのです。課題の分離を行えば社会や他人といった直接関係性のないものは、関係を持とうとしても困難である場合が多いからです。
もちろん個人単位で社会や組織と交渉ができる人もいます。それであなたがそれですかという話です。自分が制御可能な範囲で人間関係を持つことで支えきれないストレスに絶え間なくさらされたり、異常な欲求を満たすために他人を犠牲にして結果危機に陥ることを防いだりしようというものです。
つまり知らない業界の知らない現場の知らない実情について、良く知らないけどダメじゃないの?いいんじゃないの?とは、なぜいいのか悪いのかでてきたのかという事です。

なぜ50人前注文できると思ったの?なぜ追い出されないと思ったの?なぜ「やめてください」が上から目線で偉そうで不当な扱いで不条理で不遜な態度だと思ったの?という事でもあります。
何人前ならいけると知っていたのかと聞いたなら知っていたのでしょうか。いけるはずだと見たとしてもその日は可能であるとどうやって見込んだのでしょうか。
それらが確信であったなら、その予定が調和しなかったことに店長は「予想をさせてしまったこと」について詫びたのではないでしょうか。
「放題」と書いていたら自分のそれが適うはずだと誰に確認したのでしょうか。
ラーメン店で「手マン禁止」と張り紙がされたとして、そんなことする人がいるわけはないでしょう。常識的に考えてラーメン店のカウンターで外からみてわかる位置で手マンなんてする人間がいるはずがありません。
いるはずがないものだからだれもそんな張り紙をしていないし、もしその張り紙をみたなら写真を取ってツイッター(現X)に公開するでしょう。
そんな対策を練らなくては商売がなりたたない、見つけて都度注意するではすまない危機的な状況を作り出す人間がいるわけがないでしょう。
仮に「食べ放題」という看板を掲げていたとしても「何トン食べても同じ値段!」なんて書いていないわけです。なら食べてもいいでしょう。ただし店側もそこまでは用意していません。
当然していないものは提供できないし、おいていない商品を注文されても困ります。注文の上限に達するとその状況をなんらかの形で話すことになるとは思います。
その結果を招いたのは選択をした人間のものであって、それについて問題性を見出さないのであれば、ただの異常者です。
「食べ放題」の定義とは、店が破産したとしてもしれは店の責任で客は店の経営など気にせず注文をし、不満があれば提供の方法や経営方法に関係ない「風評」にてつぶれてもやむなし、という意味だと定義されているのは、そしてその店の店長にそれを理解させたのは、そしてそれに同意しているという経営方針を、どこで確認できるのでしょうか。
それをお気持ちといわないのであれば、常識的な範疇とは一体なのか、見せてみろという話になると思うのですが、どうしてそうならずに「やめてほしいはお気持ちだから存在するなら見せて見ろ」になるのかと、本心ならばその経緯が謎で興味あります。

人を殴れば殴り返される、それはもちろん直接的にもあり、法律を使って間接的でも、SNSを使って拡散されることも、痛い目は直接よりもめぐりめぐって来たほうが倍化されて痛さは想定できないほどになる可能性があると、知らずに無垢にただ殴りたいから殴ったというのであれば、そのピュアさにうっとりするものです。
客として好き放題、だって放題って書いてあるから放題したのに出ていけとは、なんて店だ、と言うことは「なんて客だ」と言われることを想定しないなんて、どれだけ情報無菌室で育ったのか気になるところでしょう。
性的な被害をうけた弱者の女性ですら「誘ったんじゃないの?」というコメントが発生しうる現在のインターネット情報網において、100%完全に肉の注文度合いや態度や口ぶりが最適であったとしても「客に問題がある」と言われることは想定できるのではないでしょうか。

もちろん常識の範疇で考えると、それを想定で両方の人数を集める事ができる方法で情報拡散を行えば発信元は一次的に注目を浴びるので、その視線誘導を使ってなにかしようとしている、人の視線を意図的に操作しようという動作自体に問題を感じるわけですが、それとは別にその手段に同意や意義を感じる人は、いわゆるバズ狙いでない場合があるとしたら、その自己犠牲の精神たるや神聖性を感じます。


結果いろいろ書き連ねましたが、要するに人間ひとりでは生きていけないので組織化しますしそれにはなんらかの意味があって、それを見るだけで楽しめるという豊かさを我々は手に入れてしまったという事です。

異常な振る舞いと健康を考える

皆さんは、哲学や心理学のチャットルームに入る時、何を目的に何をもとめて、どんな意図で入室されていますか?
ほとんどの方は他人の言動を集積している分野にてマウントを取ったり行動を支配したり自分の都合よく事実を捻じ曲げたり、なんとでも言い訳ができる分野で相手を言い負かしたいという気持ちで来られているのではないでしょうか。
または、傷ついた心を癒してほしくて来られる方を餌として求めて待ち伏せするために来られているのではないでしょうか。
事実それ以外の人間が来られることは、それを承知で観戦するために来ている人だけであるのは多くの部屋がそうであるという事実しかないところではあります。
学問として学ぶべきところなどないですし、式も法もないので検討したりなにか成果を生み出したりする事がない分野の特徴でもあります。

心理学、哲学、という話題をするとき、いかに自分が人間を超越した存在であるかを誇示するだけという事が多く、それらはそれ以外に何の役にも立たないものでもあります。
行動生理学や脳神経医学ではなく、それらが出力した最終成果物の形を品評する「心理学」はいわば美術と同じ分野になります。
そのため歴史を語り、系譜を語る以外にその存在を使用するこは無く、そこから発展するならば会話としてはマウントの取り合いと人格否定、そしてなれ合いという美術界と同じ系譜をなぞる事になります。
哲学も同じで、ついでにいうならば過去の偉人や著名人の発言が現在の現象に符合していると唱えて、さらにそこから未来が予測できるという雑談をするものでもあります。

数千年前の哲学者が何かを語ったからと現在において使用する意義などまったくありません。表現として固定的に使われている洗練された言語の形であるなら、日常会のこの言語で使用しているものすべてはそうなります。
二千年間だれもアップデートしなかった言葉の意義たるは、しなくてもよいもの、つまりまったくなんの効果も変化ももたらさない、意味がないため形を変えることがなかった、外敵がいなかったから進化も変化もなかった言葉だと言えるでしょう。
そんなものを使う必要性と場面と、ないはずの効果を求めるのはその効果でなにか優位に立てると感じている、実質優位もなにも価値がないのだから意味がないのにあるとするならばそれは相手の損失、罵倒して侮蔑して穢すこと、負けさせることによる勝利を得る事、つまりマウントを取る事のみが目的であることが確実になります。
基本、哲学というのはそういう自己満足によってよくわからない不安感を払拭するために自分を自分で賞賛し感情を高ぶらせるためだけにあるものです。

哲学の根本は、聡くあろうとすること、賢くなることで「自分自身の精神的被害を小さくしよう」というものです。
生物は物理的な構造の不足は協力をすることで補うことができます。しかし精神はそうはなりません。その精神的な問題点を解消するのに物理的な協力も効果的ですがそれが求められない場合、本人以外は為す術がありません。
社会的な保障などで物理面は補えますが、生物の相互関係がどういう形になったとしても精神的な変化に直接的かつ目的に沿った方向へ変化させることは難しいのです。
生物が複数の個体を発生させるのは物理的な構造がまったく同じであるものが複数ある必要はないのですが、中身がことなるため同じ構造のそれぞれの可能性を探ることができるためです。
そのため精神の構造は多様で多岐にわたり、それぞれが異なります。精神が問題を受けて行動が鈍った場合に健康な体であれば、不足していれば、重症であれば、などの場面ごとに可能性を探ることができます。

その中で、強力が得られず精神的な負荷を軽減しなければならない状況においての手段として考案された提案の集まりが哲学です。
文学者がおおよそ性的に異常な欲求をもって奔放な性格で実家が太いため倫理観を乱してそれを書き残したものを教科書に載せて学んできたように、哲学者は自分の不都合な状況を物理的に解消できないならば、妄想をすることで気分がハイになるという手法を書き残して学んできました。
何々なのはなぜか、という問いに求める結果は「スッキリ」という効果であるという構造式をもつその姿をみれば、冷静に判断すれば何の役にも立たないおまじないであることは気が付くはずです。
現に実際哲学や心理学を学んだ、という人間が世になにかを成したものはありませんし、救済の実例は哲学や心理学の介在しない人間関係であることがほとんどでしょう。
人の行動が心理学や哲学で説明ができる、というならば科学的にも文学的にも説明できますし、それで未来を予測することも可能でしょう。予定を立てたり期待した結果のために計画をたてるのは哲学も心理学も関係ありません。
それを心理のおくそこでは何である、と百年前の人間が発言した、千年前の人間が表現した、というのは歴史の知識でしかありません。

宗教もそうですが、それを使って妄想の中で異世界転生をして勇者になりきるのは長く人間の娯楽として親しまれてきました。劇や音楽、小説や絵画などを生み出し文化を向上させ市場経済を発展させ、科学を進化させてきました。
それらの貢献の原材料となったものが哲学や心理学、ではなく原材料の成分表記に使える単位としてあるのが哲学であったり心理学であるもので直接関与するものでもそれらを生み出すための原材料が含まれているわけではありません。
お菓子をつくるのに砂糖や小麦粉、卵とか牛乳が必要になります。それらは農業や工業の技術で発展させ進化し語学で情報化しています。それらを形成する知識として「グラム」や「センチメートル」といった単位が存在します。
グラムやメートルは科学を進歩させたり料理の方法を発展させたりしていません。その位置が哲学といえましょう。
グラムがポンドで、インチがメートルで、と言ったり言わせたり、言ったことを指摘して笑ったり、指摘されたことを怒ったりするのが「心理学・哲学チャット部屋」の全てだと言えます。

 

さて、今注目している「アドラー心理学」「哲学カフェ」ですが、まさにそれだけの事についてある部屋なので、初心者の方は入室して気軽に場を和ませる冗談を言ったなら「B」に差別だ誹謗中傷だ警察に通報すると言われ、心理学って何ですかと言えば「クー」によくわからない説明をされてそんなこともわからないのは異常で屑ですが私はそれでもよしとしてあげますと謎のマウントを取られます。
いきなり精神の強度を試される試練をぶっかけられるような部屋ではありますが、率先して発言していかなくても十分楽しめるので心理学や哲学に興味のある方はとりあえず入室して眺めているだけでも充分にその価値があると思います。
ちゃんとした話でまともな内容であれば広がりはしない、だれも理解はしないというのは哲学や心理学の発展と有用性についての社会的認知の度合いを見ればそれがそのままの結果だと言えます。
異常な行動と発言が常に蔓延している状態、常に観測点が存在する実験場となっている現場をただ見るだけでも、その哲学のそのものの意味としてのなりたちを垣間見ることができるでしょう。


千年前の人間も「愛がなければ人生はつらい」と感じていてそれを短文に記したものが哲学だったり、百年前の人間も現在と同じように「人が喪失の苦しみを味わうのはなぜか」と心の痛みを感じてそれを和らげる方法を考えたのが哲学だったりします。
そんなものは脳神経の一部に手術をすると軽減できるというのは医学的にもわかっていますし、特定の薬効成分がそれを軽減できることも、特定の運動や行動もそれを解消できるのはわかっています。
その解決方法に単位という手段を用いることでより体系的な構造へ導きやすくすることができるようにと存在するものが心理学や哲学でそれ以上でもそれ以下でもありません。
だれがなにをどうい言ったという歴史を紐解き、哲学者〇〇が何々と言ったという言葉を発したとしても、その言葉が導く結果は発言者が単位を唱えることでまるでそれを用いた実際の行動や結果を支配したかのような高揚感を感じるだけです。
「哲学・心理学を語る」とはそれだけのことである前提をもってして、異常な人間に感化されることなく、異常な行動に影響されることなく、異常さを真に受けたりせず正常な心を保って楽しんでいただきたい。
人間の言語にいつから「愛」が組み込まれ表現されるようになったかわかりませんが、いまだにそれが何かを示せていない時点で哲学や心理学があくまで後追いで度合いに目盛りを付け足すだけの存在であるかは認識できます。
何千年と感情を表現したり追求したりしても「月が綺麗ですね」が「愛しています」と同じだと言う得るなんてことは、鉄鉱石をみて刀の切れ味を語るようなものがグラムやメートルなどの「単位」だけで言えば言えてしまうがまったく意味のない事と同じだと言えます。
人間がいまだに作れると言っているものの限界が常に状態という現象だけで、混ぜたり熱したり冷やしたり叩いたりする以外になにもできない現実に似ています


仮に「哲学的に・心理学的に」という言葉を含んだ文章をチャットで発言しようとした自分を認識できた時、それは異常な行動であるという事に気が付き正常な世界へ引き戻る注意を払っていただきたいと考えます。
もちろん異常な行動をする方が増えることは楽しみでもありますが、「クー」は作られた異常、異常者本人ではないためどこまで狂っても「戻ってこれる・戻さなくてもいい」捨て駒につかえる人格、演じられた人格であるため「他の人がしているから自分にもできるのでは」と、安易に考えられないことをお勧めします。
かの状態まで異常さを極めてしまったらおそらく人間として自立した社会生活が送れなくなるため、それが人の領域内であると考えるのは安全とは言えません。

昔話に「返事をしてはいけない」というくだりがある怪談はいくつかあります。返事をすると相手が見つけて取り込んでしまいにやってくるから、という説明であるものが多いですが現実的に言うと「返事をした時点で存在を認識し、それがいずれ全体を蝕む」可能性を示唆していると言えるでしょう。
インセプションという映画で心の奥底にアイデアを植え込むと勝手に発展していずれ自分の人格に影響をするようになるといったテーマを取り扱っていました。これは哲学や心理学を単位としてイメージの影響度や位置を示すのに有用な作品だと言えるでしょう。
同じ意味の単語や文節を千年前、百年前の哲学者が見つけて表現していればその言葉でもよいかもしれませんが、最新のソースを共有できる情報で示している概念について利用することのほうがより実用的でしょう。
どこの古代の人間が「奥底に植え付けたイメージが肥大すること」を言い表していたかなど知りませんし、知っている人がそれを自慢げに教えてくださっても今現在に「インセプション」があることを利用するほうが結果を生産に至らしめるにあたり効果的です。

質問をすることであることを前提としてくる、無いものを「無いとしたら」と発言することであることとしてくる、という手法は「クー」の得意技でありこれに「存在するものとしての前提」をもって返事をしてしまうと、そこからすべての常識が瓦解してしまいます。
「侮辱罪で人権侵害で差別だから警察に訴えると法的な裁きを受けますよ」と「B」が気に入らない事をすぐに遮断するためのお決まりの定型句で挨拶がわりに法的仲裁を仕掛けてきますが、そんなものは存在しないので「じゃあ一体どういう風にするんですかw」等と返事をしてしまうと「誹謗中傷や人格否定」の実演をしてくる、浴びせられるという結果に至ります。
実際そういう様子を見る事が学びでありこのオープンチャットの部屋の意義でもありますが、まともな考えで一般的な良識で普通の発言をするとそういった場面に遭遇してしまうので注意が必要です。
あくまで「人間がどれだけ汚くのし上がり人の上で胡坐をかいて自分を虚構や妄想で高揚させることができるか」という異常者がより冴えた異常さを研ぎ澄ませあっている部屋としてお楽しみいただき、日々の健康を保っていただきたいと思います。

異常性を楽しむアドラー心理学と攻撃性

春先にて、街にはおかしな行動をする人間が多くなってきました。
「クー」は逆に出現の回数が減り、おそらく浪人が追加で決定したりしたのだろうところから自宅でネット三昧では永遠にこのままなので予備校に行けとか就職しろとか自分で選択せよと迫られているのではないかと心配しています。
アドラー心理学」部屋には一見さんや「クー」のなりきりでにぎやかせの人生相談も入っていくばくかの賑わいを保っています。

とにかく「B」という方が法律に詳しいわけでもないのにやたらと人格否定をするのに法律を持ち出したり、自分が被害者でおそろしい被害にあっていると威力を見せたりしていますが、初心者の方は臆することなく発言を楽しんでもらいたいと思います。
実際、様々な被害にあっているといっているけれども何一つ解決をしようとしていないし、警察や心療内科に相談することは恥だとしていたり、相当に人間関係の希薄な生活をしている、世俗から離れすぎている生活をしているのだろうなと思われるので一般の方がコミュニケーションによって育まれる一般的な常識というものがほぼ完全に欠落しているので、労りの心でもってしてやさしく見守ってあげて下さい。
「クー」とその複数アカウントは、基本的に嘘をつくことに躊躇がなく熟考せずにとりあえずで発言をするため矛盾が生じてもまったく取り合わず、発言した時点の直近の単語についてのみ話題にするため会話になりませんが、大喜利としてはかるた大会に近い賑わいを楽しめるかと思います。


基本的に他の議論や哲学、心理学の部屋と変わり映えがしませんが大きく異なるのが「だれもまともに会話をしないことについて寛容である」という事です。
これは「アドラー」を掲げているため、他の「哲学」や「宗教」「倫理」「常識」「法律」など適当な単語でごまかして威圧でマウントしようとするのに比べ「アドラーが言ってた・言っていなかった」で相手を黙らせることができる特徴であるのでしょう。
他の部屋と同じ調子でソースとか権威とか持ってきたりもってこいと迫ったり法律が倫理がとあいまいで何を指しているのかすらわからない権威にすがる人もいますが、ほどよく統制を保つのにアドラーが役に立っている、一番アドラーという名称を有意義に使えている一つではないでしょうか。


さて「アドラー心理学」部屋特有の謎表現で一見さんを間引く単語がありますが、いくつか紹介していみたいと思います。
常駐しているメンバーはアドラーも心理学もとくに縁がなく理解をするつもりもなく、ただ都合のよい話を適当にして噛みついたとしてもだれもとがめないというのが心理学の極みだとか思っていそうな雰囲気に漂っているだけなので、厳密には知る必要はありません。

優越性、劣等感、共同体、貢献、課題という言葉を適当に組み合わせてなにか悟ったと表現するのが「クー」の習わしですが、おおよそずっと発言で説明などもあった結果間違っているのはおそらくわかって間違えていると思われます。
まともに会話をしないためには、まともな定義で話をしない、料理を完全に失敗するためには材料の時点で失敗していれば必ず失敗するという、逆に言っても逆にはならない絶対的な道理にそって、単語をまともに使わないように配慮をしているのでしょう。

まず「優越性」ですがこれは優越感を感じる、意味もなくなにか自分が優遇されている、されるべき、されてしかるべき状態であると自認する事の性質を示している、と「クー」は考えておりそれについて発言をします。
基本的にこれは完全に間違いで「優越」というのは「なにかしら優遇を受けるという、人の状態」の事ではありません。比較をした際に目的に大して有用性の大小を比較して、効果が大きいということを優としてその全体が上であるという表現です。
優越というのは、いくつかある要素として長所や有用性が1点でも上回っているではなく、物であれば素材や機能、仕上がりや状態、持続性や多くの結果から得られる評価が、その一点一点が複合的に状態が比較して良いという事です。
秀でているという条件が複数あり優という結果を同種の結果に比較して、上回っているという事でその構成要素に複合的であるという意味を含んでいます。
とくに意味もなくいいねをするという事ではありません。「クー」はこれを「なにかよくわからないけどよしとするを尊重してあげる、それが優でそんなことができるのが超越した存在、なので優越」とする事でまともな会話や議論を破綻させることに成功しています。

次にとくに人に攻撃する際に「B」にもその手法の効果を用いさせることにも成功している「劣等感」があります。人生に困難な事があって人の幸せが妬ましい時、自分の姫扱いが足りないと感じた時、とにかく気分が盛り上がらないのでだれかを嬲りたい時、などに使用されています。
これは字のごとくそのままの通例で「引け目を感じること」として使われますが、アドラー心理学でそう訳された内容についてとは大きく異なります。
よくネットで議論や心理学と言えばユングフロイトが上がってきますが、100年も前の学問をそのまま現在で利用するのには無理があります。アドラーについてもそうですがそれ以前に構造的に異なることを違う分野で混ぜて話すことは何の意味にもなりません。
アドラーについていえば優越ではない物や状態についてを示すことで、基本的にアドラーは「人に限らず」現象や状態を観察分析し、そこに判断を加えるための行程としての表現をしているので「人が人に対して示し使用する劣等感」というものではありません。
劣等状態というのは相当に侮蔑的な意味を感じる単語表現になりますが、未満や以前、素材状態であるとか時点を加えず状態として可能性の否定できない状態の事を劣等としているだけになります。
ところがこれも「クー」は「劣って引け目を感じている人間的感情を人間的分野においてもっている卑屈で穢れた状態」のように扱います。
製錬前の鉄は「劣等」で製錬した鉄は「優越」ですが、製錬された製鉄は鉄鉱石に比べてマウントをとったりそれだけで尊ばれたりするわけではないのです。製鉄がその次の段階に加工されて製品になるのに手間が減るという点において優を示しているというだけで、鉄鉱石と鉄成分と製鉄は価値としては同等です。
段階的に上なり前なりにある状態を示しているだけであって評価者が時点の評価として下すものに意味などありませんし、それぞれの個体同士が自分がどういう状態であるからとして隣接と比較をしたり、それで気分が高揚することに何ら意味をもたせていません。
そういう無駄で無意味な評価で気分を高揚させる娯楽や歓楽、快楽について取り払おう、より機能的にあることで無駄に感情で自分を削る必要はない、それが機械的だからつめたい、感情がないので人として感情をよせられないとして「嫌われるかもしれない」でも好しとしようと試みるとしたものが「アドラー心理学」です。

これについては、その情報を得て行動に移したり思考を纏めたりする個人ごとに特徴があり、それは状況に応じて変化をしていくべきで、対応していく事によって生存を可能にしていくものです。
そのためどういう解釈であっても問題はない、それこそが主題であるわけですがここの一部分だけ切り取って「それぞれ好き勝手にやっていい」としているのが「クー」でもあります。
前述のとおり文脈や構造、経時的で段階的な説明によって成り立つ方向性を完全に無視してくるのですぐに理論が破綻し会話ができなくなり、それを「許してあげる」とすることで支配権を得た自認によって気分の高揚をはかるナルシシズムジャンキーが「クー」なのです。

「共同体」に関してはコミュニケーションが可能な範囲という意味で、コミュニケーションも共同体も無限に広がりをもてる、関係性を持とうと考えるものとその回りには関係性が現れるという至極当然の話が元になります。
その上で、関係性についてのよくあるさま、ありようについて定義をしていけば円滑で快適にその距離感をもって価値を見出せるというものです。
この後半を抜いて、ただ存在している者同士を認識できたらそれは共同体で仲間で友達で、人類はみな兄弟、と思考が完全に停止したまま生命活動を維持しているのが、それはまるでケイ素でできた生物なのではないかと思わせるのが「クー」なのです。
おクソとおミソをお混ぜになってもそれはそれでいいよね、くらいの勢いで脳を殺しにかかってくるので文章をまともに読むには成人していることや常識の範囲内で行動ができることが求められるわけですが、それでほかの人間の感覚器官を破壊することであなたの目となり耳となろう、とはなんと優しいことだろうかと自画自賛する様子はロイコクロリディウムにそっくりです。
そこに貢献という関係性の一つの手段があり、その分類として課題の分離という手法があるのわけです。

ざっくり言うと


「自分がかかわるとかかわった自分というのがそこに残るわけで、そこにいた自分という情報を辿られてもよいとしてそこに置く」
ことが共同体、あなたをあなただと認識されることについて許容する範囲が共同体なわけです。


「汚れた鏡は拭いた方がよりよいのでは、待ち合わせの時間は数分前に到着しておいたほうがよいのでは、ちょっとの手間でおいしくなるならちょっとあればよいのでは」
というのが優越性で、その対象となるものに名前があれば具体的に指摘しやすいためについただけの名前が劣等感です。
その逆とか、反対とか、そうしなかったからとか、そうしないと損失がでる、嘘になる、などではない、そういうネガティブな被害を出すことなく、前述のよりよくなる可能性のあるものを見出す評価が劣等感です。
少年漫画脳は被害者を作れば、だれかに損をさせればそれを具体的に救う手段を明確に思いつくことができるので、それならばまず被害者ありきとなります。
ヒーロー漫画はまず最初に村が焼かれたり大切な人や物が失われたりします。日々そんな喪失や悲劇を味わって過ごしているのが人間でしょうか。
毎日変わり映えしない日々を過ごすことがそんなに意味がないのであれば今現在も起きている戦争の最前線にでも兵士として向かえば、まさに1秒後がどうなっているかわからない世界を体験できると思います。
たしかに心理学や哲学が興った時代はそういう時代だったので即していたかとは思いますが、平和でなにもない毎日を過ごすにあたり、現状を維持すればそれだけで幸福という事はありません。
それにそなえて豊かさを蓄えることも思考を健全化することも、よりよい生活を維持したり向上したり希望あふれる明日のために努力をする源泉になり得ます。
それをわざわざ汚して壊して傷つけて悲観し絶望させたものを、救うという努力を私はしてあげるのですごくて優しくて神なので崇めなさい、というのは優越性でも劣等性でも、宗教でも心理学でも救えません。
ピクニック気分でそのあたりにレジャーシート感覚で地獄を展開する狂気そのものだと言えるでしょう。まさにここは「クー」の得意分野だと言えます。
「可能性の原石」のことを「できそこないの屑」とよばわるのは、まさに「劣等感のクー」の得意技なのです。

貢献とはちょっと大げさで特別感のある単語ですが、かかわり全般と理解することができます。関わりについては発生すればそこに楔のように残り、何事にも利用可能な価値があるので事象のすべてが貢献的であると言えます。
「それがもし害で悪であったなら?」という問いは不要です。そうだとしても教訓として利用もできますし、責める、責められるということで存在をそこに明確に残し「ここは避けるべき」と看板を立てるがごとく有益になります。
これを局面的にその被害についてだけとりあげ、その加害と被害の関係性だけで世の在りようを問おう、という建前でただ単に個人攻撃、人格攻撃をしようというのが「クー」でありこれはしっかりと「B」にも受け継がれています。
数年来「クー」は「B」を扱き鍛え教え込み、とにかく人格攻撃で無双をする人間へと成長させました。これはかのハートマン軍曹もびっくりであろう養成能力です。
人間がここまで動物に近いと思われるラインまで尊厳を引き下げることができるのかと驚きを隠せません。

また「クー」がよく使う「課題」「課題の分離」は人それぞれの自身が持つ行動範囲の事がそれです。物として分けることができる、手で抱えるものだと認識してしまうとわかりにくくなるのですが、場面や状況においての行動範囲という固定的ではないけれども空間的な捉え方でそこにあるものになります。
課題を持ったり持たれたり、認識したりというのは領分を認識することで、知らぬ間に人の庭に入っていたりとかだまって自分の庭に入ってこられたりというような状況が発生しえるものになります。
他人の課題として分離するということは、自分がそこから先には立ち入らない、入るならばそれなりの対応を必要とする、また自分の課題として分離した場合は自分が実行をする、直接的に行動をするのだと認識することになります。

この分離した課題の行動範囲を持ち寄り関係性を持つのが共同体で、その影響をしあう中でよりよくしたい希望やよりよくできそうな部分を見つけると、劣等感を共有して優越性を追求することになるというのが一つの流れです。

これについては個人ごとに解釈があり方針もあり、教義もわかれ派閥もあります。
雨の一滴がどれほどの意味を持つのかわかりませんが、それが集まり流れ川となって海へ注ぐその流れに、それぞれに水たれと水であることについて厳格である必要がないように、思想や理論構造はより有意義に活用されるべきです。
世界平和や心の平穏、よりよく生きる術や冴えた考えを共に暮らす人間と分け合いよりよい方向を見つけその都度協力しあうことが理想的であると、機能的であるとすることにアドラーは適しています。
これを使って解釈がちがうとか、よりよくする方向ではなく「あるべき方向に矯正する」といった、既に存在しない過去の時間について主導権を争う事は不毛でもありますし、そもそも平和と協力、共感や協力によって平穏や平和をもたらすべきとしているその考えに根本から挫折していることになります。
平和にするための優しさでもってしてガチンコの殴り合いで血まみれになる、という齟齬か矛盾かわからないカオスな状況になりかねませんし、実際アドラー派閥でも、その平和に分かり合うための手段でもってして殴り合い分断を起こしています。
この平和でぶん殴るという行為が「クー」の大好物なようで「アドラーを知り尽くしたアドラー原理主義」だと自分を評して憚らないですし、問われたらよく知らないと翻して適当な、というかその意味の反対を実行します。
勝手に解釈していいと言った、と言いますしそれは協力があってこそと言うなら皮肉にしか受け取れない誉め言葉やまったく空虚な賛美を出して良い事をしているので認めろと言い出して、そしてそれぞれが自由でよいと、バベルの塔ごっこでもしているようなお遊戯が大好きな様子です。

カオスを好み、バベルの塔をたてよと囁くわけでもなくただいたずらに神の真似をして人の立てた塔をなじりつぶし、自分は課題の分離と貢献で共同体に優越性をもたらす素敵な人間だといって悦に浸る、まるで人間の考えた悪魔そのもののようなそれが「クー」なのです。

心理学、と聞けば人の心を読み解いて意のままに操る自分と、対象となる相手との対峙の方法について第三者的に教養や学として利用可能な状態に無駄をそぎ落とした手段と手法の集合体かと思われがちですが、ことに「アドラー」に関して特徴的で言えば「自分が他者と切り離して依存せず関係性をもつこと」が主眼になります。
連携することでより拡大する影響範囲や成果を求める、かたちとして資本主義に似た成長曲線を目指す思考とは異なり、分離させ遅らせて成長をとどめることでより高い品質を目指すようなものになります。

成長をしないということは非常にマイナスのイメージを持ちやすいのが資本主義を骨子としている環境にありがちかと思いますが、とどめることの意義とコストは長期保存ができるものや冷凍のもの、価値のかわらないものについてと似た感覚で捉えられてもよいかと思います。
値段がさがらないブランド、長期保存ができる冷凍食品、価値のある古着、などその価値は推し量れるでしょう。
即時性の高い消耗品を機会にあわせて最大化する価値と、長期間維持され二次的な影響自体が価値で本体の価値劣化は時間の経過や機会の変化で損なわれにくいもの、と大きくは二つにわかれるそのうちの、後者に傾向があります。


それを即時的な大喜利でこねて穢して価値を喪失させることで、それを手に入れ否定とカオスにより自身の発言が初である、開始点であるとして創造の主を気取るのが「クー」であり、女性を像としてアピールするのも生み出すことができない男性性に不満を感じているからなのかもしれません。

他人を観察して他人を理解して他人を評価して、他人の予想をして他人がどうしてくれるかを考える、という他の多くの手段とは異なるものであるので、特徴として他の人間の異常性に問題があるとしても遠ざけるという対処を選択できる比較的平和な思考であります。
なのでほかのディベート祭りであったり心理学や古典を読み返して平滑な一般知識と同じ解答をするべきとするスタンスとは異なるので、攻撃性には乏しく異常者を突き上げて反省させ責めて矯正することにあまり威力を発しません。
逆に、それ自体をもってしているところに攻撃性をもってきているのが「クー」であり、ルールとして名乗りを上げるとしている戦闘形態があったとして、名乗りの最中に攻撃する、変身の最中に攻撃するという、わかっていて非道をすることで特になにも得るものがない攻撃をすること自体を楽しむのが「クー」であります。

是非とも彼らの異常性を楽しむには、アドラー的に、自分がどうであるかという事を確実に確保して、異常で攻撃的でひどく厭らしい自画自賛にさらされても毒されない距離でお楽しみいただきたいと思います.