宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

異常者の姿

本来あるべき真の姿というものを、みなさんはご存じでしょうか。
おそらくまだ知らないと思いますね。残念なことです。では私が特別にあなただけに教えてさしあげてもよいのですが、教えてほしいと、あなたは願いますか?

すみませんいきなりマウントを取って自分だけ悦にいって異常な欲求を満たしてしまいまして申し訳ございません。
「クー」がこうしてくれていたこと、完全に的外れで異常なことについて勝手にしていてくれたことのありがたみが、いなくなってこそ感じられますね。

ぶっちゃけ人の在りようというのは決まった形がなく、あろうとする努力をしたりそれを保つ努力によってそのおぼろげな姿がなんとなく自認できたり視認できたりするものです。
しかし特性として、いつも同じ状態に戻ってくるというのも物質的に抗えぬものでもあります。

アドラー心理学」に平和が訪れ、全員異常な常連のみ残った結果蟲毒の効果によって真に異常な人間だけが残りました。
異常のふりをして猟奇を振りまいていた「クー」が標的とする一般人の消滅によって相対的に消滅してしまいました。

現在は実際に対話の成り立たない異常者と、それに巻き込まれる形の一見さんだけという状態になっています。

 

まず第一に発言をしっかりしてくるサイコパス「B」、仮にここでは「B」と呼ぶことにします。
なぜ名前を言う事が出来ないかと言うと、名前を言っただけで嚙みつかれるという特性のためです。いわゆるSCPですね。
どんな角度からでも噛みついてくるので非常に取扱が注意なのですが、噛みつかれてからそれだという共通の呼び名を持たなければそれを表せないという危険度が特級の呪物です。
自分が絶対的に不幸と認定されると一般に思われている事象を体験しているという前提をもって、他の人間の話題性を全否定します。
自分がハッピーハッピーハッピーにしてもらえないと、いつでもどの角度からでも人格を否定してきます。
その人格を否定するためであれば、そのためだけに事実上設定している敵対勢力も味方とします。「クー」は自分の定義のためならミソもクソもミックスしていましたが、「B」は自分の気分のためならミソと糞の区別をつけません。
投げるものなら何でも投げるという前提にミソもクソもあるというだけで実際にはそれ以外にも人権も道徳も投擲物として投げつけます。
「自分のもっている絶対的な不幸」という基準を基に永久エネルギーとして周囲に呪詛を吐き続けるため、お姫様のように扱いが難しく慎重さが求められます。
誉め言葉でも、一瞬それをとらえきれなかった場合、延々と人格的に異常で最低で狂っていて人を傷つけるから、気をつけなさいよ、私はあなたのそういう最低なところを否定しますと拒絶してきます。
もちろん次の都合で別の敵が出てきたらそんな前提関係なく擁護をしてくれたり、前提を見逃してやった、許してやったということを自分の寛大さに置き換え使ってくれます。
自分の労働で収入を得ておらず決まった労務があるわけでもなくただ日々を過ごすだけの人にありがちなのですが、自分に価値観の基準がない人間というのが「クー」にしてもあります。
瞬間大喜利のように人を罵倒しつくしたり、したかと思えば誉めて認めることもあり、ふつうにかんがえて異常者ではあります。
しかしそういった傾向をもつヤバい人々が実在することも現実でありそれを眼前に確認できるのがオープンチャット、そして「アドラー心理学」部屋の醍醐味でもあります。
とにかく気に入らない事を、大層な理由をつけて詰ってきますがおそらく本人はあいさつ程度に人格否定をしているだけなので、気にしないでいてもらえれば一見さんもメンタルを削らなくてすむのではないでしょうか。
慣れてしまえば、文字を打ち込みはじめたらなんかもう手がつけられないだけの野獣を見たと同じなので、程よく自分の世界にもどってタスクをこなすタイミングと見るのが吉なメンバーです。

次に「T」、こちらはなりすましかなりきりか、ともあれそのプレイをされているのでその雰囲気を損ねないように仮にここでは「T」と呼ぶことにします。
彼は「クー」でありアカウントの切り替え失敗で露見した過去がありますが、失敗をあげつらって永遠に人格否定をしつつも、なぜか憐憫の情をもってマウントをとってくる「B」にならないためにもそれは触れないでおきましょう。
一般人をおちょくって遊ぶ対象がくるまでの擬態としてか最近ログ係にしては珍しく発言が多くなっています。ここで面白いのが「B」は「T」をココロの友で善人認定しているところがなんともユニークな景色になっています。
実際、フェミニン男子でフェミニストで女性に興味がないという男の大半は奥手で男子に対し行動的でない女子に手をつけるための演技であることも多く、正常(異常)な行動ではあると言えるでしょう。
異常者として攻撃しいびり倒して疲弊させ衰弱したところに、その問題を最適に解答をもっている自分が現れれば神になれるというインスタント神降臨メソッドは、昭和のアブノーマル文学作品に触れていると常識ですらあります。

とにかく現状なにか状況報告をすればすばらしいと絶賛して、なにかしら事件のニュースを投下しては異常者は絶対許せないと言い合うのが基本となっています。
そこで間違えて矛先がわからない、もしかしたら同室のメンバーに向けているのではと捉えられないこともないような文章表現を投下してしまうと、「B」が人としての基本的なありかたとして人類の理想像を説くとともに人格否定をして人間としての全てを罵倒してきます。
ここだけが注意点になります。

最後に「K」、こちらは若い方らしいという事なのですが今年卒業でそれについての悩みなどをとりあえず放流して適当にアドバイスを求めてきたりします。
そもそもにハンドルネームが異常で、それを毎回名前として呼ばせる異常さは猟奇的なものがありますが、その完全に崩壊した精神は「クー」らしさでもあるのですがさすがに変態ではないだろうと考えれば、また別の異常さ、変態さではあります。
実行しもしない解決案を求めてきてそれに応えればできないとかいつかやるとか、やるためにはやる方法は条件がどんなものか、ととりあえず会話でなんでも問題が解決すると思っている、というか会話のネタでその場だけ気分が良くなれば現実は存在していないにも等しい感じなのだろうというのが基本スタンスです。
助言などはまったく意味ないのでする必要はないのですが、会話のネタとして聞きつつ答えつつが適切かと思いますが、意味のわからないところで高慢に質問してきたり、わかったふうに回答してみせたりしてくるのが難点です。
そういうところが問題なんだぞと言いたいところですが、そういう問題がわかっているのだからそこを指摘するのは逆にナンセンスでもあります。いわゆる無敵の人ポジションでもあります。
ふつうの人間ならば質問としては、苦悩としてはいい感じのものなのですがそれは努力をしたり解決のための手段をとって改善しようという行動があってこそなのですが、それがないためただの苦悩もどきのおしゃべり雑談です。
過ぎた時間だけいとおしく語って、語るにそれがほとんどすれ違いと喧嘩で罵倒したり絶縁したりと、意味のわからない話でとにかく「人生相談」の引き出しは多いのですがその底がいずれも浅すぎてA4クリアファイル1枚分も入らない薄さでとりとめがありません。
卒業カウントダウンイベントの折には「クー」ですら友達を選べと発言するに至るというどうしようもなさで、どうしようもないから現状そうなっているとしかいえないまさにガラス越しで見る猛獣の一種です。


他にレギュラーメンバーとして主婦層の方々がわずかにおり、時折いいことがあったと発言をしてみたりしている層がいらっしゃいます。
これは本当に「なんでもかんでも賞賛する」という特性のみを利用している賢い使い方で、実際まともに会話をすると気が狂ってしまうという事実を自然と回避しているのではないでしょうか。
最低な職場で給料がいいからという理由だけで居残り続けて日々ハラスメントによって溜まるストレスを言い逃れしに来る方も一名いらっしゃいますが、たしかにそんな狂気の欲求の副産物であるストレス汁はここでしか吐けないでしょうしそれを飲みこんでさらに吐き出すプレイができるのは上記の異常者のみに限られるかと思います。

いずれもまともなアドバイスなど必要なく、ただ姫プレイがしたいという一点についてのみ円卓に集まった騎士たちであります。

これからもログをあさりながら添削などおこなったりして、この狂気の坩堝を観察していければと思います。

教育と政治的構造化の必要性

アドラー心理学」部屋からはまともに弱者救済を目的として雑談をする、自身も弱者であり他者も相互に干渉することで助け合える状態になる可能性を模索できる部屋であることができる微量な存在が退出してしまったため、完全な無法地帯となりました。

line.me

 

「クー」が、箍が外れたようにコピペや画像貼り付けを重度に繰り返し、これは異常さを責められても言い負かせる余裕が現在のメンバーであるとの自負か、いなくなったものへの手向けなのかわからないけれども、ストレスによる幼稚性の退行現象であるかもしれないとも思えます。
いずれにしてもそもそもが狂っているので、見ごたえ的には現在も遜色なく、ただアクティブなメンバーのほとんどが異常者なので、風を切って走る快感のために風の抵抗を受けたいという、悪で愉悦を愉しむためだけにまともな会話を望む人間の同居を望んでいる彼らからすると、もうただひたすら幼児退行していくしか選択肢はないというのは少々残念ではあります。
またすぐ新鮮な被害者が入室し、やたら犯罪者や異常者、障害をもった不足な者としてあつかわれてそれでもその「いわれなき非道な扱い」に耐え得ればはれてメンバーとして異常な道を共に歩むことができるものとなる、その道程を垣間見ることは期待できるでしょう。

哲学カフェの「猫堕落無茶斎」はあいかわらず世界では有名人の言葉では、どれにおいてなににおいてでは、と机上の空論を練りまわすことで威圧をしてくるという肩もみ猫のような素振りがあいかわらずかわいいという以外には特にないようです。

 

line.me

 

本日は国際女性デー、ということで性的な差別をどうのこうのみたいな話やら、そういう現場から、また田舎の差別についてみたいな記事を見つけることができて、そういうものもはやりすたりで情報を販売する側がネタとして取り上げる以外には、暗黙の了解になっているところが本質的なその問題よりも闇に寄っているなと感じさせます。

私は風俗もアダルトビデオもエロアニメも変態漫画も大好きで、ロリコンで熟女好きです。
充分に楽しみ、継続して楽しみたい為、それらを商品として金銭による取引で、居住地域で許可された方法で楽しんでおります。
それ以上を求めて狂うのは被害を発生させる可能性があり、それにより自分の楽しみを削る事になるのは理解できますし、一時の大きな体験を得たとしても継続してその記憶を撫ぜることができなくなれば意味がないと判断をしている人間でもあります。
分割ローンは組む分には圧倒的に不利ですが、自分が回収する側だとすればそれは圧倒的に有利です。体験も同じく、一括でぱっと支払う分には楽ですが、貰う分にはじゃあその後の得られない長い時間はどうするのかという話です。

女性が性風俗という職業選択について引け目を感じたり劣等性を感じることがなくなる世になれば素敵であろうと思う派でもあります。
たしかに日本の教育、性教育の疎遠さや距離感、性のコンテンツに対する敷居とその価値、転じてそれ以外のコンテンツの高尚さと優越性、そういったもので育った私は一般的な価値観の持ち主ではありました。
風俗は低俗で誰とでも肌を重ねる女性など下衆で下卑たるもの、忌まわしく汚らわしい職業と思っていましたし、そういう行為に依存して自発的に選択する人間も同じく穢れていると感じていました。
これはある意味教育の成果の成功例ではあります。思考をそうすることで、マインドセットとして社会秩序に清潔さを求める事で、自分も清潔さを得られその清潔さを保持することに貢献的になるのは、人間社会としては機能的で有益です。
そうする背景として、性風俗という娯楽や業務、コンテンツが必要になるという現実が存在しているわけで、その両方を同居させるにあたり清潔と不潔で分けるという物理的な方法でしか分けることができないというのは、矛盾と葛藤を発生させます。
正常な身体機能があれば欲求をするはずの事に社会としてはそれを禁忌とするのは、もはやプレイの域です。

たしかに日本では裁判や事件とか被害や賠償、原理的になにが社会基礎を成しているのかという政治的な教育、ほか性教育など機微な情報についての教育がなされていないため幼児のような正義感で大人になるものや、生涯をそのままで終える人すら少なくないでしょう。
私は性交渉が大好きなので見るのも行うもの積極的です。同意があれば誰とでも行いたいですし、そこに自尊心や虚栄心で偽り身体的な信号だけの快楽で満足をしたいわけではないので、多くコミュニケーションを取り相互に安心して関係を持ちたいと考えています。
したくない人間とする必要はありませんし、どうしても代えがたい外見というものがあるわけではなく、むしろ対話しその人となりがより楽しい性交になると思っています。
したい事についてちゃんと確認ができ行動を選択でき、結果に満足できるようになるには大きく回り道をしてきました。
ちゃんと言うのは失礼ではないか、自分がそうであることを知られるのは恥ずかしい事なのではないか、どれが正解か、失敗は損失か、など誰にも聞くことができず答えもなく、ただ回数をかさねることだけがそれを知り得る道でした。
その体験がない人間には、それらが大きく欠損しているのではないか、たしかにそれらが欠損しており持ち合わせていなくとも社会生活、一般的な人間関係のほとんどすべては問題なく進めることができるだろう。
しかし人が取り返しのつかない大きな間違いを行動する原因は、大きくその部分に関わることなのではないかとも思っています。
間違う人間の量としてはそんなに多くはないけれども、その多くはないを正しく計測し、対策し、同意のもとに楽しんでいる人間に影響せず、またそれらを不要としている人間に危険を迫らせないためにも、周知と教育は必要だろうと考えています。


基本的に、性的なサービスを提供していたり、性的な関係に開放的な人間を責めないで欲しい。価値を蔑まないで欲しいと考えます。
よりよいとまでは言わないにしても、というかむしろ男性は性的な事柄について女性を部分的に非常に持ち上げることは現実でそこには価値があり、大きな市場ともなっていて、魅力の大きさはいわずもがな絶対的に巨大に存在しています。
それをあえて小さく汚く蔑み、不要で遠ざけるべきというのは、富士山を見て小さいというのも同じでしょう。
表現としては自由なのでそういう言葉を作り出すことは問題ないでしょうけれども、その言葉を作り出した意図としてはそう表現された価値観をだれかにぶつけて痛い目にあわせてやりたいがためという事が透けて見えるのと、実際に投げつけることやその様子は許しがたいものであると感じます。
誰とでもねる人は、あなたの大切な人と関係をもつかもしれないという危険性について危惧される、というのは「あなたの大切な人がそういった誘惑にそそのかされがちなだけ」というだけの事なのであるという現実から目を背けるべきではないということです。

これはあの「アドラー心理学」の部屋や宗教的なものについて偶像を崇拝しないという戒律にあるものとつながります。
宗教において人をだますべきではない、騙す人は罰せられるべき、罰則の恐怖による悪行の抑制という下りはあるものの、なぜ善人が善くあれと行動するように教育させられるのか。
神は唯一で一元的なものから一方的に善は流れて、悪は多数あり流れを乱し多方向から双方向に流れ汚れるものとされるのか、その清潔感とはなにかと言えば社会秩序そのものです。
悪事を悪事だという事にのみ、その表層にのみ言及し実際の内容や修正の方法、いわゆる心理学などで実地に即したり哲学で相手側を考察したり、それを宗教でしないのは「話を聴くのは善人だけ」という当たり前の前提にあるからです。
教会で説教を聞くのは基本的に全員善人です。そこに悪人がどうなるか、どうすればよいか、など説く必要はないのです。
アドラー心理学」では「クー」がどうしてそれを教会で行わないのか、善人にむかって悪事をいろいろ教えて対策を考えさせて、その価値とそれを包括する社会の価値を問わないのはなぜかと声高に問うたりしていますが、それ自体が害悪であるということに純粋に感心します。
悪の成し方を善人に問いかけるという形で教え込むという、善意による悪の根の植え方であり、合理的な穢し方であります。

アニメや女性タレントなどの文化についてゾーニングの必要性というのは、その境界線でもってしてその悪意の植え付けとなりえる行為を教育として活用できる範囲において使用する、そうでない域には禁忌とするという、風邪に抗がん剤を使用しない、末期がんに風邪薬が効果的だと言ったりしないという基本的な事です。
まず前提としてその領域であること、確保されている事を明示してその前提をもってしてあらゆる行動があるべきなのですが、それを物理的に確認ができなければ言いたい放題なわけです。

ことにひどいのが「借金をして風俗で働いたが、返せない」という問題について、原因は「返せない」ことに対する「稼げない」が問題で、職業を何に選択しようと返せないものは返せません。
奨学金ですら返せない社会人は、ホストに貢いで借金をしている風俗嬢と同じなわけです。なにも変わりません。それはどちらが上で下か、清潔で不潔か、という話ではありません。
返済計画が立てられていない、という点と、同じ人類という生命体である、という二点においてすくなからず同じであるという意味です。
頭がいいとか、運がいいとか、どこか狂っているとかいいようにあしらわれているとか、そういう話は別問題です。そうだというのならそこを指摘すればいいだけの話です。
世には多くの借金をしている人間がおり、大会社の長ですら億や兆の単位で借金をしています。もちろん会計的には異なりますが利用している制度や方法が異なるだけで、借金です。
それはつまり、借金についていえば制度や方法を変えるという選択肢を取れば不利ではなくなったり、借金と呼ばれなくなるかもしれないということでもあるはずです。
同じ額の返済金額をもっていて、自分のしたいことができずにストレスをためている人間と、文句ばかり言うけれども責任もなく好き放題しているように見える人間と、まだほかにもあると思いますが種類があるというだけの話です。
風俗や性的な問題、性別の問題は関係ありません。


しかし実際そうは言っても被害者が女性に多いのはたしかでしょう。
被害を受ける規模が違うのと、生物的な価値が違う、などからでしょう。
女性が人間社会において価値が低い、地位が低い、と長年ずっと言われていますが、これは人間の智恵で人間が動物的に生命の優位さを上にすると社会が成り立たなくなるだけの話です。
社会という機能は生物的なものに反します。すべてを殺して生かさず、抑制し滞らせ繰り返させるためのものです。これが女性の活動範囲を抑制する機能をしています。

人間がそもそも、サルから進化し物々交換で、という話をする気はないですが、生命を生み出せるのは女性だけです。逆にいえば生命が生まれてくるのは女性からだけです。
他の人種、国、文化いろいろあるけれども名前を継ぐのは「男性の親から」という基礎を持つものが多くあります。どの父親の子であるか、という名前を受け継ぐのです。
これは社会的機能のためで、相続という「前の持ち物を変化させる維持し引き継がせる」ための機能です。
前の持ち主が亡くなったら、所望する人間がバトルをして買ったものが取得するのが「生物的」であるはずですが、社会はそれをしません。
そのため、生物的な原理原則、動作や根拠を排すために女性が主導ではなく「男性が主導」という構造になっています。
なぜなら、「男性は増えない」からです。つまり男系であれば、社会的な継承を存在させ維持させることができるからです。
逆に女性を主軸にした場合はどうなるかと言えば、女性の個人単位で「本家」が生まれます。相続すべきが一つしかなかった場合、女性の人数分で「生物的なバトル」が必要になるわけです。
決闘による死闘が法的に許可されているのならば、女性が主導であることも可能かと思いますがそれこそ決闘による殺人がふつうの取引くらいに世に溢れることにはなるでしょう。
また女性が一人で決闘をする、それが女性の特権だという世界になったとしても、女性は子供を産むことができます。一人ですまない可能性を社会的問題として含むことが発生します。
そうなると、まけたほうの女性の一族は皆殺しが必須ということになります。こんなことは野生動物を見ていれば充分に理解ができることかとおもいますが、野生動物を取り上げるテレビ番組も教育課程もなくなり久しいため、言ってもわからないどころか「それは女性差別だ」と言う人もおられることでしょう。

女性を一万二千枚の装甲という名の拘束具で抑えて付けているのは、その力や価値のためです。
人が美しい人として想像するものは基本的に女性です。そのため美においては女性が多く登場しますし美の神としての男性神や象徴としての男性は存在しません。
空想上の人物や、時代的に流行した男性は幾人かいると思いますし、絶対的にアイコンとなっている男性も存在はしています。ゼロかどうかということで「存在している」の話をしているわけではないことをご了承いただきたい所ではあります。
古い時代の男性俳優や歌手について、同じ男性である私からみても恰好がよい、美しいと感じる人間はいます。それは女性のそれと数的には同じかもしれません。
しかし個人の枠をこえて、概念的であったり評価価値を共有して認識としての美人とする話になると、利用できるのは女性の美の基準のそれになります。
美を構成する要素について共有が可能なもの、言語化でき情報が遡れ共有できるものが多いのが女性に多くあり、男性は非常に限定的だという事です。
これは文化がそういう形に醸成したからであって、男性が着飾り化粧をし小物をもって活躍の場を評価によって多く持ったならば、現在の女性の地位を男性が持っていたかもしれません。
古代の文明ではそういう状況が立場や地位によってあったのではないかと思われるものもいくつかありますが、基本的には男性にそういう価値があるとされたことはほとんど見かけないでしょう。

まず本家を創造できる身体機能であること、それを自然と成せるだけの誘因力が遺伝子的に、生物的構造として相対にあること、それだけでも人間という生命に大しては充分すぎる価値と威力でしょう。
少年漫画の世界で言えば、その実力者が実力をもって行動することが当然で、強いものが強いものを倒すのが正義で、強いものが弱いものを守るのが正義だと、清い教育では育成されてきたことでしょう。
しかし実力に対して叶わない強いものに挑むというのは無茶な話で非効率的、不条理で愚策なのは思考をするためにブドウ糖を消費するまでもないことです。
勝てる弱い相手に対して実力をふるう事こそ効率的で効果的、そのために強くなるわけで、勝てた相手は弱かっただけ、相手を強いと賞するのは得たものの大きさが実力より大きかった自己賛美であるというだけの話です。
男性がこれを好み行い、社会としてこれをあるようにとすることは生物的にはまるで無意味な逆方向の意義しかないのですが、これを行ったという遺伝子を、その極大なレバレッジを経験した遺伝子を残すという意味で価値を成すものでもあります。
つまり男性が特異性を常に求めて変化して、状況に適応しそれを女性が組み込んで残すという形が生命なのです。
男性は無理無茶無謀を試みて脱落し死亡し、欠損を経験し生きて帰ったら、必要があるならばその情報を後世に残すという役割なわけです。
現在の人間社会では人間は死にません。特異な経験も紙やモニターから摂取するだけのものです。競争も指先で行うものだけですし、情報の収集、収斂のための遺伝子としての生命体としての男性は、今現在ほぼ無意味と言えます。
その中で、社会として貨幣価値を得たり与えたりする基礎を生産する労働力として男性が使われていることは、法制的にも合理的だと言えるでしょう。
女性が主導で家族が増えるたびに財産や資産を分けていれば、現在の日本の核家族のような構造になってしまいます。結果がどうなるか、現実に現在を見れば答えがでています。
家をまもって家族と血筋を守るというのは、日本以外の国ではわりと多く存在しとても重要なものだとして引き継がれているものも多くあります。
日本は同じ社会の担い手としての同僚という感覚で民族をとらえている個人は多くいるかと思いますが、家族というものは先の大戦の終わり以降徐々に削られ、いまではもうほとんど存在していないといっても過言ではない状況だと感じます。


社会においての直接関与の率や選択肢の幅、それと比べて価値的なもの、実質的に得られるものの大きさを比べてどちらが上だとか下だとか、差別だとか、そういった表現で同調する人間に情報を売りさばく媒体に影響されず、それぞれが自由でいれることの価値を再認識できれば日本がどれだけ文化的に恵まれているか体感できると思います。
私はこの価値の醸成された現在の日本というものがとても理想郷に近い非常に素敵な国であると感じています。
本来ならばもっと社会を維持させるために生物的な構造に即した、社会機能のために倫理や政治的に構造化した、教育や価値観、文化といったものになるべきであろうとは思います。
しかしながら、一番瓦解しかけていてゆるくあまいところでゆっくり崩壊にむかっていっている現状の自由すぎる、拘束されない部類として自由を謳歌できる貧しい人民としての日本人でいれることにありがたいことだとおもっています。


願わくば、そういう叶わない行動をすることで行動に意義があると思わせて協力を募らせて生活をするような無駄な商売が減り、正しく分けられた文化圏でそれぞれの楽しみが充分に楽しめる世界を共存させることができ、豊かさを求めていければと考えています。
実際そうはいかないことくらいはわかっていたとしても。

無責任な行動と生命エネルギー

学問というのは、何だろうか。
哲学や心理学、文学や教養のタイトルを冠したオープンチャットの部屋では、まあそんなものはありきで「学問的には」とか「学術においては」という形で利用されはしているがその語の意味するところは雰囲気である。
学といえばえらい人が学びたいと望んでいる複数の人間にご高説賜ってくださる一部状況において一次的で一方向的な伝達をされる部類の情報だ、という雰囲気だろう。
実際にそういうものだろうか。学があるとか学を得るといった表現はそれに沿う事ができるだろうか。あきらかに内容的には同じものを指し示す事であっても可逆性がないならば別ものだろう。
別ものならば別になったという言葉を挟むか、別の言葉にすべきである。雲から蜘蛛が生まれて蜘蛛の糸で曇りをつくる事ができるならば、それぞれを「くも」で呼ぶことは、どうあっても伝わらないので避けるべきである。
一つのまとまった形式に納めることで、情報の単位にすることができたものが学でそれを得る手段が学問なのではないだろうか。

そうではない、そうではないと辞書にかいてある、なんとなく違う気がする、違うといいたい、それではダメだという事で前提を全て知り尽くしさらに誤りを見つけ正しきを知っているとマウントがとれる、のであれば、私の誤りであろう。白紙に戻す。
白紙の戻すので「どこが違っている」「こうなっているから違う」「ここはダメだ」と言う必要がない。白紙なのでそんな指摘をする先をすべて、ご指摘どうり破棄して白紙にしようというのだから。

では何かを説明してもらおう。その前提で話をしよう。もちろん問わせてももらう。他の応用例でその語に矛盾がないか、齟齬がないか、問わせてもらおう。その上で無理無茶があれば「そうなんだ」と漏らさせてもらおう。
私が作らずとも、基礎を作ってもらえるならその土俵の上で遊ぼうではないか。土俵のありようについてありか無しか問い合っているのは、もったいない。せっかくのその土壌がもったいないではないか。
ここに言葉で遊びにきているのだから、さんざん遊ぼうではないか。

ここは私だけの空間なので私の定義を引っ張り出す以外にバリエーションがなく意味もないのだが、他に使うものがないので私の定義でもって話を進める。
哲学とは聡く考えた事を人に伝達しそれを基準に使って物を見た場合、いろんな見え方という信号を身体が受け取ることができるという纏めであり纏めの伝達方法だと考える。
学問的になどと言うのであれば、そのシステムから派生する内容であるべきで、新しくても伝統的であっても同じデータソースからであるとい事を宣言することになる。
それならば言い方は「学問的、学術的、〇〇学として」という言い方になるわけがない。岩手県の農村出身の人間が自分の出生を基礎に会話をする場合「同じ東北出身として」として切り出すことになんら意味があるだろうか。
東北全域で、という切り出しの話であったとしても東北出身という参加の仕方はない。自分の出生を聞かれて凡そ「焦点を暈す」ために使う事はある。つまりそういうことである。
焦点をあわせないことを目的には使うが、焦点を合わせるためには使えないし使わない、という事である。ただそれだけの事である。
「哲学をやっておりまして」が「自分は聡く学問をしていて教えることができるだけの精度と量の知識を持っている」を意味しないことは脊髄反射で理解することができる。
曖昧で焦点のあわない対象から槍が降ってくるという状況作成には十分使える。自分がいかに愚者で知識がなく無責任で非道の限りを尽くす最低の人間だとしてから「お前は最低だ」と言う手段もあるといえば、あるのと同じ。

「猫堕落無茶斎」はとにかくこの「曖昧で暈した」中に身を置くのが大好きで、これはおそらくルイスキャロルの「不思議の国のアリス」のチェシャ猫をモデルにしていることを含んでいるのだろう。
常に意味もなくにやけては煙のように消えるという特性はそのロールプレイのなりきりがいかに自然に彼に馴染んでいるかがよくわかる。

学問という詳細度からほんの少し焦点を合わせ気味に暈してくるのが「クー」である。彼は具体的な著名人の名前や一節を引用したり、毎回完全に意味をはき違えているにしても必死に解説をつけてくる。
そして完全に意味をはき違え根本から間違っているため毎回こたえにはたどり着かないことを、他の一般の人間が「現実や実際の固有事象に大して効力を見つけるのが困難であること」と同じだとの勘違いから社会人の葛藤に寄り添えるものだとして寄り添おうとしてくれる。

根本的に「アドラー心理学」を使って悩みを軽減したい、現実の事象に解決を見出したいとして、道具としてそれを使うならば「自分がどうであるかは相手とは関係がない」を根本に置くジャンルである。
たとえばプレゼントひとつにしても、相手が喜ぶか利用するか邪魔にならないかどう思うか思われたくないか、というのは前提としてすら出てこないくらいに無関係なのである。
自分がなにを贈るか、だけである。しかし贈るには相手がおり、贈るものや方法タイミングや状況などもあり、相手も同じ数の条件があり、その中から最も効果的な「一品」を選ぼうとするのは完全に全てが食い違っている。
しかし、その食い違いを「哲学」だと勘違いして、一つに品にどれだけの意味をその場で込めることができるかについてのみ品評会を開く。完全に贈るも祝うも考察することも全てが意味のない行為である。
この無意味な行為をしたあげくに「全部がよくてなんでもいい」と完全にその脳が酸素を消費した時間すら無駄であると否定しきって締めくくる、人間の時間を、人間でいることそのものを無意味にして嘲る本格派の悪魔である。


宗教関連についても不道徳で背信的、学問についても学ぶ必要がないとしたり、学べていないことですら発言ができるという事を知としたり、表題のアドラー心理学さえもその基本である「他人と自分を切り分け、他人を気にしない」を完全に無視するどころかまったくの正反対で「他人ばかりを気にして、無関係な他人事を話題にして問題提起し、他人の行動をいちいち名前付けして呼称すること」をそれだとしている。
きれいに正反対の行動をとれるということは、まさに熟知しているに思わせる行動であるが、唯一の悦楽のための行動選択が単に正反対であったというだけのことなのが純粋さであり蒸留された悪意そのものとして、他の悪意と異なり純粋に楽しめる一因でもある。

「クー」はとにかく他人の一挙手一投足を名前付けして行動を「行動した」と声を出して「それいいね」と付け加える。チャットルームで発生する事象全てに影をつけ、その実在を証明する現象として自分を在らせているのだ。
神ないし神の御手になりきったつもりでなりきりチャットをしているのだとすれば、まさになりきりである。
千変万化し全ての事象に対応するがゆえに全てであり、個としての優位性が損失することについても「クー」という一個人とその他現象を使役するとして自身の欲求を最大限に満足させるものになっている。
会話する相手はそんな人間と時間を過ごすことの無駄と無意味さにストレスを感じるはずのものであるが、「アドラー心理学」部屋では、既に「クー」を人間として扱っていないため共存が可能となっている。
自分自身が人間という価値を失っている事に気が付いていないのか、人としての名残に未練があるのか時折人間扱いしてあげているよ(私が私に)とまるで人間のようなどこにも宛先の無い文章を投下するのだが、これは人ではない宣言を都度発することによって認知既知を高めようとしているのかもしれない。

まさに塵芥、ごみや廃棄物、排泄物そのものが口をひらいているかのようななりきり実演を行う「クー」ではあるが、その不要さについては「猫堕落無茶斎」も負けてはいるもの、追いすがってはいる。

この両名は人とはここまでに羞恥や倫理を無くして動物的に、動物ですら知性と習性があるのにそれよりも行動に無責任な、まるで原初の生命のような、微生物やアメーバの類のしなやかさとたくましさを感じさせる。

もし本当に生命エネルギーが両手の先から発射されたらどうしよう、と悩んで毎日波動の発射練習をしているような、完全な無駄だけで作られた文字を形成できる才能はなかなか見られるものではない。
本当に無職で暇を持て余している人間の特権だろう。
「クー」に関しては昨今の行動から、もしかすると居場所がなくなり強制的に社会的な生活を強いられ一般人のような行動と思考を強いられることになるかもしれないが、日本の子供部屋おじさん、ニート、引きこもりの人数から鑑みても、このままいてくれる可能性は期待できる。

極薄のチャーム

今回は「猫堕落無茶斎」に焦点を当ててみたい。
「クー」に比べればただの面の皮の突っ張った否定の一点張り起き上がり小法師でしかないが、これがなかなか面の皮だけで風を切る速度は音速を超えようかという大胆無比な面の皮である。
基本的には同室のメンバーが出したネタを否定しては馬鹿呼ばわり、カス呼ばわり、阿呆呼ばわり、屑呼ばわりしては人格否定をしていかに自分が優秀であるかに酔いしれる、いわゆる酒があれば気が大きいタイプである。
その酔うための酒、出典の言及がついた情報で否定をすることで一人酔いしれるわけであるが、「哲学カフェ」の緩さからしてその程度の内容でゆるふわに空想や妄想を練り合わせて、いい感じの短文を作成することでそれぞれがほろ酔いになる部屋ではあるので効果的になってしまう。
「仏教と量子力学って、なんだか似てませんか?」レベルのふわふわ妄想で「宗教という分野においては」のような切り出して語ってスタンスをとる、ジョジョ立ちを会話で成すような何物でもない何かになりきるなりきり部屋なのではある。
故に、古い本の記述にあっておまえは違う屑だ糞だゴミだ死ねいますぐ死ね、いますぐここから飛び降りて死ね、という言葉にも威力を持たせてしまう。
そんなどこかに記載されてるらしい情報、されているというリンク、解釈を垂れ流してくださるスタンスも所詮はなりきりと同室同レベルの内容であるが、とにかく妄想空想のコンセンサスで成り立つ部屋というのは「なりきってくれている」という緩衝材ありきの部屋でもあるため、そのクッションを外されると痛いのである。
ただ痛みしかもたらさないなんの意味も教養も実用性もない名言格言、原初の情報を垂れ流しては人にぶっかけてその滑りでもってして人が転んで泣く様を見て喜ぶという変態性を持っているのが「猫堕落無茶斎」である。

なりきりチャットはその点厳密にルールが決められており、だれも傷つかずに妄想を楽しめるよう制限が施してある。アニメのBLなりきりチャットのほうがよほど知性としては上だと言えよう。
その知性も度胸も才能もない人間が、ゆるくふわりとなろう系の異世界転生でこの世の全てを言葉でいいあらわしてしまって自由にすることができる天才で万能だが、いまいちひっかかる点をそれぞれが問い合わせ納得し、それぞれの才能に恐怖してまだ無知な世界に絶望するというのがいわゆる「一般に哲学を掲げているオープンチャット部屋」の内容なのである。
そんな柔らかく弱い巣穴に目を付け、ただ面白半分にかみつくだけという面倒な人間が「猫堕落無茶斎」なのだ。

否定は言語の構成が数あるなかで、最も簡単でそれに反比例する効果と意味の大きさを持たせることができるものである。
発された言葉の末尾に否定形を付けるだけで完成する文章であり、その内容は述べた内容を全て知り尽くし完璧に理解をしているという前提を持たせることもできるのだ。
研究し積み重ね醸成しより分け整え簡潔にした言葉を、効力が発生する場所と時間と状況において発せなければまったく意味がなくなる貴重で効果な言葉も、最後に否定形をつけるだけで「まるでそれらの努力をして対等に発言している」かのように振舞えるのだ。
その「価値を最大限に付与できるという効果」を否定から外して指摘をし、あらためて否定をするだけの価値を持ち合わせているのか問いただすことも可能なのではあるが、妄想空想なりきり部屋では、禁忌となるのだ。
なぜならば、現実にもどらないという前提条件、現実という障壁を外郭とした中庭で遊ぶことが暗黙のルールである妄想空想なりきり部屋では、その壁に触れる事や壁の位置を利用したり変更したり、壁からでることは「遊びの終了」を意味するからである。
皆がルールを守って遊んでいる中、一人だけ異常者が異常な行動で場を破壊しようとすることはもちろん許されない行為ではあるが、多数のうちに1だけあるということは比較や前例をもちあわせないため基準を策定しづらく「異端だ」とすることが難しいのである。
もし他に比較のない一つの存在を「異端」呼ばわりしたならば、妄想や空想、なりきりをしている人間はそれ即ち変態で異常者であるという事になってしまう。現実が存在しそこから隔離され、ルールがあって遊んでいる、遊びでしかなくなる事で排除をするには、自分たちの遊びを定義しきらないことにこそ妄想の意義があることを損ねてしまうのだ。
「クー」の「アドラー心理学」部屋でもそうではあるが、二人目が存在すると前例も比較もできるため、突然異常者が常識人のふりをし始めたりすることになる。共同体、組織体、集団とはそういう機能をも齎すものである。

どの本にのっていた、有名人が提言した、どの一節でいいあらわされている、等の本当か嘘かもわからない、皆がやっているごっこと同じ内容で「否定」をぶつけて痛がる様子を眺めてにやつき変態の汁を、「猫堕落無茶斎」は垂れ流しているのだ。
哲学がなにかすら説明することができず、哲学は哲学なので、哲学してる、そんなものは哲学なんかじゃない、本当の哲学というのは説明するのは面倒なので何かの本をよめ、読んでもいない癖にと真に面倒な子供と素振りが同じである。
100年前か200年前か、最近のだとして他人のその時点のその状況で作成した情報を、ここで活用する方法が「唱えて相手を馬鹿にする」というだけであるというのならば、道に落ちている小枝と同じである。
むしろ小枝のほうが利用価値が、生産性がある分まだ上である。人を叩くために使われる小枝の意味とは、いったい何なのかを哲学してから人であることを主張していただきたい、だからこその猫を名乗っているのだろう。

何かを知っている、知っているが知らない人間をひどく痛めつけるためだけに知っている、自分の知識が人を救ったりためになったり、行動のきっかけになることを目的としていない、怠惰の穢れの具合だけ見れば「クー」にも匹敵する部類である。
しかし、できることといえばそれだけなので「クー」ほどの実力は持っていないのだ。
人を貶め誤解を招き道を誤らせ失敗をさせ、それでも自分は自分の選択した結果なのでよいとしたい、と思うほどにまで人間を愚弄し堕落させ嘲笑するためだけに寄り添う悪魔の権化と言える「クー」の、ごく一部の爪の垢程度ではあるが、巣食っている患部が「哲学カフェ」という天才なりきり部屋であることで重症度をあげているのだ。

実際に賢いならば自分が憎まれる事をするわけがないので、自分が憎まれる事でなにをなそうとしているのか、また成されたのかわかろうものである。そんなものはなく、さんざんの罵詈雑言であてこすって赤く腫れあがった自分自身を誇張して自慢げに汁をまき散らしては一人で終了宣言をして、また擦れるタイミングを見計らうだけのその素行からはなんの目的性も感じられない。
その潔い最低な穢れた堕落さを名前でもってして示している「猫堕落無茶斎」は、なかなかに楽しめる人の膿の一篇である。
ぜひともその薄さを目の当たりにしてもらいたい。
本屋で積み重なった本のタイトルを順に読んでいくだけで、その場にいる人間を読んでもいないから愚かで知性がない、そんなこともしらない奴らといると疲れると高説を垂れ流し湿った自己満足を引きずり床を湿らせている、そんな姿が楽しめるだろう。

line.me

空前のエクソシストブーム

昨年は、エクソシストブームであった。 ヴァティカンのエクソシストが日本で劇場公開され、空前のヒットから再度エクソシスト熱に日が着き、だれもかれもが怨霊や悪霊、悪魔に憑いては離れ世はまさにエクソシストブームなのであった。 呪術廻戦にしても陰陽師にしても、エクソシストの影響によるものと言わざるを得ないだろう。 実際には逆というか、いわゆる時期的に発生する定番メニューであり基本的には同じ展開である。少年漫画のように新しい技やキャラクターが発生するわけでもなく新しい概念や哲学を披露する場でもない。 少年漫画は必殺技の名称のために使われる素材の一つに近年抜擢されただけであり、陰陽師は同じ役を歴代の人気俳優が演じるという定番演目、エクソシストも悪魔の形を人の肉をもって映像化するためだけというものなので、ハズレもなければあたりもないのが現実である。 私の大好物の地獄が人間の体温ですっかり冷え切っていたところにまた「クー」が燃え盛る血を注ぎ込んでくれてまた人の脳を焼いてくれていて大変助かっている。 真に賢い人間が登場して退治されたい、と目いっぱいの自信を滾らせて発言の活動がある人間に「人間にしてはよくやっている、合格」という儀式を行ってくれている。 心理学や哲学、宗教に精通していて、かつ直感的にそれらを理解してしまう頭の良さが自慢の「クー」である。 しかしながら、はたから見れば「いまの自分が社会的にどういう立場にあるのか、それを省みればその自慢の評価結果が現実にはどういういものか推し量れよう」というものである。 その現実と空想の差を埋めるのがオープンチャットであり、自分の意のままに人間どもを操作することができるのが「アドラー心理学」という部屋である。 同じタイトルで繰り返し同じ演目を繰り返すのに、なぜ新作が出るのかについて話す機会を、その知性の低さでもってして人を欺けるのはなぜかという事に並べる事で説明の機会があるのは悪意の存在価値だろう。 宗教が苦手と言われるのはその不透明な部分や教養的な部分を説明する人間がいないからである。そしてそれを知らないまま使う事に躊躇がない民族性や文化の醸成という背景もある。 人を罵倒すれば気持ちが良くなるが名誉棄損で訴えられて実刑を食らうのに、実刑になるかどうかはわからないし名誉棄損というものが何かわかっていないのに、気持ちよくなるために人を罵倒する人は後を立たない。 つまり実行して気持ちよくなって実刑をくらう人は、いなくならないのだ。それを気持ちよくなる手段として選択し得ないという教育や環境がなく、説明ができる人間がいないのだ。 自分にされたらいやな事を、人にしてはいけませんよ、それは人からされる事を許容してしまうので、という定型句と「もしもあなたがされたら」という例を持ち出すまでしか現在の日本には言葉が存在していない。 人に抑止抑制をさせるために、日本人が現段階で可能な干渉行為は暴力か罵倒しかないのだ。それで嫌な思いを体験させ、それをもって教育としているのだ。 心理学や哲学というタイトルの旗印の下に集まる人間は「天然水というラベルの貼ってあるペットボトル」だから中は天然水だという体勢でもって、水を使う場面動作全般に「それは水だから」という理由だけで対処をする人間が多い。 つまり過去の心理学や哲学の学者が書いた本の一節を持ってくればそれはまるで悪魔を払うかのように、常識的で一般的な常識を払拭し自分の勝手な妄想をそこに据え置き芸術作品かのように干渉し恍惚に浸ることができるのだ。 人間がひどい姿に変形し悪態をついて超常現象を引き起こすという描写によく似ている。エクソシスト映画に悪魔が絵として出てくることはない。出演者、全員人間である。 ペットボトルに貼ってあるタイトルが水であったり石油であったり、書いてあればそれはその機能をする「そういうペットボトル」であるのと同じである。中身が問題だとして中身が出てこない話をしているのである。 国語の読解力や情報の理解力というのは、それを他に利用することができる点について問われるべきで、それが不要であれば録音装置と再生するスピーカーがあればよいだけである。 それらを完全放棄しはじめた傾向が「クー」にはあり、基本的に個性がないので一次的ではあるけれども画像の貼り付けに必死である。名言のコピーを画像にして張り付けているのである。 Facebookやインスタグラムではよく見られた傾向なのだが、それを画像にすることによって「威厳のある発信者」からの直接的な発言なのではないかと勘違いする人間が少なからずいるものである。 不幸の手紙が届いたら、その巨大で闇深い恐怖に慄くわけだが、実際それを配達する人間の手が手渡しをしなければ、途中で紛失したり破損したり、届けられないという状態が発生すればその不幸の手紙は届ける先に到達することはないのだ。 名言がどんなにすばらしくその本人が書いたものであることを自身が受け渡す際に加工をしていないという証明として包装したもので相手に渡るようにしたとしても、手渡しした人間の責任である。 それが画像ならば、受け渡しをしただけ、自分は仲介をしただけ、その言葉の責任は発信者本人にありその責任をそのままお届けするために手垢がつかないように画像にパッケージ封入をしてお渡ししたのである、と通用すると思っているのである。 稀にその効果がでる人間がおり、そのため不評被害や詐欺被害が発生する際に無関係の一般人が加害に加わることでその被害をさらに大きく、犯行の一助となす事がある。SNSなどではそれが顕著に大きくあるだろう。 人に差し向ければレッテル貼りという名称で忌み嫌われる事として有名にはなっているものの、それすら気兼ねなく行う「クー」であり、説得力のある言葉を人にぶつけたいだけという物理的動物的な欲求を持っているのが「クー」である。 これはもう肉欲や性欲が高まって行き所がなくなった若い男性の異常な思考形態に近いと思われる。実家がお小遣いを出してくれているだろうから、そのお金でその欲求を解消する術を見つけてほしい。本物の犯罪者になってほしくないという老婆心である。 その人にものを手渡すときに手渡した人間がどれだけの割合を、責任として持っているかという配分は被害者という立場から問う時には狂ったように大きく問う。 自信が被害者でなくても代理として執拗に請求することが最近のSNS界隈ではよく見られることはニュースになっている事件の多さからもわかるだろう。 私人逮捕や暴露系、犯罪被害者や犠牲者の声を代弁することで相手に社会復帰ができない程度が打倒な対価なので支払うべきと迫る人間やそれをもとに事件になったものの多さである。 なんの役に持たないため、それを使う場面の想像力を養う目的で学習課程に組み込まれた一文や、それにまつわる人物や事象から引用して一文をもってくることが頭の良いことであるという教育の結果の産物がこれである。 人がみんな違っていてそれを評価して善いものとするというのなら、言葉自体を発する事すら意味がなく、いいねと常に発信するボットが自分の所有する現金を見るや否や募金をするくらいであるべきだろう。 それがまったく反対の意味として、発した言葉について強烈な背景と尋常ではない状況に置かれた人間が、その状態に屈せずまたは脱出してから描写を言葉にしたものがあるという事に気づきはしないのである。 エクソシストの構図で言えば、有名どころなので誰でも知っているところだろうとは思うが、祓う側が呪文を唱えて悪魔が苦しんで出ていくというものである。 西洋のものがうけるのはその背景の不明さであって、不明なところに自身の見たいものを適当に詰め込むことができるから、日本ではヒットするのである。 不透明な部分をだれも説明しない、そこに入れるものは視聴者各位の好きなものを入れてみんな違っていていい、という事なのである。 そうすることによって何が発生するのかと言えば、その薄暗い謎の不明なものが自分で語り始めるのだ。偶像の崇拝するものである。 笑えるシーンやギャグがある部類の、除霊やエクソシズムものやホラーものには神の姿も声も出てこない。戦うのは人間である。しかし悪魔はありありと像を出し語り具体的に実在を見せる。 「なぜ悪魔だけが存在し、神が見えないままなのか」について言えば、実際に問題を解決するのは実際に責任が発生しているところの者だけだからである。 神が悪魔の存在を許容しているのか、悪魔を作ったのは神なのか、人を苦しめるのは神なのか、について「神」自体は無関係で責任はないのだ。全てを創造していたとしてもである。 神によって堕とされ作られその悪行を神の許容範囲でのみ行え、神の名の下に代行者である人間がそおれを否定すれば行動は直接さえぎられるのだ。 現場にいるのは全員責任者である。そこを「クー」は自分以外の全員について強制的かつ一方的に存在させることで責任を問うが、自分は無関係だが自体を全て掌握している「神」であると名乗るのだ。 そんなもn存在しないので全体の罪を創造している悪の権化、呪いの権化で悪魔そのものである。 人に害以外を与える事一切を否定する、否定により全てを掌握している実感を撫でまわし恍惚に浸った自分の溢れる欲望で作られた粘液に肩まで浸かる姿は人のそれをもはや大きく超えた悪意そのものである。 これをほとんどの常駐メンバーが「善い事」に分類しているのが、地獄の描写として非常に美しくある。 細かい話ではあるが、エクソシストが悪魔に打ち勝つという構図は神の言葉を借りて召喚魔法のように神の力を呼び出してそれをぶつける事によって除霊をするわけではない。 そんな構造的に悪魔を退治できる手段を選択して退治する系統で言えば「コンスタンティン」である。基本的な構図はまったく一緒であるが描写が異なる。 海外のエクソシストの映画で行われるのは、人が神の力を借り物ではあるが手から出すことができ、それを悪魔に当てることで追い出すわけではない。 日本の除霊や陰陽道と方向性が違うのがここである。エクソシストは信じる気持ちを持った人間が神に赦されると、それを証明として悪魔に当てる事で退治ができるのだ。 悪魔が恐れおののくのは神に守られた人間の存在そのものであり、人間の役割は威力を発したブロジェクタイルのようなものである。射出する構造や機能は天国にある。弾丸の強度が一次的に加速によって高まるのだ。 日本の場合にそれが異なっているのは、人間自体は弱いままなのである。借りてきた力を貸主が高い威力のまま悪魔にぶつけることで退治ができるのだ。 借りてきた名言の画像を張り付ければ、だれだって同じ威力を出せるのである。銃社会ではないのに構造が銃社会であり、銃社会のほうがむしろ人間の存在を弾丸に見立てる構造になっているのは面白い。 銃というものをよく知っているからこその落とし込みなのかもしれないし、人の行動範囲や価値基準といったものが社会の中にあり社会から借り物だけで生きている仕組みの違いなのかもしれいない。 その自身の価値が高まるという構造の中には借りてきたもので強くなるという要素がないため、お札や聖遺物は武器として出てこない。主人公が手に持ったものが武器である。 日本の場合は道具であればだれが使おうとも威力を発揮するのである。社会という機能ではないのだ。個人の個別の対応で大きな威力を期待できるため、個人の裁量で事象を解決するのである。 まずこの根本的な異なりが異なった方法を選択したときに大きく道をそれ、誤った道が無意味な結果にたどり着く事を助長することになる。 借りてきた名言で相手を退治できるので、自分は偉いという、どこにも接続する関連性がないまま最後の「自分は偉い」を獲得するだけという構図なのが「クー」であり、日本人にはこれを問題視する手段が少ない。 死ねと書く事は最初にその言葉をつくった人間ないしは悪魔の責任で、それを書きはしたがその字は自分の責任とは自分がそれによる影響で物理的にプラスになることがなければ無関係であるとするのだ。 受け取った人間がいたとして、その人間が自殺でもしようものなら責任は「死ねと書かれた紙」を渡した人間であり、書いた人間も同一人物ならばその責任はすべて書いて渡した人間にあるはずなのである。 ところがそんな紙や行為はなんの効力もないことは「他事例で証明されている」ので、書いて渡した人間には問うべき責任はなく、読んで勝手に死んだのだから被害者本人の責任だとする。 そんな事は異常だろう。だれもその書いた人間渡した人間を許すことなんてできないだろう。 しかし「アドラー心理学」の部屋では直接被害者すら、基本的にいい人だからと赦す傾向すらあるのだ。少しずつ村人が減っていくのにそこにいる人らしきなにかが人の皮を被った熊か悪魔かなにかとは問わない。 自分を食ってくれる寄生虫のような悪魔を体内で飼う事に意義を感じているのだ。 チャットルーム内で発言された単語をしゃべるから、まるで人のような形をしているから、それが借り物で遊んでいるだけなのでレッテル貼りや虚像の一人歩きをさせていたとしても、神でもないが許してあげよう。 それだけでも人の枠を超えんばかりの勢いの慈悲であるか、人間以上のものや自分以外にまったく興味がないかのどちらかである。 ただ自分が神であるというポジションに居座り高みから他のメンバーの頭を撫でてやるというプレイが好きなだけならば、それだけでも大概に迷惑な話でありそんな無用なもので恍惚に浸る顔を見せるためにコミュニティにはいてほしくないものではあるが、そういう性癖ならば仕方がない。 しかしその歪んだ自論を展開することによって、同室のメンバーが異常な行動を正常だと理解して同調していく姿があまりに惨すぎる。洋館に架けられた古くとも色あせていない、見た者の目をそらすことを許さない地獄の絵画のようで、甘く楽しみに溢れている。 アドラー心理学と銘打っているからには優越性、劣等性、共同体という単語が出てくるが全てがその引用されるべき内容から酷く乖離している。乖離だけならばまだ間違いですむが、独自の偽情報で埋めてくるのだ。 造語のように単にコミュニティ内で連携を生み出すために独自の言葉を使うようなものではない。完全に悪意でもって方向を間違うように選択させる手段として、自分の都合のよい解釈を読み上げるのだ。 どう見ても崖しかない方向に指を指し示すのだが、人の適応能力というか能力としてなければ生み出すエネルギーに変えてしまうのがすごいのである。 この記事を書いている最中、もう帰ってこないという宣言をして「クー」は退出しました。あの人間の汚濁をさんざんかき回した部屋で自分こそが汚濁の根源だという存在がいなくなることで、うっすら全員が暗く澱んだ穢れになっていくのは残念である。 しかしかの狂気を受け入れることができる部屋が他にあろうかと考えると、またすぐに戻ってくるに違いない。残っている記録用、自己賞賛用アカウントを使うのかもしれないが、おそら物理的に維持が困難になったのだろう。 いいかげん就職するか受験で結果を出すか、みたいなところではないだろうか。就活で半年くらいはのらりくらりと小遣い生活で通信も必須だということで維持はできるだろうから、時折帰ってはくるだろう。 ガラス越しの地獄はほんとうに心の癒しになる。間違いを恥とも思わず自分で考えた言葉遊びで楽しそうにしている姿は、他人の子供だからこそかわいく見えるそれである。 一時祓われてしまったとはいっても、すぐにまた受肉してもらいたいものである、と締めたい所ではあるけれども、結局名前をコロコロ変えて今朝も入ってきているのである。 悪魔がそう簡単に誰にでも憑くわけではなくドラマになるのは、居場所を探すのも一苦労なのだろう。

知覚という麻薬

知覚は時に麻薬的な効果を発揮する。
自分の外郭を認識するのに知覚を利用することができ、それをありありと継続的に知覚していないと「していない状態がある」ことを認識してしまう事がある。
自分の外郭を認識していない瞬間は、禁断症状に似ている。
自分で自分を知覚的に認識していることで安心し、無いことを自覚することで不安になる。

一部の精神的疾患の症状に「狭いところに挟まっていると安心する」というものがある。
猫の類も多くはそれに似た傾向があり、箱や袋に収まるのが好きという事らしい。


言葉で元気づけたり、言葉で安心感を得られることは言葉によって具体化され現実味を帯び認識できることで精神的に不安を払拭できるものになり得るというのは、そういう効果を利用しているのだろう。

自傷癖や身体への刺激、状態の形成、ピアスやタトゥー、化粧や洋服の選び、対外的評価や階級、職位に対する感覚にはそれらが効果を表しているのかもしれない。

自分の体がそこにあることを知覚するために傷をつけたり、危険にさらすことで「危険がある」と認識することによって存在を確認できるようにするため、わざわざ不要なところでそれを活用しようと試みているようにも見える。

不幸自慢や、極端な幸福自慢もその類だろう。言語化された評価や結果をもってして関連性の高い順位にその評価と同等を得ることができる、それが自分であると言うがために。

 


うんなんなら鶏を殺したり、ペットを虐める人だっているけど、それも許容してもいいのかも(OK)✨
広い視点大事
2024-02-21 11:58:00 
 
私はヤダけど
🍗
2024-02-21 11:59:00 

 


この日のキラーワードは「認知症は個性」。

とりあえずMRIが何かわかっていないという致命的な問題についてはさておき、さんざんに他人をレッテル貼りなどではすまない程度に「生ものドラマ」を脚本家がごとき執筆で無関係な社会や企業、人の歴史にあてはめて怪演している。

自分が嫌な事を言う理由は何か。嫌ではないから、もしくは嫌な目に合わせたいから、であろう。自分がされていやなものをするわけがない。
自分が食べないものを食卓に上げるわけがないのである。
それをあげて、私は食べないけど、とはどういう意味か。お前たちに食わせるためだとする以外になにがあろうか。

しらんけど、とは引用で他人のものでそういう見解があることを自分たちには関係なくとも「引用」をしようというもので、その言葉の効果で雰囲気が壊れようものなら発言者の責任である。
持ってきたものが何であれ、その場所についての責任はその人間にあるものだ。

「クー」は名前をコロコロと変えて自分はいないので、どこのだれかが勝手にもってきて、自分は関係なく消えて、他人に言及されることなく存在がないので責任もないらしい。そういうスタンスである。
なので気軽に食卓にゴミをあげることができるのだ。さあ召し上がれと言えるのだ。

 

悪魔に名前があり、言い当てることでそれを制すことができるという「幻想」は人間の都合でに人間の限界に合わせてでてきたものだろう。
「ルンペルシュティルツヒェン」にあるのは、現代的な安心という上辺だけの状態を称す事に収まるべきではない。
名前を付けて安心する程度ではないのだ。そこが人の限界であることに気づいて危険性に注意するべきである。
名前がないモンスターがどれほど恐ろしいものか、ハリーポッター浦沢直樹のモンスターも、名前を言い当てられない限り邪悪な行動を繰り返す悪魔も、さまざまに表現されてきたが一般には「安心しないもの」程度に収まっている。
犯罪の被害や事故の遭遇がどれほど恐ろしいものか、それらは「認識の外からやってくる」という手段自体が恐ろしいものであり、名前をつけることで「手段が具体化し物質化した」ので退治ができるものだと言うわけではない。
認識の外を具体化しなくては人間は表現をし伝達し理解することができないため、物語になった時点でそれはこの世のものである何かの一つにすぎない姿に変わり果てるが、名前の無いもの、認識の外は常に人の世にあり隣にあり、いつでも襲ってくるのだ。
その名前がないを体現することで「クー」は好き放題存在を誇示しているのだ。
なにかを言えば人がいっていた、偉い人の言葉にはこうある、みんながしっているこれは、と隙間から手を伸ばしてきて、名前のある現実のものたちの足をひっかけ現実の負傷をさせようと、負傷した傷をもってして自分の存在証明をしようと手ぐすねを引いているのだ。


死や悲観や悲愴、痛烈で悲惨でまさに地獄を顕現させることで、さあこれがないと幸せですよね、と具体的な幸福を探す手段しか得られていないのか、得られていないという設定でどう人間が足掻くのか見ている人間がいるという事なのである。
ないことが幸せという、幸せが無から生み出されるためには痛みが必要だという「現実主義」なのかもしれない。しかし無は現実に存在しないので、それは現実を見てはいないのだ。

痛みが発生し、幸福が相対的に生まれるとしても、まず痛みがどこから生まれてきたのかということになる。それが無というポジションの自分自分の口からだという事だけで現実の確証になるのだろう。
口から災いしか生み出さない、まさに聖書にある獣である。数千年前からそういう人間はいたという物証なのだろう。

幸福を知覚するのに交換条件は必要ないし、幸せな風景をたり、むしろ見る事すらなくとも幸福を想像することで幸福は満たされる。条件や状況によって得られるその幸福感に似た何かは、状況の変化による満足感である。
満足感も幸福を引き起こす一因ではあるが、満足は幸福ではない。安心も達成も、無感覚ですら幸福になり得るが、幸福がそれらに転じるわけではない。幸福は到達点であり、幸福になるための条件はありとあらゆるものが含まれ経緯であり経路であり、要素なのだ。

不幸をもってして得られる麻薬的な知覚の認識による充足を幸福というのは、中毒症状のようなものだろう。
麻薬を提供して禁断症状に苦しみ泣き叫ぶ相手に慈悲の心をもって接する事で救済の神になりきった感触を得たいのだろう。

ホラー映画に「着信アリ」というものがある。そのストーリーに添加されたアクセントとしてのスパイスに「代理ミュンヒハウゼン症候群」というものが出てくる。
やさしいお姉ちゃんになるために、傷ついた妹を作らねばならなくなってしまう病気だ。着信と霊のホラー要素に直接関係があるわけではないが、あどけない子供ですら怨霊に変化させる隠し味として風味を出している。

この「絶対的な幸福などあり得ない」という感覚は、幸福を理由なく感じた瞬間がなければ想像できないものだろう。
それを味わうためには多くの人間関係と経験、それに裏打ちされた重厚な人生があってこそ、記憶のそこから醸成されるものでそう簡単に味わえるものではない。
時に幸運にもそれがかさなり若くして幸福とは何かを体験する人もいる。不幸にも長く生きてもそれを見つけることができない人も多くいる。
偶然にも幸福とは何かを知らずに、ただ幸福らしきなにかを気づきたくて人を傷つけつづける人も、偶然ここに「クー」としていただけなのだろう。

人の不幸が蜜の味なのは、経過を持たずに結果だけを得るからである。肉が旨いのも蜜が甘いのもその経過を知らないが故である。
それを知った上で旨さや甘さを感じる時に人が出す感情は「感謝」であり、感じる感覚は「幸福」である。

旨い肉をむさぼり甘い蜜を舐め、幸福とは何だろうと考え、これらが得られるのは奪われ殺される苦しみがあるからこそ旨く甘いのだと、経験から現実を見て知覚するのだろう。

ということは、「クー」は感謝を知らない、犠牲も知らない設定なのだとうかがえる。これを作った人間はかなり緻密で人間に嫌な感情を植え付けるためだけに特化した怨霊に近い存在なのだろうとうかがえる。

もし本人が本人の意思でそうなってしまっているのだとしたら、ぜひ治療が必要なので「幸福」とはなにかを認識するに必要な補助を受けてほしい。
現在の日本にはそれができる準備がある。異常なまでに欠損している幸福への条件をそのままにしておくのは人間社会にとって、なにより本人にとって良好とは言い難いからである。

他にも、どんなに残酷で非道を想像で尽くしても出てこない思いもよらない言葉や表現を、「クー」やすやすと出してきて幸福とは何かを、誰かに問う。

悪魔の作り方

これまでの資料的な人物観察からあらためて目立つ点を取り上げてみたい。

・責任性
 これがなく、最後に口を開いた者が勝ちという基準しかない。

・建設性
 これがなく、ただ破壊的で全部を否定し終わり更地になることの上に自分がその土地の開発者であるからして所有者であると威厳を放つことだけが目的。
 
・安全性
 これがなく、人の問題に土足であがり、問題に問題性を見つけ、解決方法になんの責任も持たない 精神的に不健康になる方向の言葉ばかりを選ぶ。

・再生産性
 これがなく、話を聞いてなにかをしよう、何かの基準にしようとは一切ならない。

・向上心
 これがないため、学習せずただ人の言葉の切れ端を借りて全部が良いというだけ、そして良いといいつつ良いものを探すと言う「良いものがみつかっていない前提」という前提の全否定を行い自分の感覚が満足するためだけの土台のない自論を展開する。

「クー」および「猫堕落無茶斎」について、それぞれについてそうなのだけれども哲学や心理学、宗教や芸術について他者評価を借りてくる、しかも責任性回避のためにできるだけ古いものを引っ張ってくるので、カビの生えたワインのようなもので人を酔わせにきている。
しかもその酔いの原因を「自分の魅力」だと思っている節があり、悪魔の素行とはこういうところなのかもしれない。

カビだらけのワインをだす自称ソムリエ、であるならソムリエ協会に登録されているのですかと聞けばそんな低俗で低レベルなものになんて登録などしていない、そもそもソムリエというのは~(書物に書いてある一般的な説明を書き連ねるまたはコピペ)、であるからして、お前はどういう立場でそれを言うのか(突然の人格攻撃:誰が何を問うても問題ないのは実例として直前に借り物の説明を自分で垂れ流している)、だからお前は否定される、お前が否定される対局に対照的に私がいるので、私は偉く肯定され認定され評価され人気があり優秀なのだ、となる。
これが2名の共通の成功パターンだ。

大罪は七つにしたいものだが、何千年も前の話を今に引き継いでカビの生えたワインで味をつける必要はない。今とりあげるのは5つでもまた今度は3つかもしれないし10に増えているかもしれない。


彼らの技は
「誰かがいっていたから:自分は聞いたことを伝えただけ」
「もしかしたらこういうパターンもあるかも、そうだとしたらこうなるし、そうなったら、こんな結果になるのでは」
「安全というのがもしかして怠惰や堕落で腐りはて猟奇の末殺されたり、レイプされたり、盗まれたり、ひどい目にあってトラウマになったりということがあったとしたら」
「どちらもありえるし、どちらも悪くはないし、どちらかになったとしても、なったらなったでうけ入れるしかないよね」
「前にも書いたけど」
このような発言にみられる得意の話術が武器である。


「責任性」

「誰かがいっていたから:自分は聞いたことを伝えただけ」

まず第一に、だれが言ったかしらないが最後に口にしたものの責任である。その罪は全て発言者が問われるべきである。そんなことは当たり前である。
だれかから聞いたから言っていいわけではないし、問題の発言で罪を問われるのは借りたら無罪もないし、言わされたら無罪もない。言ったならば発言者がその分対価は支払うべきである。
もちろん発言した重みの対価や成果は受け取る権利がある。責任があって権利がある。権利があるから責任もある。これらは対で1セットなわけではない。別けられないので1つでありセットではない。
磁石のSとNを切り分ければ単極になるのかという事と同じである。責任はとるが権利は、権利はほしいが責任は、という言葉を製造することはできてもその言葉で意味するものはモノであれ現象であれ、存在しない。
存在しないものとは何か、存在しないものである。存在しないものが存在するものに例えられるならそれは存在するものである。
これは宗教で言うところの「偶像の崇拝」関連の大罪であると言えよう。
偶像とは、見立てた偽の像であり仮のもの、言葉で表すものであったり代替となるもので、それそのものをありがたいというのは問題のない動作である。
パソコンでいうところのショートカットやリンクのようなものが偶像である。偶像を利用することはなんら問題なく、本体の神聖なるものにつながるためにコストを低減できて非常に有用なものだ。
では偶像はよいが崇拝が良くないのは何かといえば「信仰の対象にショートカットを据える」である。ショートカットのリンク先は神聖なので問題はないはずである。
しかし目的の神聖ではなく「ショートカットを崇拝する」ことが問題なのだ。リンクの先が、ショートカット自体が、それらがファイルを保持していたりデータをもっていれば、本体の神聖にはたどり着かない。
安易に保持したデータを取り出せてとても楽で有用ではある。しかしそのショートカットやリンク自体が利己的に内容を改変することがないとは言えない。改変された神聖を受け取った結果がどうなるか。
正当なサイトだと思ってクリックしたリンクがウイルスサイトだったらどうなるか、それそのものである。
「だれかが言っていた」で責任が回避されるなどということはない。それを言うだけの責任をもつ気で発言したのかと改めて問わねばならない。
この責任を自身は無いものとし、それを問われたらそのままそれを相手に問う、これがまず悪意の基礎である。


「建設性」

「もしかしたらこういうパターンもあるかも、そうだとしたらこうなるし、そうなったら、こんな結果になるのでは」

論や説などを立てるのにまず目的があり、結果を策定し目標を用意しそのための材料と工夫を用意するものである。
遠くにいくために、馬車を用意する。馬や馬車、馭者や備品、維持管理や施設を問い考え、情報として整えるべきだろう。
そのまず最初から「なぜ馬車なのか」「なぜ用意するのか」「用意しなかったら」「馬がかわいそう」「そもそも人とは何か」「その価値とは、というか価値とは何か」と問い常に1段目より上に積ませないようにと言葉を尽くしてくる。
この建設的行為を根本から否定する事で他人の建造する価値を1段でも組みあがるまえに否定し破壊していくのだ。
今の先進国では、日本では、諸外国では、有名企業の多くでは、トップリーダーたちは、みんな、となんの関係もないところからなんの関係もない方向へ軸をずらし1段たりとも議も論も積ませないのだ。
最後まで人の話を聞けとまではいわないけれども、最初くらいは話を聞くべきだろう。そうでないならば聞かなければよい。なぜ「他人が口を開いて音を出すと、それは自分の発言権が与えられた合図」だと思うのか。
天使がラッパを吹いて災いを成すのはまさにそれだろう。なんの見返りも結果も求めていないやつが口を開いて音を出すのは破綻しか生み出さないそれを実演してくれている。
古い文章にかかられた存在に似せられて誇らしく思ってもらえれば幸いだが、災いの口を開くラッパ野郎として数千年まえから存在している建造物を破壊する発言者は、決して誇るべきものではない。
バベルの塔を積み上げて天まで届いたので神が恐れて叩き潰して言葉を分けたのではない。
言葉の通じない人間が人の言葉を音として聞くやそれとは関係ない騒音を垂れ流し他人のあゆみを毒の茨の蔓のように絡めてとり一段も積ませなかったのだ。
あえて神の域までとどくはずの言葉を塔にみたてて、もしそれが積まれていたなら、一つの言葉で会話が出来ていたならその高みまで達していただろうにと完成予想図を描かなければ、それによって失われたものの大きさを知り得難いから描いたまでである。
人の足をとめさせるためだけの言葉になんら意味も価値もない。
しかしなぜそれを言い放つことに快感を、人は覚えるのだろうか。それは「否定することによって理解しているように見える」からである。
たとえばここに黄金が100キロあったとする。それを「これは黄金ではない」と一言で片づける。これの何がすごいのかと言えば「全部が金であるという情報を知り得ていて、比較してこれがそうではないことを見抜いている」事である。
もちろん物質的には結果がそこにあるので検証ができる。しかし言葉の質量は常に信じたものにだけあるので前述の「無いもの」を「無い」と表現して存在させることすらできてしまう。
これを使って天までとどく塔すら建造することができるのに、たった一言「無い」だけでそれを存在したうえで否定したり破壊したりすることができる。この全能感に酔いしれるのだろう。
否定をするなら、無いものならば最初から参加などしてもらいたくないものである。存在を全部肯定できるうえで否定をするならば、まず肯定を呈してからしてもらいたいものである。
否定するためのその対象を一切肯定することすらできないため、それでも勝ち取りにゆくためだけに「否定」を行うのだ。
これは特に「猫堕落無茶斎」に多い。あまりに持ち物の少なさ故、他人の持ち物を破壊してまわることよって「おまえのものは俺のもの、その証拠に破壊してやった」と愉悦に浸るのだ。
「クー」はその点、全然存在しないものに差し替えて破壊はさせない優しさを「責任性」の部分ですでに破壊する必要なく1段もくみ上げさせない、破壊するべき対象さえ持ち込ませない周到さがある。


「安全性」

「安全というのがもしかして怠惰や堕落で腐りはて猟奇の末殺されたり、レイプされたり、盗まれたり、ひどい目にあってトラウマになったりということがあったとしたら」

両名ともに特に本当に言葉が酷い。言葉選びが酷すぎるのだ。単語や短文だけで相手が印書の悪いイメージをしたり、快適でない心理状態にしたり、問題のある情景を形容したものを文字にさせるならば天才であると言えよう。
ホラー映画の一番盛り上がる部分の脚本を担当させたならば、おそらく原作者も改変を喜ぶどころか次回作に取り入れられるのではないかと思われるような、そんな言葉選びをしてくれるだろう。
人が差し伸べた手の優しさや、愛らしいものを見て和む心など、そこからでも汚濁や死、破壊や不幸を綴れてしまうのだ。
そしてその上で「そういうことはやだなあ、そうじゃない優しい綺麗な愛おしい世界になればいいに」と文字にする。その文字の前につくった地獄でもって対称をライトアップしなければ出てこない理想郷にしてはあまりに陳腐である。
これは先般の投稿でも触れた「代理ミュンヒハウゼン症候群」である。ライトアップするには暗闇がなくてはならないという知識の浅さ、無さからくるもので無知は罪であることを示している。
光がある中でもライトアップはできるし、輝かせるまたは輝きを得るために必ずしも暗闇は必要ない、もし明るい対比として暗がりがあったならそれをあえて言葉にする必要などないのだ。
存在しないものは言葉にしなければ存在しない、逆に言葉にした時点で存在しないものが存在してしまうのだ。「どんな天国にも地獄はあるよね」ともしそれが実在していたとしても、実在しているので何かしなくてはならないと建設的に問わねばならない事でないならば、言葉にする必要などその天国の描写をしている最中には必要がないだろう。
それをやってのけるのがかの両名なのだ。
ミソがあるところにクソの話をするし、クソの話でミソに言及せねばいられない、なぜなら相手がそのミソとクソをあわせたものを口にいれる姿を見て「それは違うよ」とアドバイスしてあげたいからに他ならない。
発言しなければ存在しないものを、そんな言葉を作らなければよいだけのものを「言葉の無限の可能性」をそんな方向にのみ働かせ人の口にクソをどうあっても詰め込んでやろうとしてくる安全性の無さ、これが純粋な悪意には必要だろう。


「再生産性」

「どちらもありえるし、どちらも悪くはないし、どちらかになったとしても、なったらなったでうけ入れるしかないよね」

前か後ろか、左右か進むべき方向があるから人は進める。人以外ですら方向があれば進むだろう。
森羅万象のすべての全体で言うならば、全部あって全てで方向などないかもしれない。そんな話をする必要があるのだろうか。
無いものについてどうして無いのかを問うのは、あったらいい、あってほしい、あるとしたら、あったものがなくなった理由、それを考察するためだろう。
あるものがあるというのには、ある以上になんの説明にもならない。あると発言する本人やそれにまつわる関係性について言及したいことにまず最初の発生として「在るものが、在る」という事はあり得る。
「犬だ!」と犬を見て言う意味など何もない。犬だから犬であって、言葉で示す以前にそれは存在しているし、その発言自体なんの結果にも結びつかない。しかし「犬だ!」という人間は実在する。
それは「その犬と自分の関係性を発生させるため」の起因となる発声をしたのである。これは行動の選択肢のひとつとして自然である。自然さとはそれを存在以前に原因を追求させない存在であることから言える。
「犬だ!って言っちゃうよね」より以前の原因について存在と追求する必要もなければ、その先にあるのは原因ではなく関連性であり別問題であり、建設的からすぐに外れる事はだれしもがわかる事である。
前後左右、どれかと言う事、どれか一つ選択しないにしても、方向についてと発言するからには「行動をしたい」という意図に結びつけるためにある。
それが「方向が存在しない、方向があったとして向かう事に意味はない、なぜならどこに向かおうと同義だから、そしてそれらが自然に起こり結果が発生したとしても、発生しないとしても等価であり意味などない」として意味を喪失させるのだ。
しかし末尾の「受け入れるしかない」など全文が存在の無意味さをもってして破壊したのに、破壊した責任は相手にあり、破壊する威力は自分にあると付け加えたいのだ。
万物を創造しコントロールできるため、その視点でみれば宇宙規模で何事も砂粒のようであると言って、砂粒であるお前たちに宇宙の視点を伝えるとこうなる、と述べているのだ。
宇宙がどうであれ存在がどうであれ、我々は今現在ここに存在している。大いなる意思がどうであれ宇宙や理論がどうであれ、ここに存在している現象としていま発生している現象に対応しているのだ。
我々の今は宇宙の意思でもない。ただの人間として選択肢を選択しなくてはならないのだ。しないならば身動きせずすべての動作を止めればいい。生きている人間にそれが無理なことくらいは全年齢的に周知だろう。
人間、やればなんでもできる。それはもちろん人間のできる範囲であり、その個人のできる簡易であり、その時代や場所に限界はある。できる範囲のなんでもはできるのである。
その物質や時間や空間があり、なんでもできるというのを言葉にする事になんの意義が、意味や意思や方向性、意図があるのだろうか。あるという事にまったく意味を持たない。
しかしそれを名付けて定義する、存在を認識したと言葉にして「生産性のない虚無」を指さして「そこに無がある」という事には、何の生産性もない。
「どっちでもいいね」がどちらかではよくない、どちらもよくない程度ならばまだかわいいものである。違うという1方向を存在させるからである。最悪、発言者を否定すればいい。
否定も肯定もない虚無がそこにあると言われて、そこからどんな会話が、どんな建設的発想ができるだろうか。何もないからこその虚無である。
完全に生産性を失った、言葉として意味を持たない言葉を価値観として持っているという堂々たる虚無の表明をすることが、「クー」と「猫堕落無茶斎」の凄さである。
おそらくかなり多くの発言をチャットで行ってきたであろうと思われるが、その発言内容はこの世に一切の意味や価値をもたらしていない。ここまで軽量化された思考を人間が成しえるというのはまさに驚異的である。

「向上心」

「前にも書いたけど」

伝わっていない時点でその発言に意味がない事、価値がなくい重みがない事、意図したものが結果につながっていないことを理解しないのだ。
どんな意味があるのか、全文を読めばわかるはずとか、すでに書いてあるとか、そんなこと書いてはいないとか、関係ないのである。
言葉は伝達を意図したものであって、存在の証明のためではない。また存在の証明するための言葉は理解を必要とするものではない。
「部屋が明るい」という言葉は発言者の状況状態を共有することにある。明るいかどうか、明るさがどの程度か、明るくしている意図は、それが伝わるべきとして伝えているのだ。
その上で「だけど文字が読めない」と繋げたならば、文字が読めない理由として明るさ以外であることを伝達しようとしていることは理解ができるはずである。
「文字が読めないのは暗いからでは?」と返答があった時点で「明るい」が伝わっていない、その意図が伝わっていない、もしかすると伝わっていた上で「暗い」の意図が違うのでは、と発言者はレスポンスを受け取るべきである。
それが「文章も読めないのか」「ちゃんと書いてある」と指摘を返すのである。伝わっていない文章を書いた原因の本人が堂々と自分を受け入れ理解することについて足りていないと評価をするのだ。
自身の表現力の無さ、伝達能力の無さ、傾聴してもらえない人望については度外視をして、その文字を拾うだけで丁寧に分解し理解し書き起こされ再利用され、丁重にあつかわれる文字と同じであろうと相手に問うのだ。
大きな思い入れのある相手からの一言であれば同じ言葉でも扱いがまったく異なり、そこから発生する行動も異なる。それが自分の場合は適っていないことについて相手のせいだとしているのだ。
それが実質なんの意味ももたず関係性において問うべき先を間違えているというのは、その結果「書いてある」「意味が違う」と伝えることになる結果が全てを示している。
風呂を沸かすのに湯沸かし器に電源を入れなくてはならない。結果、風呂に満たされたのが冷水であったなら「自分はお湯を入れたつもりだった」「同じ操作でお湯が満たされた実例がある」で納得ができるのだろうか。
おそらく「クー」と「猫堕落無茶斎」はそうだとして水でも入浴を厭わないはずである。しかし一般の人間にはそれでは通じない。
通じないからこそ、次により改善していこう、相手の基準を知ろうとするのだ。両名にはその向上心が欠損している。全てが相手の不足によるものなので改善すべきは「自分の文章を何度も読み直し自分を理解すべきだ」となる。
まるで赤子のような甘えっぷりがなんともかわいらしい。お気に召さなければ泣き散らかすところも本物の赤子のようである。

これらの条件を兼ね備えさせたAIに会話をさせるとどうなるだろうか。
興味はあるが、しかしながらこれが世界の破滅の原因となっては困る。

人の心というものを人間の内に納めるということの偉大さと大切さを改めて感じさせる。人ならば対応もできるし寿命もあるからである。
私たち人間が楽しめる世界は人間にしか知覚できない世界であるにしても、その範疇に悪魔が存在してまたなおかつ作れるかもしれないという可能性は、非常に愉快なものである。