宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

異常性を楽しむアドラー心理学と攻撃性

春先にて、街にはおかしな行動をする人間が多くなってきました。
「クー」は逆に出現の回数が減り、おそらく浪人が追加で決定したりしたのだろうところから自宅でネット三昧では永遠にこのままなので予備校に行けとか就職しろとか自分で選択せよと迫られているのではないかと心配しています。
アドラー心理学」部屋には一見さんや「クー」のなりきりでにぎやかせの人生相談も入っていくばくかの賑わいを保っています。

とにかく「B」という方が法律に詳しいわけでもないのにやたらと人格否定をするのに法律を持ち出したり、自分が被害者でおそろしい被害にあっていると威力を見せたりしていますが、初心者の方は臆することなく発言を楽しんでもらいたいと思います。
実際、様々な被害にあっているといっているけれども何一つ解決をしようとしていないし、警察や心療内科に相談することは恥だとしていたり、相当に人間関係の希薄な生活をしている、世俗から離れすぎている生活をしているのだろうなと思われるので一般の方がコミュニケーションによって育まれる一般的な常識というものがほぼ完全に欠落しているので、労りの心でもってしてやさしく見守ってあげて下さい。
「クー」とその複数アカウントは、基本的に嘘をつくことに躊躇がなく熟考せずにとりあえずで発言をするため矛盾が生じてもまったく取り合わず、発言した時点の直近の単語についてのみ話題にするため会話になりませんが、大喜利としてはかるた大会に近い賑わいを楽しめるかと思います。


基本的に他の議論や哲学、心理学の部屋と変わり映えがしませんが大きく異なるのが「だれもまともに会話をしないことについて寛容である」という事です。
これは「アドラー」を掲げているため、他の「哲学」や「宗教」「倫理」「常識」「法律」など適当な単語でごまかして威圧でマウントしようとするのに比べ「アドラーが言ってた・言っていなかった」で相手を黙らせることができる特徴であるのでしょう。
他の部屋と同じ調子でソースとか権威とか持ってきたりもってこいと迫ったり法律が倫理がとあいまいで何を指しているのかすらわからない権威にすがる人もいますが、ほどよく統制を保つのにアドラーが役に立っている、一番アドラーという名称を有意義に使えている一つではないでしょうか。


さて「アドラー心理学」部屋特有の謎表現で一見さんを間引く単語がありますが、いくつか紹介していみたいと思います。
常駐しているメンバーはアドラーも心理学もとくに縁がなく理解をするつもりもなく、ただ都合のよい話を適当にして噛みついたとしてもだれもとがめないというのが心理学の極みだとか思っていそうな雰囲気に漂っているだけなので、厳密には知る必要はありません。

優越性、劣等感、共同体、貢献、課題という言葉を適当に組み合わせてなにか悟ったと表現するのが「クー」の習わしですが、おおよそずっと発言で説明などもあった結果間違っているのはおそらくわかって間違えていると思われます。
まともに会話をしないためには、まともな定義で話をしない、料理を完全に失敗するためには材料の時点で失敗していれば必ず失敗するという、逆に言っても逆にはならない絶対的な道理にそって、単語をまともに使わないように配慮をしているのでしょう。

まず「優越性」ですがこれは優越感を感じる、意味もなくなにか自分が優遇されている、されるべき、されてしかるべき状態であると自認する事の性質を示している、と「クー」は考えておりそれについて発言をします。
基本的にこれは完全に間違いで「優越」というのは「なにかしら優遇を受けるという、人の状態」の事ではありません。比較をした際に目的に大して有用性の大小を比較して、効果が大きいということを優としてその全体が上であるという表現です。
優越というのは、いくつかある要素として長所や有用性が1点でも上回っているではなく、物であれば素材や機能、仕上がりや状態、持続性や多くの結果から得られる評価が、その一点一点が複合的に状態が比較して良いという事です。
秀でているという条件が複数あり優という結果を同種の結果に比較して、上回っているという事でその構成要素に複合的であるという意味を含んでいます。
とくに意味もなくいいねをするという事ではありません。「クー」はこれを「なにかよくわからないけどよしとするを尊重してあげる、それが優でそんなことができるのが超越した存在、なので優越」とする事でまともな会話や議論を破綻させることに成功しています。

次にとくに人に攻撃する際に「B」にもその手法の効果を用いさせることにも成功している「劣等感」があります。人生に困難な事があって人の幸せが妬ましい時、自分の姫扱いが足りないと感じた時、とにかく気分が盛り上がらないのでだれかを嬲りたい時、などに使用されています。
これは字のごとくそのままの通例で「引け目を感じること」として使われますが、アドラー心理学でそう訳された内容についてとは大きく異なります。
よくネットで議論や心理学と言えばユングフロイトが上がってきますが、100年も前の学問をそのまま現在で利用するのには無理があります。アドラーについてもそうですがそれ以前に構造的に異なることを違う分野で混ぜて話すことは何の意味にもなりません。
アドラーについていえば優越ではない物や状態についてを示すことで、基本的にアドラーは「人に限らず」現象や状態を観察分析し、そこに判断を加えるための行程としての表現をしているので「人が人に対して示し使用する劣等感」というものではありません。
劣等状態というのは相当に侮蔑的な意味を感じる単語表現になりますが、未満や以前、素材状態であるとか時点を加えず状態として可能性の否定できない状態の事を劣等としているだけになります。
ところがこれも「クー」は「劣って引け目を感じている人間的感情を人間的分野においてもっている卑屈で穢れた状態」のように扱います。
製錬前の鉄は「劣等」で製錬した鉄は「優越」ですが、製錬された製鉄は鉄鉱石に比べてマウントをとったりそれだけで尊ばれたりするわけではないのです。製鉄がその次の段階に加工されて製品になるのに手間が減るという点において優を示しているというだけで、鉄鉱石と鉄成分と製鉄は価値としては同等です。
段階的に上なり前なりにある状態を示しているだけであって評価者が時点の評価として下すものに意味などありませんし、それぞれの個体同士が自分がどういう状態であるからとして隣接と比較をしたり、それで気分が高揚することに何ら意味をもたせていません。
そういう無駄で無意味な評価で気分を高揚させる娯楽や歓楽、快楽について取り払おう、より機能的にあることで無駄に感情で自分を削る必要はない、それが機械的だからつめたい、感情がないので人として感情をよせられないとして「嫌われるかもしれない」でも好しとしようと試みるとしたものが「アドラー心理学」です。

これについては、その情報を得て行動に移したり思考を纏めたりする個人ごとに特徴があり、それは状況に応じて変化をしていくべきで、対応していく事によって生存を可能にしていくものです。
そのためどういう解釈であっても問題はない、それこそが主題であるわけですがここの一部分だけ切り取って「それぞれ好き勝手にやっていい」としているのが「クー」でもあります。
前述のとおり文脈や構造、経時的で段階的な説明によって成り立つ方向性を完全に無視してくるのですぐに理論が破綻し会話ができなくなり、それを「許してあげる」とすることで支配権を得た自認によって気分の高揚をはかるナルシシズムジャンキーが「クー」なのです。

「共同体」に関してはコミュニケーションが可能な範囲という意味で、コミュニケーションも共同体も無限に広がりをもてる、関係性を持とうと考えるものとその回りには関係性が現れるという至極当然の話が元になります。
その上で、関係性についてのよくあるさま、ありようについて定義をしていけば円滑で快適にその距離感をもって価値を見出せるというものです。
この後半を抜いて、ただ存在している者同士を認識できたらそれは共同体で仲間で友達で、人類はみな兄弟、と思考が完全に停止したまま生命活動を維持しているのが、それはまるでケイ素でできた生物なのではないかと思わせるのが「クー」なのです。
おクソとおミソをお混ぜになってもそれはそれでいいよね、くらいの勢いで脳を殺しにかかってくるので文章をまともに読むには成人していることや常識の範囲内で行動ができることが求められるわけですが、それでほかの人間の感覚器官を破壊することであなたの目となり耳となろう、とはなんと優しいことだろうかと自画自賛する様子はロイコクロリディウムにそっくりです。
そこに貢献という関係性の一つの手段があり、その分類として課題の分離という手法があるのわけです。

ざっくり言うと


「自分がかかわるとかかわった自分というのがそこに残るわけで、そこにいた自分という情報を辿られてもよいとしてそこに置く」
ことが共同体、あなたをあなただと認識されることについて許容する範囲が共同体なわけです。


「汚れた鏡は拭いた方がよりよいのでは、待ち合わせの時間は数分前に到着しておいたほうがよいのでは、ちょっとの手間でおいしくなるならちょっとあればよいのでは」
というのが優越性で、その対象となるものに名前があれば具体的に指摘しやすいためについただけの名前が劣等感です。
その逆とか、反対とか、そうしなかったからとか、そうしないと損失がでる、嘘になる、などではない、そういうネガティブな被害を出すことなく、前述のよりよくなる可能性のあるものを見出す評価が劣等感です。
少年漫画脳は被害者を作れば、だれかに損をさせればそれを具体的に救う手段を明確に思いつくことができるので、それならばまず被害者ありきとなります。
ヒーロー漫画はまず最初に村が焼かれたり大切な人や物が失われたりします。日々そんな喪失や悲劇を味わって過ごしているのが人間でしょうか。
毎日変わり映えしない日々を過ごすことがそんなに意味がないのであれば今現在も起きている戦争の最前線にでも兵士として向かえば、まさに1秒後がどうなっているかわからない世界を体験できると思います。
たしかに心理学や哲学が興った時代はそういう時代だったので即していたかとは思いますが、平和でなにもない毎日を過ごすにあたり、現状を維持すればそれだけで幸福という事はありません。
それにそなえて豊かさを蓄えることも思考を健全化することも、よりよい生活を維持したり向上したり希望あふれる明日のために努力をする源泉になり得ます。
それをわざわざ汚して壊して傷つけて悲観し絶望させたものを、救うという努力を私はしてあげるのですごくて優しくて神なので崇めなさい、というのは優越性でも劣等性でも、宗教でも心理学でも救えません。
ピクニック気分でそのあたりにレジャーシート感覚で地獄を展開する狂気そのものだと言えるでしょう。まさにここは「クー」の得意分野だと言えます。
「可能性の原石」のことを「できそこないの屑」とよばわるのは、まさに「劣等感のクー」の得意技なのです。

貢献とはちょっと大げさで特別感のある単語ですが、かかわり全般と理解することができます。関わりについては発生すればそこに楔のように残り、何事にも利用可能な価値があるので事象のすべてが貢献的であると言えます。
「それがもし害で悪であったなら?」という問いは不要です。そうだとしても教訓として利用もできますし、責める、責められるということで存在をそこに明確に残し「ここは避けるべき」と看板を立てるがごとく有益になります。
これを局面的にその被害についてだけとりあげ、その加害と被害の関係性だけで世の在りようを問おう、という建前でただ単に個人攻撃、人格攻撃をしようというのが「クー」でありこれはしっかりと「B」にも受け継がれています。
数年来「クー」は「B」を扱き鍛え教え込み、とにかく人格攻撃で無双をする人間へと成長させました。これはかのハートマン軍曹もびっくりであろう養成能力です。
人間がここまで動物に近いと思われるラインまで尊厳を引き下げることができるのかと驚きを隠せません。

また「クー」がよく使う「課題」「課題の分離」は人それぞれの自身が持つ行動範囲の事がそれです。物として分けることができる、手で抱えるものだと認識してしまうとわかりにくくなるのですが、場面や状況においての行動範囲という固定的ではないけれども空間的な捉え方でそこにあるものになります。
課題を持ったり持たれたり、認識したりというのは領分を認識することで、知らぬ間に人の庭に入っていたりとかだまって自分の庭に入ってこられたりというような状況が発生しえるものになります。
他人の課題として分離するということは、自分がそこから先には立ち入らない、入るならばそれなりの対応を必要とする、また自分の課題として分離した場合は自分が実行をする、直接的に行動をするのだと認識することになります。

この分離した課題の行動範囲を持ち寄り関係性を持つのが共同体で、その影響をしあう中でよりよくしたい希望やよりよくできそうな部分を見つけると、劣等感を共有して優越性を追求することになるというのが一つの流れです。

これについては個人ごとに解釈があり方針もあり、教義もわかれ派閥もあります。
雨の一滴がどれほどの意味を持つのかわかりませんが、それが集まり流れ川となって海へ注ぐその流れに、それぞれに水たれと水であることについて厳格である必要がないように、思想や理論構造はより有意義に活用されるべきです。
世界平和や心の平穏、よりよく生きる術や冴えた考えを共に暮らす人間と分け合いよりよい方向を見つけその都度協力しあうことが理想的であると、機能的であるとすることにアドラーは適しています。
これを使って解釈がちがうとか、よりよくする方向ではなく「あるべき方向に矯正する」といった、既に存在しない過去の時間について主導権を争う事は不毛でもありますし、そもそも平和と協力、共感や協力によって平穏や平和をもたらすべきとしているその考えに根本から挫折していることになります。
平和にするための優しさでもってしてガチンコの殴り合いで血まみれになる、という齟齬か矛盾かわからないカオスな状況になりかねませんし、実際アドラー派閥でも、その平和に分かり合うための手段でもってして殴り合い分断を起こしています。
この平和でぶん殴るという行為が「クー」の大好物なようで「アドラーを知り尽くしたアドラー原理主義」だと自分を評して憚らないですし、問われたらよく知らないと翻して適当な、というかその意味の反対を実行します。
勝手に解釈していいと言った、と言いますしそれは協力があってこそと言うなら皮肉にしか受け取れない誉め言葉やまったく空虚な賛美を出して良い事をしているので認めろと言い出して、そしてそれぞれが自由でよいと、バベルの塔ごっこでもしているようなお遊戯が大好きな様子です。

カオスを好み、バベルの塔をたてよと囁くわけでもなくただいたずらに神の真似をして人の立てた塔をなじりつぶし、自分は課題の分離と貢献で共同体に優越性をもたらす素敵な人間だといって悦に浸る、まるで人間の考えた悪魔そのもののようなそれが「クー」なのです。

心理学、と聞けば人の心を読み解いて意のままに操る自分と、対象となる相手との対峙の方法について第三者的に教養や学として利用可能な状態に無駄をそぎ落とした手段と手法の集合体かと思われがちですが、ことに「アドラー」に関して特徴的で言えば「自分が他者と切り離して依存せず関係性をもつこと」が主眼になります。
連携することでより拡大する影響範囲や成果を求める、かたちとして資本主義に似た成長曲線を目指す思考とは異なり、分離させ遅らせて成長をとどめることでより高い品質を目指すようなものになります。

成長をしないということは非常にマイナスのイメージを持ちやすいのが資本主義を骨子としている環境にありがちかと思いますが、とどめることの意義とコストは長期保存ができるものや冷凍のもの、価値のかわらないものについてと似た感覚で捉えられてもよいかと思います。
値段がさがらないブランド、長期保存ができる冷凍食品、価値のある古着、などその価値は推し量れるでしょう。
即時性の高い消耗品を機会にあわせて最大化する価値と、長期間維持され二次的な影響自体が価値で本体の価値劣化は時間の経過や機会の変化で損なわれにくいもの、と大きくは二つにわかれるそのうちの、後者に傾向があります。


それを即時的な大喜利でこねて穢して価値を喪失させることで、それを手に入れ否定とカオスにより自身の発言が初である、開始点であるとして創造の主を気取るのが「クー」であり、女性を像としてアピールするのも生み出すことができない男性性に不満を感じているからなのかもしれません。

他人を観察して他人を理解して他人を評価して、他人の予想をして他人がどうしてくれるかを考える、という他の多くの手段とは異なるものであるので、特徴として他の人間の異常性に問題があるとしても遠ざけるという対処を選択できる比較的平和な思考であります。
なのでほかのディベート祭りであったり心理学や古典を読み返して平滑な一般知識と同じ解答をするべきとするスタンスとは異なるので、攻撃性には乏しく異常者を突き上げて反省させ責めて矯正することにあまり威力を発しません。
逆に、それ自体をもってしているところに攻撃性をもってきているのが「クー」であり、ルールとして名乗りを上げるとしている戦闘形態があったとして、名乗りの最中に攻撃する、変身の最中に攻撃するという、わかっていて非道をすることで特になにも得るものがない攻撃をすること自体を楽しむのが「クー」であります。

是非とも彼らの異常性を楽しむには、アドラー的に、自分がどうであるかという事を確実に確保して、異常で攻撃的でひどく厭らしい自画自賛にさらされても毒されない距離でお楽しみいただきたいと思います.