宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

神様と視線誘導:意義のある情報拡散の背景

最近面白い話題に二つほどブックマークした。
直近で話題にしている「クー」にも繋がる話で興味があった。
興味深いと書くほど深みがないし、興味があるというほど意欲もない。

ぶっちゃけそうたいして内容を深く読み全体に配慮して考えているわけでもないから、実際どうでもいい話であって私個人の感想のみである。
どこかのだれかに賛同するわけでもなく、反対意見もなく、そういう仕組みがありそれを利用して、特定のコミュニケーションが発生するというだけの話である。

 

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この反応が昭和に生まれた「お客様は神様です」の三波春夫による発言を曲解した文化が継承されていて、その概念的な構造は「クー」のよく用いるものに似ている。
もとの三波春夫発言を説明されたオフィシャルなところの本人からの意図は「自分が不特定多数の圧倒的な対比率で顧客に接する場合の精神のありようは神と対峙したそれであろう」という現場へ望む体勢の話であった。
つまり自分の提供品を全力で提供するにあたり直接的に交換を求めない、間接的に結果を私は得るのだからという関係性である。
これを単語だけで「神という立場の客がいて、提供者は所詮人間程度のものである」と接続を組み換え完全に異なる意図で話を進めたのが「客が神様理論」である。
この「逆にいうと」と逆でもなんでもない、とんでもない方向に接続をしなおすフランケンシュタインのモンスター作成法で人の道を道なき所に勝手につくってそのサービス品質に最高を求めようというキメラを作り出す手法である。
お客様のご意見が最優先、という商法であるとしてもそれは商売の範疇であって行動の主導権をお客様に与えてそれに追随する事こそが商売だとはどこにも書いていない。それこそ書いてないからしていいのかと同じ理論ではある。
してはいけないというのが常識やお気持ちだからそんなものでは対処できないのであれば明記すべき、「放題」を掲げるべきではないというのなら自分がどんなお客なのかを額に書いておかなければ「自分というテロリストを通過させるなんてなんてあまいゲートなんだ」と発言するようなものである。
迷惑系Youtuberや、飲食店やデパートのサービスで無茶をして動画を撮影する系統となんら変わりはしない。迷惑行為で逮捕されても問題ないだろう。
「放題」とかいてあるんだから「放題」してもいいだろうというのは個人の解釈なのでそれが提供されているサービスと同一かどうかは個人の知的レベルの話である。
自動車を「自動」と書いてあるので運転中寝てましたで済むのかどうかと同じである。食べるのは放題だが「選ぶ」のは放題ではないとしたら反論できるのだろうか。また食べるにも主語はないので「お客を食べる店」だとしたらどうだろうか。
もちろんそういう前提をまるごと「前提」として話をすべきでいま言語の理解を出すタイミングではないし、問題は特定の店において特定の人の特定の行為だけである。
人が無理と言うものを「なぜできないんだやれるはぞだろやれると自分は確信しているそれをやらないのは不条理だ、自分はその不条理を控えてやるがほかの全員はそれを許すかな」と声高に店内で叫ぶ、店頭で叫ぶというのはその料金とその目的である料理との関係性においてありなのか、必要なのかと考えたら、黙って食うか黙って出ていくかしかないだろうという話である。
もちろん食べ放題を「店内でなにをしてもいい」と勘違いしているとんでもない狂人が入ってくる可能性はある。看板に「放題」と書いてあるので独自理論の放題を勝手に持ち込んでくる人間は実在する。
ほかにも玄関をあけていれば動物や昆虫が入ってくる可能性もあるし通気口からもありえる。おつりの小銭がなくなる可能性だって店の椅子が壊れるとか電球が切れるなんてことも可能性としてはあり得る。
テーブルが拭きたてでちょっとしめっていて入店直後に手をおいたらすこし不快になることもありえるだろうし床の模様が気に入らない客が入ってくる場合もある。柱の位置がその日の風水で不吉な店もあるだろう。
書いてないから、そういうのはクレームをつけて拡散して自分がなにか得をして、店が不利益を被ることが必要なのかどうかというだけの話である。
5人前ずつ頼んで50人前注文時に、その態度がどの地方や当人の表現方法で攻撃的であったか、相手に不愉快な印象を与えるものであったかはわからないが、とにかく45人前までは可能だったという事だろうとして、それ以上連続して注文する必要性や意義や特別性を感じなかったのだろうか。
だとすれば牛タンを日常的に1キロ程度食べる生活をしていてなんら疑問に思っていなかったということに気が付くべきだろうし、そうなるタイミングはどこかであったはずだ。
それもなく、牛タンを1キロくらい食べるのは普通だろという生活をしていたとして、そんな人間を想像することもできないのでどういう方法で一般的にキロ単位で牛肉を恒常的に食べて他の人間と差を感じない生活をしているのかまったくわからないけれども、だとすれば食べ放題を選択してきたのはなぜかという疑問もある。
放題でなくてもキロ単位で肉を食べてきて、料金が安いからと選択したと言うのならまずキロで注文するのではないか。キロ肉があるかないか聞かずにキロを食うのは、量に関してもサービスに関しても、常識としてもいろいろ不足している可能性がある。
もちろん、全部が不足していて、50人前の肉を注文できず、自分が10人前の肉を食べられない状況に、料金を支払って全ての準備を自分は完了していて席についているのになってしまっているとしたら、問題は店にあるかもしれない。
しかしそれは店が解決すべき問題であって、SNSで拡散して「僕1キロ肉食べる人なんだけど、ここはダメっていう」の日記を晒す必要があるのだろうか。もちろんメモアプリを使うこともできず、再度自分が間違いをしないためにもメモを残すためにSNSを使用している可能性はある。
そうだとして、全部がそうだとして、肉をキロたべる日記をSNSでつけるモンスターが普通の生活をしてみんなの隣にいるというのは、それ自体が問題ではないだろうか。
衛生チェックと称してねそべったりサービス確認と称して汁をまき散らしたり、割りばしがなくなったときの対応チェックとか「そんなことするはずがないだろう」であったり「そういうことは想定していない」で営業をしている店は多くある。
どうしてそれを明記しないのかという問題があるとすれば「明記すればそれを防げるのか」という話でもある。もちろん防げはしない。
法律でも殺人がいけないとか窃盗がいけないという話は書いていない。してはならないと書いてあっても実際に事件は起きている。「したらどうなるか」が書いてあって「した人間」について状況をよく確認して構成の期間を設けるのが法的な処置である。
店側が対処できるものはほとんどなにもないと言っていい。客を選ぶしかないのだ。選び方は会員制、高料金、抽選、ドレスコード、等々あるかと思うが他に「現場で素行が常識の範疇であること」もあるだろう。
客として通してもらえたから店はなにをされても文句が言えない許可を与えてしまっている、自分が食べ物だと認識して食べたら責任は食べた側にある、と言うのだろうか。そうなのであれば「食べ物に擬態すること」について、まるで客であるかのような顔をして敷居をまたぐことに問題があるだろう。
テロリストはテロリストの顔をして、クレーマーはクレーマーの顔をして門をくぐれと言うのであれば、それはその通りだとおもう。ぜひ実行してもらいたい。それだけで世界平和は各段に高いレベルに引き上げられる。
50人前の制限が書いていない、単品についての注文上限数が書いていない、ということを確認して注文するのであれば明らかに相手が想定していない注文をしようとしている事になる。
店側が提供していないものを注文しようとしている事について、していないと返事をされることについて、ないものについての保障やそれについての問題提起や改善要求をするのはふつうに考えて妨害行為である。
客にむかって「あなたみたいな普通の見た目で普通の量を食べそうで常識的な対応をしてくれそうだと思われる人は店内に通すが、そうでなければ帰ってもらう」という意見を受けたとき「店が崩壊するかもしれない客を、客として扱わないのは人権侵害だ」と言うのだろうかという感じである。
擬態もしていない毒を盛られて、毒だとわかっていても食さねねばならぬのなら、食うなと注文するなと出ていけと言われても応じるべきだろう。食べる以外の選択肢については一切なんら都合のよくない事には対応しないという事は「客」にも「放題」にも含まれていないはずだ。
現に自分が50人前に到達しなかったという事については不満を漏らすわけである。

論理的に崩壊しているという事は、しているというだけで済むのでさておいてそれがどれだけ社会性を失っていて異常な行為であるかは考える必要がある。
これは移民問題にも起こり得る話で、実際には日本人同士でさえ、一般になりたつと思われるコミュニケーションにおいてさえ日常的に発生する問題であるからだ。
自分の解釈をコミュニティ内で、コミュニケーション関係者において共通認識とさせようとする、その意図は発言者にのみにだけ利益があることを、というのが最も重大な問題点である。
もちろんそれが問題にならない場合もあるし、それが成功している場合もある。共通とさせるとともに責任を負う事でその共通認識を利用するにあたり利益を発生させるものとなり得る場合があるからだ。
しかしそれが固定的でなく、永続性がないことは人の世を鑑みれば理解できる話で、またそれを組み込まず前提としないで単語の印象だけで自分の都合を責任なく強制しようとするところに問題があるし、人はそれをしがちである。


根本的に、継続性について考慮することがない世代を生み出してしまったのが核家族の結果で、現状それを助長する文化で各個人が孤立するようになってきている。
組織化しなければ、集団化しなければ、人間も含め生物はみな全て等しく全体で生きなければ、生きていけないものであるというなによりも優先させるべき絶対的な根幹を喪失した、ある意味人間性という動物性からの脱却が度を過ぎて無機質な文化そのものの輪郭が人の形をしたなにかとして社会を動かし始めているといって良いのではないだろうか。
機械が人間を管理するような社会を目指していると本気で言っても信じられる程度には人間が生物から脱却するのを理想としているとしか思えない方向性ではあると思う。
それが良いか悪いかは別として、独特であるとともにその独創性もまた生物の思考から生まれたものの一つとしてこの世界にどう存在していくのかという事は楽しみである。

アドラー心理学」部屋においては、「クー」や「B」が自己都合でその場の気分で適当に論理や理屈を捏ねるけれども、その場しのぎで適当で軽くなんの継続性も背景もなく相手の気分を押しつぶして自分の重さや大きさを自分で実感することで日々の満足感を得ているだけという傾向や動作に似ている。
近代のこれらの文化や教育、娯楽などが形成してしまった結果なのだろう。たしかに周りに迷惑ばかりをかけて本人が喜ぶという幼稚性は、迷惑をかけられる側にとってみれば不快感しか得られるものはないが、その不快感を感じるという人間性こそ生産性や有意義な成果へ至れるストレスという原動力になり得るというのもまたアドラー心理学があてはめることができる部分でもあると言えるだろう。
そうなると、ただ問題の発生機械と化している、それが自分の満足であると快楽であると錯覚している「クー」や「B」は自身をすり減らして楽しいと感じていることでその身を蝕んでいる薬物中毒者のように哀れではある。
しっかと彼らの貢献を自分の糧として楽しんでいきたい。

ときにこの「貢献」が捧げもの、貢物、自分の利益を考えず他人のために尽くすこと、と「クー」は誤解曲解をしているわけではありそれをまったく関係ない「アドラーが」と続けてきて誤解を植え付けようとしてくるわけですが、この「貢献」はそのお客様にみ貢物で捧げる商品の事でもない、客と店主もその交換が等価であろうとする時点で平等な立場であることを説明したい。

貢物を献げるわけなので下から上に無償で提供することかと思われがちですが、これも単語で捧げるの言い換えで使ってその場で雰囲気を持っていこうと経緯を無視して語るのでそうなるわけで、これが「ささげる」とか「差し出す」と言うならそう言えばよいわけでなぜ「貢献」という言葉にしているかを前提にしないと会話が成り立いません。
その成り立たない会話を釣銭詐欺のように「貢献といえば差し出して満足いただく自己犠牲の愛」みたいなニュアンスで差しこんできて意味不明な献身性を求めていく、自分は一切差し出さないスタンスなのが「クー」であります。
貢物というものもその動作を考えると立場が下の者が上のものに使ってもらうために無料で差し出すものを思い浮かべると思いますが、それは「その経緯をとっぱらって直接下のものと上のもとが繋がっている状態」であり資本主義経済の構造に置き換えると「メーカー直売」に近い状態なわけです。
競争や選別、商品価値と社会における知名度や利用度からたどり着いた選択肢を上位者が利用するわけではなく、ダイレクトに上下がつながった有利な状態なわけです。
これを献げるとはそこで直接的に利益がないまたはとても薄い見返りで交換することになりますが、これは先の「直接的に利益を求めない」お客様神様理論にも同じことが言えるわけです。
その場では納めるものといただくものの関係性ができあがるけれども、その場で交換は等価ではないくても交換に応じるのは、その差分がその時点で発生していなくとも後に期待ができるからだというわけです。
その暗黙の信頼関係が立場を接続状態を不確定なものにして表現する、自分と神様との関係のような表現になります。
もちろん資本主義経済はそこに保険を掛ける意味で二重の発行通貨を用意し、信頼を価値として契約や料金にすることにしています。しかし発行貨幣が全てそれを賄いきれるわけではなく、もちろん暗黙のままである場合も多くあります。
マナーを守るとか常識の範囲内でいることを品とってそれを上向きに保つことで貨幣化していない価値をいずれ利用が可能な時に引き出すために貯めているわけです。

それを明示的に金銭に変換しなくてはならない状態というのは、その後という可能性にある大きさ、ポテンシャルを交換時、成約時に決定することで安全性を確保しますが、大きさは制限されます。
金融派生商品などその約束自体を商品にしているものは結果が大きくなる予想で売り買いされますが、結果期待値よりも小さくなることもあります。
その場で現金化することで安全な利益を確定させることはできますが、経時的に小さくなることはありませんが、大きくなることもありません。

貢献という文字の意味するところは、その流通の経路を経て結果価値を付与されたものをやり取りする方法ではなく、ダイレクトにまだ価値のついてないポテンシャルを含んだままやり取りをする事を意味します。
その手渡す内容が物であったり約束であったりする「貢献」は一旦その交換対象を両方が手を離した状態で、その価値を手放すと受け取るの動作だけに関係性をもつことで交換を不条理なものとしていますが、その意義はより大きな結果への期待にあります。
これは賭け事や投資も同じで一旦持ち合わせを手放しの状態にして、期待の実動部に使用することでより効率的で大きな結果に繋げるという構造は始終関係や縦の関係や搾取の関係ではありません。
「貢献」はより大きな結果に期待してポテンシャルを充分に引き出すために、最適な利用の箇所やタイミングのために占有権を一旦破棄した状態に置くことを意味します。

共同体にて「貢献」するということはその提供主として直接的にリターンやレスポンスを得ようとすることではなく、だれでも利用できる状態で提供するということです。
その利益を得ることができる範囲が「共同体」であり、その受け取りをするためには自分を確立しておかなければ配分先を見つけることができなくなります。
そのために提供したものはだれであるかという責任がついてきますし、使用したのが誰かという責任も発生します。
これは経済社会において金銭、貨幣に占有権がないのと似ているでしょう。お金に所有権があるなら支払いの際に占有権放棄を毎回しなくてはなりません。あなたの100円玉を手放すとき、私は手放します、この人に渡します、それについて依存はありません、同意がありますと書いてサインが必要で、その渡された人間も会社の売り上げに記載するとき同じように占有権を移譲しなくてはなりません。
利便性と効率性を実現するために、だれでもの範囲を明確にしておかなければ、誰でも秒で思いつく「しらない人がもっていったらどうするの?」が発生します。
そうならないための信頼関係に共同体です。

搾取とか縦の関係とか、実際その共同体を思考したときに出てくるわけがないのですが、それをわざわざ保険のように明言しておかなければならないという状況の、共同体の認識の低さと危うさは教育などによって伸ばしていくべきで、常識や倫理といった安全性を自立という形で育まれたものが担うべきなのはもう何百年とこの世で紡がれてきたものです。
これを一言で「いますぐそれをすればいいだけじゃん」で突き崩せるわけがないのに、人の知性の成長を阻害してその場の判断を責任と言い換えて、貢献や共同体をいびつなものに言い換えて一度きりの無茶な交換を強いるように迫るのが昭和にはヤクザがいましたが、今は一般人がそれを行うようになり「クー」も「B」もその類といって遜色はないでしょう。

ヤクザが問題だったのは組織化しているところで、その迷惑行為で被害がでた場合訴え出ることができるのですがその法的介入の末解決したとしても「組織として連続した別のもの」が続けて迷惑行為ができるというところにありました。
つまり何度でも「不利益な一度きりの交換」を迫れるわけです。しかも「一度きり」を毎回できる可能性があるわけです。その都度法的な措置を取ればいいじゃないかと秒で思いつくでしょうけれども、ずっと「違う誰か」が迫ってくるわけです。
それが組織化されていることの問題点で、一人が一人きりで行えば終わる話が永遠に終わりがないのです。そんな事する人がいるのかと疑問に思うわけですが、そんな事しかできない人をあつめて、それをすることで誉められ地位を得ることができる人間を集めていると、永遠に可能なわけです。
現実的ではないかもしれませんが潰すまで実在した話で、現在でも「そんなことするわけがない、するはずがない」と秒で判断できる「闇バイト」や「甘い誘惑」に乗る人間は存在するわけです。

これは価値が手放しな状態で共有されると利用において効率的になるのを悪用しようと思うと「結果につながらないことが確実で完全なゴミ」を混ぜ込むことで「貢献した」に対する利益を期待する者が出てきます。これが「クー」です。
食べ放題ならいくらでも食べていい、なんて訳がないのにそれを在るとして、際限なんてないと常識にはあるものを無いとして、ただ自分だけが利益を得て他者に損しかもたらさない毒を共有域に投げこむ人間が出てくるわけです。
これはもちろん危機管理に貢献するために発生する、共同体自身の進化のための自己発生的な劣悪性、優位性と劣等感を内部で発生させたもので意義もあり貢献をしています。
実際に具体的な損をして被害を被るものが出てくる事で、それを補填する責任を負う事で共同体に存続しつづけることができるというのは日本の長所でもあり短所でもあります。
完全なサイコパスを野に放つ危険性と、一度の間違いを更生してそれを活かして社会をよりよくできる人間の両方を存在させることができるのです。

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これはよくしらないのにどちらか側の意見に賛同するという、よくわからない状況である。
北か南かどちらに流れているかわからない渦の中で、自分は北を目指すと言っているようなもの。そっちは北なのか?
判らず知らずに言うのは構わないだろうし私もよくわからず話をしたり意見をしたりはする。わかっていないからという事からする行動でもある。
しかしどちらかの側についたり気持ちがわかるとしたり、それを独自に理解した個人的な見解をもってどちらか側であるというリスクしかないリスクをまるごと取るという、あるじも特におらず目的も特にないのに陰腹を切るような決意の行動は、一体なんのために行っているのかと謎である。
謎とはいったが、そういうパフォーマンスで見た目前後の経緯や関係性は特になくその場面だけの絵で「なんかかわいそう」等感情を引き出せたら「かわいそうとおもったら高評価とチャンネル登録よろしくお願いします」の流れであるのはもはや近年のテンプレートなので、そういうコンテンツなのだろうとは理解はしている。
よくわからないものを判断基準にする場合は自己責任における範囲でなければ、聡明な人間であれば想定外のところから想定外の反応をいただくであろうリスクは考えうるわけで、なにかわからなんがどういう利益や被害が出るかもわからないが、とにかくワクワクしたいから「わからんけど」やってみるの精神のバイタリティがなければできないことではある。
この方の場合はどんな反応であっても反論し攻撃し利益に変えるという意気込みと自身とバイタリティがあるからこそであろうとは想像に難くないわけではあるけれども、それは「B」に似ているとも言える。

アドラー心理学が、人間関係に特化して関係性の連続性を切ったり繋げたりすることでちょうどよい距離感を探す手立てをまとめたものとして使える部分がここには大きくあると思います。
実際だれがどれだけ肉を食おうが捨てようが、知ったことではないのです。課題の分離を行えば社会や他人といった直接関係性のないものは、関係を持とうとしても困難である場合が多いからです。
もちろん個人単位で社会や組織と交渉ができる人もいます。それであなたがそれですかという話です。自分が制御可能な範囲で人間関係を持つことで支えきれないストレスに絶え間なくさらされたり、異常な欲求を満たすために他人を犠牲にして結果危機に陥ることを防いだりしようというものです。
つまり知らない業界の知らない現場の知らない実情について、良く知らないけどダメじゃないの?いいんじゃないの?とは、なぜいいのか悪いのかでてきたのかという事です。

なぜ50人前注文できると思ったの?なぜ追い出されないと思ったの?なぜ「やめてください」が上から目線で偉そうで不当な扱いで不条理で不遜な態度だと思ったの?という事でもあります。
何人前ならいけると知っていたのかと聞いたなら知っていたのでしょうか。いけるはずだと見たとしてもその日は可能であるとどうやって見込んだのでしょうか。
それらが確信であったなら、その予定が調和しなかったことに店長は「予想をさせてしまったこと」について詫びたのではないでしょうか。
「放題」と書いていたら自分のそれが適うはずだと誰に確認したのでしょうか。
ラーメン店で「手マン禁止」と張り紙がされたとして、そんなことする人がいるわけはないでしょう。常識的に考えてラーメン店のカウンターで外からみてわかる位置で手マンなんてする人間がいるはずがありません。
いるはずがないものだからだれもそんな張り紙をしていないし、もしその張り紙をみたなら写真を取ってツイッター(現X)に公開するでしょう。
そんな対策を練らなくては商売がなりたたない、見つけて都度注意するではすまない危機的な状況を作り出す人間がいるわけがないでしょう。
仮に「食べ放題」という看板を掲げていたとしても「何トン食べても同じ値段!」なんて書いていないわけです。なら食べてもいいでしょう。ただし店側もそこまでは用意していません。
当然していないものは提供できないし、おいていない商品を注文されても困ります。注文の上限に達するとその状況をなんらかの形で話すことになるとは思います。
その結果を招いたのは選択をした人間のものであって、それについて問題性を見出さないのであれば、ただの異常者です。
「食べ放題」の定義とは、店が破産したとしてもしれは店の責任で客は店の経営など気にせず注文をし、不満があれば提供の方法や経営方法に関係ない「風評」にてつぶれてもやむなし、という意味だと定義されているのは、そしてその店の店長にそれを理解させたのは、そしてそれに同意しているという経営方針を、どこで確認できるのでしょうか。
それをお気持ちといわないのであれば、常識的な範疇とは一体なのか、見せてみろという話になると思うのですが、どうしてそうならずに「やめてほしいはお気持ちだから存在するなら見せて見ろ」になるのかと、本心ならばその経緯が謎で興味あります。

人を殴れば殴り返される、それはもちろん直接的にもあり、法律を使って間接的でも、SNSを使って拡散されることも、痛い目は直接よりもめぐりめぐって来たほうが倍化されて痛さは想定できないほどになる可能性があると、知らずに無垢にただ殴りたいから殴ったというのであれば、そのピュアさにうっとりするものです。
客として好き放題、だって放題って書いてあるから放題したのに出ていけとは、なんて店だ、と言うことは「なんて客だ」と言われることを想定しないなんて、どれだけ情報無菌室で育ったのか気になるところでしょう。
性的な被害をうけた弱者の女性ですら「誘ったんじゃないの?」というコメントが発生しうる現在のインターネット情報網において、100%完全に肉の注文度合いや態度や口ぶりが最適であったとしても「客に問題がある」と言われることは想定できるのではないでしょうか。

もちろん常識の範疇で考えると、それを想定で両方の人数を集める事ができる方法で情報拡散を行えば発信元は一次的に注目を浴びるので、その視線誘導を使ってなにかしようとしている、人の視線を意図的に操作しようという動作自体に問題を感じるわけですが、それとは別にその手段に同意や意義を感じる人は、いわゆるバズ狙いでない場合があるとしたら、その自己犠牲の精神たるや神聖性を感じます。


結果いろいろ書き連ねましたが、要するに人間ひとりでは生きていけないので組織化しますしそれにはなんらかの意味があって、それを見るだけで楽しめるという豊かさを我々は手に入れてしまったという事です。