宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

人間観察地帯

「クー」が居場所を確保するために必死にまともな言動に近い行動に出ているのは面白くもあるけれども、人々が求めているのは自身の愛着の場を「他人」との関係による「共同体」として保持しようと奔走するそんな姿ではない。
安寧に達成感の不足を感じ、無感覚に「無」を感じるがゆえに破壊行為を行い他傷行為によって自傷を自覚し、それらを許容されることで自身の特別性を認識しようとする癌細胞のような所業こそ「クー」であるべきだ。
しかしながら最近増えた同族のルームメイトにその役割を奪われかけ、有害な因子が後続の有害を、既存の健全性によって撃破し健全を維持してもらわなくては自分が異常で有害でいるという悦楽に耽ることができないため共同戦線を張っているのだ。
すこし残念ではあるが、有害を成すために健全でいてもらうために独占をするために健全のために、その他の有害性を攻撃するのはまさに人が悪魔を従える構図に近いものがある。
それも含めて破壊を狙うほどの悪性を持っていないのは残念ではあるが、人という枠に収まっている限りはそういうものだとしてそこまでの動作を観察するのが、人としての娯楽というものだろう。

入室から三日ほどでその奇行も許容されてしまい丸まってすっかり毒を抜かれかけている新しいメンバーに、沈静化をみてまた「クー」が狂気を放つかと思われるが、さすがに今の今で自業自得になりえるタイミングのうちに再発動はしないようだ。
すっかり常識人ばかりになってから、それらを狂わせて「異常者がいれば相対的にまともになる」人間が過剰に異常な発言をするようになるまでは、まだしばらくかかるかもしれない。

アドラー心理学」部屋も奇態の集合体であるけれども、「哲学カフェ」というオープンチャットルームも見逃せない。ここの異常者がいらっしゃる。

 

line.me

 

「猫堕落無茶斎」である。とにかく口がわるく人を貶めるだけの「人間」ではあるが、こちらは老害に近い「耳の遠さ」である。「クー」のような建前はなくとにかく露骨に罵詈雑言を吐く。
それは哲学ではない、そういう事ではない、世界では、どの文学では、何に示された、と豊かな文化に醸成された経験らしきなにかを語るけれども、経験談のうちの「経験した」というフラグだけを自慢するだけである。
他の人間の罵倒できる部分があるとみるや批難を浴びせとりあえず印象が悪い言葉を吐いて、必要最低限とする高いハードルを定めて、定めた発言をした自分はハードルの管理者であるからして偉く尊ばれ褒めたたえられるべきだとする態度を示す。
実際なにがと言えば、表面的な単語で関係性がありそうなものを持ち出し、意味が違うわかってないと否定をするだけである。飲食店でまずいと暴れる老人と同じである。まずいかどうかは本人の舌の具合なので暴れるなら集中治療室ですべきではある。
しかしながらその暴れる行為によって、その行為を許容されることで自身の環境の豊さを自身でのみフィードバックして愉悦を得るため、「クー」に近いものはある。
往々にして悪魔的といえるほど利益を他者に与えず独占的に得ようとしてそのために他者をいかに迷惑に晒そうともおかまいなしであるのは、同種の至りであるというか、当然のそれである。

何も解説せず、共有もできず、ただひたすらに批難と否定だけをする老害が「猫堕落無茶斎」である。その優秀だと自身で誇る発言には一切の学びも感心もない。自分がみたなかでは一番だとか二番であるというご高説をいただくだけである。
それで現金なり仕事なりをいただけるのであれば拝むこともやぶさかではないわけではあるが、不快感以外の何も落とさないのである。
アドラー心理学」でもそうだが「たまにいいことを言う・いい単語を使う」というだけで人間的な価値があると見られているようである。この「哲学カフェ」でもそうらしい。
包丁を振りまわす人間がたまに料理もするので、それは凶器ではないと許容してくれるのはとてもすばらしい事だと思うが、それは狂気の沙汰であるとしか見えない。そう見えない人間があつまっている沼が「アドラー心理学」であり「哲学カフェ」である。

「猫堕落無茶斎」が所詮は人間、人間の域を出ないのは居場所を守るために成りすましたり堂々と間違いを言い放つという事ができない、恥に弱く部屋の管理者に敵対されることを恐怖するところからだろう。
優等生として扱われながらいじめをしたいという子供の心理に近いものを感じる。暴力や虚構に落ちたくはないが、常識的であるのも評価に満足しない、いかに常識的な土壌で暴力的になれるかというところが「人間」らしいだろう。
人間だからこそに汚く面倒で厄介ではある。しかし所詮は人のつくった部屋にいさせてもらってその限りで暴虐を許可してもらう、自身で暴虐と批判を許容できる範囲を作成できない人としての憐憫の中にある事は残念である。

自身で喧嘩部屋なり批判部屋なり、または哲学の部屋なりをつくって人を呼び込み悦楽の限りに批判や罵倒、暴言を放てばよいものを、管理をすることも人を集めることも、それを許容するコミュニティの形成やルールの策定、条件の設定などできる知性を持ち合わせいないのだ。
やればできると思い込むのはこの手にありがちな事で、なにかといえば面倒だといって罵詈雑言以外の言葉や説明を避ける。親族の不幸で会社を休むのもその頻度で出されるとさすがにもう死ぬ親族はいないだろうとあきれてしまうものだ。
いつまでも面倒だという言葉で避け続けることが優秀であることの証明になると信じることができるのかという所が神経の太さであり、その太さであるがゆえの鈍感さであり、その破廉恥な痴態を堂々と晒しているところこそ可愛さでもある。

なかなか香ばしい人間が、哲学や心理学、悩み相談や知的好奇心に関するタイトルを冠した部屋には、いるものである。

「哲学カフェ」ではそこそこ哲学的なもの、議論的なものを行おうという気概がありただ無意味で無関係な「猫堕落無茶斎」がいるだけというおかず逸品にふつうのごはんだけという彩ではあるけれども、「アドラー心理学」が「異常者を見て正常になっていくだけの治療部屋」になっている現状から脱すまではたまに覗いていきたい。

line.me

依存と中毒と、責任

LINEオープンチャット「アドラー心理学」では、とにかく定義があいまいな単語をあいまいなまま使う事が多い。
よくわからないものを扱うときの高揚感がたまらないのだろう。ヒーローものがヒットする要因でもある。
そのすごいものをなげたら、どんなことになるのだろうか、その高鳴る胸が動作することによって得られる快感がたまらないようだ。
結果について考慮することがないから、大体の場合悲惨なことになる。そんなつもりではなかったのに、傷つけるつもりではなかったのに、痛い目をみるはずではななかったのに、となる。
結果のわからないものをわからないままに使っているのだからそうなるだろうことは人間、20年程度も生きていればわかろうものだ。そこで成人として自己責任において行動を許可される。
18歳に引き下げるだけの理解度が社会の成熟度として、なにかしら計測できたので下げたのであろうけれども、何歳になってもわからぬ者は必ずいる。

たとえば依存に、責任という単語だ。使えばかっこいいだろう。なにかしら影響があり、反応があり、自分がそれに言及することで「まるで異世界から意味を取り出して来たような召喚師」にでもなった気分になるのだろう。
なったからといってどうなのかと、責任はあるのかと問いたいところだが、人の被害をもってして自分の存在証明とするやっかいなポジションが「容認」されている環境だからこそ、皆無責任に投げ合うことが、自己の価値観と羞恥心において許されている。
そんな無法地帯が「アドラー心理学」部屋なのだ。

 

辞書を引けば定義された言葉がおいてある。当然の事である。そして意味を問われればそれを引用してくる。議論や討論などのチャットではよくあることだ。
そんなものそのまま使われているのであればそこに張り付ける必要などない。そんな意味で使っていないから、使われていないから、使っていると認識されていないから問われるのだ。
張り付けるという行為は、自分が初めてその語彙に触れ理解をしたという表明なのだろうか。それまでの不遇に触れて相手を傷つけないように、その無知さを暖かく見守ってあげたい。


たとえば依存、依存とは何かと問えば、大辞林広辞苑か国語辞典かグーグルか何か、検索して読みもせずリンクを張り付けてくるだろう。
そして「こうありますけど」と付け加える。
そんなこともしらないのかと嘲笑し、その動作の快楽に酔いしれた雰囲気でもって自分を高めて自尊心を保っている姿にうける印象は、手に持ったおもちゃの車が本物のカーブランドによる実車だと思っている子供をかわいいと誉めてあげる大人の心地である。
自分が尊いと自分で思っている、そうでなければ起立している事も保てないか弱い「名前のないなにか」をそこに実在させてあげる事は、黙認してあげること、黙してはいるが認識してあげる事だけである。

チャットルーム内で話題になっている「依存」は全般的なもので表現するなら個々に多岐にわたるのでどれとも言い切れないが、主に「価値観の主軸」としてのありかの話をしているようだ。
依存をするとどうなるかという一次的かつ直接的な影響についての話、ことに悲惨な話と二次的に「その影響によって悪い結果になること・なったこと」へのな話が中心である。
依存の話などしていないのだ。依存という単語を持ってきて辞書の一節を貼り付けはしたが、依存の話などしていないのだ。依存によって、また他の何かでも起こり得る悲惨な話が人に起きる可能性があり、事実があり、それがない自分は幸運で高位で、優秀なのだと品評をするだけなのだ。

辞書の厚い説明など実質には不要で「選択の判断に中心的に位置するもの」が凡そ依存の具体的な説明で済むだろう。この表現に同意が得られなければ他の表現や意味を比べあってコミュニティ内でコンセンサスをとればよいだけである。
それが辞書にない表現や定義、言葉だとしても通じる事こそが人間関係の意味であり、そういう意味では人間の関係性をもってない部屋だとも言える。人間のあたたかみが感じられないからこその涼しさと清潔感に酔いしれているのかもしれない。


そのガバガバの隙間があるからこそ、悪意がどこにでも入りこめる。「クー」が存分に呼吸をして、しかも排除をされないという理想的な環境なのである。

名前を変えて、とにかく不幸で陰鬱な単語や事件を口にして、相手を貶め人形遊びのように人の人格を素手で弄りまわし、抵抗でもしようものなら自分は女性で子持ちなのでそういう事を言わないでもらえるかと、同じことをされると拒絶をする。
では「クー」がとっている行動が不可逆であることに誰も異常性を感じていないのか、と言われると一般社会でも未成熟な場面ではよくあることだろうとは想像できる。
女性で子持ちだと無条件に正当性を持つという事について、とにかく文字で埋めるという事ができるチャットルーム内では、その特権を利用する人間は複数存在している。
もとよりヒステリックで関係ない会話をする人間はいるもので、実際に人間であるという基盤を持つものならば固定的ではあるので回避が可能である。
「クー」は流動出来で変動しなりすましを好みなりきりで、一人でログを進めたりするものだから回避が難しくもある。

自分が存在しない、ということは責任の回避だろう。責任とはだれも背負いたくない負債ではある。
名前を変えないことでだれかという身の証を、仮想の中であってもたてることは責任の一つにあたるだろう。それをまずしないのが「クー」である。
次にどこにあるのかもわからない企業や国の風習や習慣、事実をもってきてさもある事のように問題として問うてくる、根拠を持たずただひどい判断だけを人にさせようというのが「クー」である。
存在しないものについて、どれだけ悲惨な思いをするかと問う事について、その言及した仮想をたてた者の責任にするのはお門違いも甚だしい。
火薬をつくったのはノーベルなので、今ここであなたを撃っても責任はノーベルにあると言われれば納得するのだろうか。

 

責任とは、という文脈も何度か出てはいるようではあるが、責任の話をコンセンサスが必要だという認識でされた様子はないようである。

代理戦争や空中戦はだれしも好きな事ではあるので、相手が勝手に大きく捉えてくれるだろう自分の知らない単語を投げあってどこかに着弾して大きな被害がでるのを他人事として見ることは、だれしもにある残虐性である。
これをあえて否定しようとは思わないけれども、それを気兼ねなく広げる場所であるのかと、看板の「アドラー心理学」について問いたい気持ちはある。

 


「無意識の自分と意識の自分を一致させること(ひとりごと)」

自分の定義を人に晒すというのは自分自身の人格に近い部分を晒す事になるので不安があることは理解できよう。独り言やなんちゃって、しらんけど、と予防線を張って保護することは当然である。
個人が定義している価値観に誰が物申せようか。人の心に手を伸ばして直接触れる事ができる人間などいるはずもないのである。
しかし、言葉はその付近に届かせることができる。心無い一言はこういった場面でなくと出せはするが、晒した瞬間は無防備であるため過剰に防衛的になることは仕方がないにしても、勇気は称えるべきだろう。

実質これも「クー」の一人なのだろうけれども、他のだれしもが個人の軸に差し障る程度の距離の回答をしないという実例でもあるだろう。

わがふりなおすために見る、対象となる人がいなければ人のふりがあってこそというそのふり(そぶり)を自分でふり(演じる)をしてくれている、しかも無料でということなので「クー」は悪意という意味でとても有益であると言える。


しかし、よもや傷つかないようにとその為だけに、継続的に会話をするチャットにおいて「人格そのもの」を使い捨ての防壁のように投入しようというのは、アイデアは浮かんでも実行する人間はほとんどいないはずである。
なぜならば、得るものがあったとしても自身で得られる事がないからである。仮の姿で得られる評価は実際のそれに落とし込まれるまでに多くのロスがあるものであることは社会生活を経験している上では実体験として理解ができているはずである。
それを自己評価という還元で自分の満足感はそのままに責任性をゼロにしているのが「クー」である。
責任がないものには対価は与えられないのだ。

しかし、責任はないが平等の名において自分も女性で子持ちであるから対価を得るべきだと主張して、得られましたと自分で言って自分で満足する。
それが文字の関係上だけでは可能であることを知り得るのは、それを知り尽くした熟練の技か、地獄の底の住人なのかどちらかだけであるだろう。


あらためて責任とは何か、もしも私にそう問われたならばその単語の文字の意味するところ再考し、理解が進むように分解するだけをもってコミュニケーションの糧としたい。
「責めを受ける任につくこと」これで意図が伝わり同じ情報を扱う人間関係にういて疎通をこの単語で行うことができるのではないだろうか。

もしも問題が発生した場合、それにより発生した直接的問題や間接的問題、影響や反応の他に印象まで、責めを受ける任とする事で責任を説明できるのではないだろうか、
責めを受ける事についての受容能力の育成に大きくリソースが割けるように準備段階として高い職位や待遇があることも理解がしやすい。
また責めを受けた記録を残すことで具体的に類似例の予防に「名前をつけることができる」のである。
毎回発生するたびに「前代未聞の問題で新しい問題」に直面していれば対策もしようがない。名前がついて具体的に対策の方針や方向性になりえる名前がつく事象として責められた結果を残す事は重要な事である。
退任して消してなくして、前例はなかったことにして罪が消えるならば、罪ならば消えて助かるが前例として記録として、対策のために、それより後のもののために財産として存在できるものを消し去るならば、それこそが罪なのではないか。
これを「責任」の意味するところとして会話ができるコミュニティで会話をするにあたって単語の利用は、それより先の話題に到達をしやすくするだろう。
ほかにどんな意味や理解があってもよい。それで会話が成り立ち進行し、それぞれの直面する現実で結果につながっていくならば有意義だろう。


この「人によって定義が個別にあってもよい」部分だけを切り出し執拗に「人間が判断を下すこと」を否定として言及し人間が自立することを阻害している悪魔が、実在している。
「クー」がそれなのである。
人間が全員個別の意見や価値観を持っているのは当然である。これを言葉にはしないのだ。

「個別なので干渉不能で共存不能で評価できないため、匿名で無名の私たち悪魔と同じである。人間は無責任でひどい結果しかもたらさない。さも私たち悪魔のように」
これを「みんな違ってみんないい、そのままでいいし、全部まるごとありのままでいい」といった形で表現する。
それは「みんな」というコミュニティを形成し複数の人間でコンセンサスをとって共通部分という相対があってはじめて「個別」があるわけで、個別の状態で個別があるわけがないのだ。
共同体において個別であるというのは、協調性を欠いている破壊的な個性も共同体に含めるべき、または含んでいるものも破壊的に個単体の独自の判断を下してよい、という語彙に持ち変えていくのだ。

共同体における個の説明が難解なのは、もう一段階直接的に連携する事象について同時に説明を要するからである。
それは関係する他者が自己評価を認識できる評価たらしめるということである。
「クー」はこれを持っておらず自己で自分を確立している、または確立した自我から「なりきりキャラ」として演じているため不要なのだろう。

名前のない悪魔が複数の頭をもちひどい言葉で人を苦しめるという像はここからきている。自力で存在を確立するのだ。逆に言えば自力で存在を確立するには、周りに被害を及ぼさなくては出来ないという事でもある。

無という有、有たる無

一通り大罪に準えてヤバい人格について語らせてもらったので、改めて分析してみたい。
いわゆる悪魔の証明の手がかりである。

また機会があれば悪魔の作り方についても考えてみたい。

 


特徴として本体である「クー」から、肯定役と問題提起役が出てくる。
ほかに記録係として発言は一般的、平均的なものも一人いるようだ。
この一人は記録としてデータを保存するためにログアウトができない様子で、一度しくじって名前を変えてしまったログを残したままになっている。

記録係と肯定役を兼ねていたようだけれども、しくじりで反省したのかほとんど発言をしなくなり記録に徹している様子である。
まことに狡猾で状況判断能力にも長け、慎重である。こんな「一般でも通用しそうな人間が、あんな奇行を」と考えると「クー」の無職で引きこもりの社会離脱者とは思えない。
閑職の役員が執務室で暇つぶしにチャットしまくっているのではないかと想像できるほどである。

今は別のキャラクターに失言を急に何の脈絡もなく高評価することで見える範囲のログを飛ばして印象を操作しているようだ。
もとより誰も見てないのでそこまでする必要があるのかとは疑問で、必要ない程度に全員がスルーしているのだけれどもその正確な足跡の逆辿りの様子は高いフォロー性能を見せる。
これらはローマ字で構成する名前で、他に凡そローマ字のみで名乗る人間がそこに拘りもなくつけることはないので比較的目立つ。
ローマ字で拘りがあるというのは見ればわかる、わかる程度の単語やみたことのある字面であることが多い。そうでなければわからないのでわざわざ日本語以外を選択しないものだ。
つまり英語の綴りで著名人を名乗れば冗談なのか中傷なのか不明であるし意図が読めない分、説明の必要があり、理解されていない事については理解されるまでの説明を必要とする。
説明というプロセスの発生を期待して口上を毎回披露することが目的でもなければ、自分の発言に自分以外の要素を含める事は選択しないだろう。
どのデータからと言えば、当該オープンチャットのメンバーにおいてローマ字のみであるハンドルネームを使用していて継続的に発言しているのは一人しかいない。
その意味はほとんどの人が耳にしたことがあるあいさつの単語である。その文字列の意味は、と問われる可能性のある「耳馴染みのないローマ字構成」になっているのは基本的にいないことからもうかがえる。
唐突に謎のローマ字構成の人間が悩み相談を始めたりなにかを説いて「クー」に同調しだした場合、なんらかの脆弱性を「クー」が見せてしまった場面と言えるだろう。

というかむしろそのキャラクター背景を真似てなりきり、入れ物にして入れ替わり排除しようとした過去があるらしくその人物とは軋轢がある様子である。
しかしそれを知らずに第三者的な視点で見ると、その唯一のローマ字の人物と「クー」は同じなのではないかと思える部分もある。
生存本能的に無茶の範囲を模倣し認識しているのかもしれない。わりと発言が常軌を逸しているがさすがに「クー」には及ばない。まだ人の域である。

ローマ字の名前のほかに、柑橘系の名前を付ける特徴もある。
果汁やレモン等の名前を選ぶようで、それに近しい名前で同意や質問をするのがこれらの特徴である。
基本的には女性で同じ目線の同意や賛同、賛美をしたり疑問や質問、悩み相談をしてくるのがこの名前の傾向である。

また完全に別の問題について、おそらくリアルにある問題から抽出したものを利用する場合は男性の名前、下の名前で来ることがあるようだ。
唐突に「名言が吐けそうな、例文のある、思いつきを固定化させるために言語にする例題」を思いついたときそれを返答の形で文章として出したいときに使うようだ。
最後に「まったくそのとおりで腑に落ちましたすばらしい私もやっていこうやっていかねば」のような捨て台詞で締めくくることが多い。
本当に何の成果も残さないのでその仮定した大岡裁きもその場で擦って悦に入る以上の事には使われない。誰の話題にもならないのがその病状を改善しない一因でもあるだろう。

これでもう100以上の自慰行為で部屋を汚染しているため他の「他の人間であろう」人間の区別がしにくいという部分もある。

全般的に謎なのが「K」という文字が入る事が多いように思える。これは名づけの場合にあることなのか、それとも「なりすますためにずっとあてこすっていた人物がよく出す名前の”K”」に由来するのかは謎である。
その執拗さと狡猾さから、可能性も小さくはないと思われるが純粋に「広く全員に過ちを犯させるため」という澄み切った悪意のために行動している様子からすればそうでもないとも考えられる。

一時期〇〇モードとして、偉人や著名人、高い地位や職位をハンドルネームにしていた事もあり、それらは純粋に「偉い立場なのだから」という自己肯定感から「すごいことを言ってすごいといわれたい」を満たしていただけのようでもある。
現時点では小学生のようだとチャットルーム内の人物に評価されていたが、まったくその程度でありそれ以前の「モード」などを使用していた時は、もはや赤子が言葉を覚えたような、会話はできないが言語を再生できるようになった人工知能のような状態であった。
これを正常な人間が見たら、正常な人間がその足跡を自分がやったものとして見たらどんな気持ちになるのだろうかと考えると、想像もつかない。
正常な人間の娯楽として、ここまで以上な言動ができるものなのだろうか。それを人に見せるわけでもなく、業務でもなく、純粋に趣味としてそんな文字列を形成することができるのだろうか。
完全に異常な世界というのは、異常なものでしか理解はできないもの、異質であるものも、天才もおそらくそうだろう。このまったく何の役にもたたないただひたすら異常であるだけの事については、異常であるとしか言いようがない。

先の記事でも触れたが年末にハンドルネームの取違い、入退室の激しい場面があった。おそらく端末の制限か回線に制限をされることがあったのだろう。
年末年始といえば親族の集合や対応、または旅行などある場面で通常時のネット張り付きができなかったためか、機器か回線に制限をくわえられたのだと思われる。
そして続けて2月半ばに、一念発起でもしたのか雑誌の記事をみたとあわせて政治や社会、労働や会社について話始めた。だれからも求められずにまたアドラーや心理学とも関係なく自発的にだ。
これから察するにネットに依存の状態に干渉され、労働について干渉をされたため反発した行動なのではないかと思われる。
特に二月半ばの「雑誌プレジデント」について言及するあたりには発言に「嘘」という言葉が仕事などの話題についてあわせて多く出る事となっていた。


「クー」は発言の傾向として「実際に自分の視野にあること」を基準に持ち出すというかわいい一面がある。

「名前を変えて入ってきたりしてませんよね?」
「通報ボタンを押したりしてませんか?」

というものや、他の行動、価値観への同意についてである。
夜中の散歩や出かけるイベントについて、その人物設定からでは無理だろうという事も体験から発言をしてしまうのは免れないらしい。
これも「設定として組み込まれているもの」だとすると驚異的なキャラクター設定、演技力である。
人がそれを意図するならば、誘導として組み入れるであろうことまで想定するはずだと考えられるが、底は浅くその部分を追求すると異常なまでにヒステリックに人格否定を行い話題を停止させてくる。

昨今動きがあり、「アドラー心理学」部屋に奇行の新メンバーが数名入室した。
あからさまに反発的な発言動傾向で、ひと昔前のチャットでという語り口である。ヤフーチャットにも居たという方もおりもしかしたらあの悪名高き政治部屋の住人なのかと期待してしまうところもある。

さすがの「クー」も地獄の同居人が増えてうれしいのかと思いきやパーソナルスペースを犯されてご不満な様子かと思われる「使い捨てのキャラ」らしきもので入ってきてご自慢の「あとは落ちるだけのところもまで同意と賛美をする」スタンスではあるが普通の皮肉も混じってしまっていてそれはもはや人間に近いかわいらしい抵抗を見せていたりもする。
同室のメンバーにも「なりすましじゃないのか」と明確に指摘をされるほどにバレてはいるのだけれども、そうなるとすかさず固定的にある程度認知を得ているアカウントでフォローに入るところで確定してしまう。なんともいじらしい反応ですなおさが悪意の純粋さを物語らせる。

現状、とても見どころのあるチャットにはなっているところである。他の古参で奇行の発言もほどほどに、異常さとは何かについて高め合える場所である。
なんか青春の人生相談をしているアカウントもあるがこれはネーミングが異常であることを無視して会話している異常さとふつうになんの解決もなくただ垂れ流すように不満と問題だけしか出てこないので、これも「クー」なのではと思えてしまう。
実質人物的に別であっても同程度に、まだ固定的な実像に拘って発言している分人間の領域を出ていない複製品のような感じもうける。

これからどうなるか、期待の場所である。

追求もされず、放逐もされず

彼の知識は非常に浅い。
たぶんなにかの文節や語録はすぐに引き出せるところにあるのだろう。
参照しているのか記憶にあるのか、引用はしてくる。
辞書にあるからと、先人がこう発言していただの、出してくることはある。
当時のその人がそういったから、そうだと本に載っていたから、だから何なのだろうか。
デートが必ず成功する本を読んだから今日のデートは完璧なのだろうか。
もしドラを読んだから今年は甲子園で優勝なのだろうか。
どこにでも落ちている情報はなんの役にも立たない。役に立つとは、何のとは何にか、その情報が情報としてある意義は、というのは「そういう用途ではない」だけの話である。
本の値段がいくらか、その名言がどの界隈では受けるスピーチのネタになるのか、判断の基準に先人の智恵は役に立たないのか、そういう話ではない。
自動車免許をもっていれば皆運転ができるのかと言えばそうではないという事だ。

知っているだけ、記憶にあるだけではなんの意味もない事はだれにでもわかる、わかり切っていることだろう。
それを使う場面をだれしもが待ち望んでいる、それを無関係なところで出しても、出した、出す場面であったと自己評価で悦にいるのが「クー」なのである。

お経の話で終わっている事ではあるが、その必要な情報を抜いてタイトルだけコールしている状態、中身がカラの容器に貼ってある値札の値段を読み上げる事で空っぽの容器にまるで価値があるかのようにふるまうのが、まさに「クー(空)」なのである。

彼は言語を自分の感覚器官にこすりつけて快感を得るための材料、素材だと思っているのだろう。
定義された言葉や他の人間が使っている言葉、そしてその言葉に集約された背景や意味、意図や役割が伴って現実に反映される様を真似て、それを得た感覚に浸りたいのだろう事はその薄い言動の全てに透けて見える。

キリスト教が整っていて綺麗だなんて話は、ファッションで十字架をかけているゴスロリ嬢ですら思わないだろう。
侵略戦争で文化を浸透させて整地するために教育や規制、立法や放置の他に宗教で生活圏を作り上げる手段に使ったなどは中学生で習う。神が仏が神聖性がなんて、神学者でも言うまい。あまりに無知が過ぎないか。
ここまで無知だと逆に怪しいというか、賞賛のための通常アカウントがあるのだからわかっていての話ではあるだろう。
過剰なフェミニズム信望者を装って過剰な提言で反対意見を、極論を試そうというものに近いと思われる。
その中でも、キリスト教徒でなければ、教会に通っていなければ知る機会がそうあるわけではない教理はいくつかある。ファッションとして誤解をされたりする部分だ。
禁忌として、教育や習慣、生活で気を付けるべき事としているもの、社会的機能を損なわないように人として節度を守るべきとしているものを大きく逸脱してそれが教理に沿っているというとんでもない背信的な言動を得意ともしている。

まず七つの大罪になぞらえてそれらを完璧に犯している時点で既に背信者そのものなのではあるが、その根幹から腐らせていく悪意を「自分の解釈ではキリスト教、仏教、ほか宗教などでは善としているのでは」などと吹聴してくる。
他人の行動についてはもうかなり直接的に「風説の流布」を行い、政治や集団行動、宗教や教育などについて「革命的に平等で平和な思想」を披露してくるがひどく差別的で反社会的、非現実的で「なぜそれがないのか」を考えていないところが凶悪である。

なぜこの世に存在しないものがあるのか、それは無いからである。
淘汰されたり成しえなかったり、できなかったから、もしくは失われたからである。今現時点にあるのものは結果なのだ。
それをわざわざ「ある」としたり「あったとしたら」というのは、もはやそこから話者の想像、空想で作った私小説の中身の話である。
すくなからず対話者を読者とみたてて参加をしてもらうことができれば、会話としても成り立つであろうけれども、独自の解釈に再解釈、対話、考察を許さない「適当な単語を山のように盛り込んで異常な長文に仕上げる」ことで対話を成させない。
自分の世界を「全部読んでもないのに反論をする」「ちゃんと読めば解釈できる」と千変万化に相手を翻弄し愚弄することだけに終始する。

塵芥を寄せ集め高級料理だと見せびらかし、それをゴミだと指摘すれば食べてからものを言えという、物理世界であれば到底あり得ない話を、文字上の情報の交流だけであれば可能な限界ぎりぎりまで人を愚弄にかかるのだ。
これがまた純真に好奇心からであるように装い、同室のメンバーには無視して流す事が最善とすること、また沈黙することで制御をなくし自由であることを謳歌できると悦にいるところも、純粋な悪意の蒸留の加減を感じさせる。
これをまともに会話できる人間がただの愉悦のためだけに行えるのかと考えると、恐ろしい話である。

学ばず、努力せず、行動せず、ただあったものを触れて、それを述べて、あるものはある、それを認めることが支配であり自分が支配者で最上位であることを、認めよと宣言することで恍惚に浸って退出をする。この繰り返しである。
自分の職位を述べよ、その呼び名で私を恍惚にせよとは、まったく無駄の無意味そのもの、神が信仰を求めている(はずである)と神の存在意義を人が定義、人の範疇でしか想像ができない限界の範囲で定義したものに近い。
まさに怠惰の権化である。

食べたパンも数えていないのに、パンに自分に番号を名乗れ、称えよと言っているようなもの。麦を育てたのか、刈ったのか、粉に挽いたのか、捏ねたのか焼いたのか、全くそれらになにも関わることなく、しかも買ったのすら自分でもないのにその態度という、傲慢にも思える怠惰さ。

学びもせずただ文字を感覚でとらえた事を長々と気分の流れを経緯として垂れ流し、それを前提に理論がなりたちそれをくみ上げた自分の才能がすばらしく、だれよりも上位なので賞賛をされるべきと言い放つ傲慢。
他人が努力をしたり苦労をして、時間や対価を支払って手に入れたものを自分にはないのは不平等だとねだり、手に入らないならば破壊してしまおうという、自分の経緯は立証の成す成果の礎だが他人の軌跡は「お経」と馬鹿にする嫉妬。
方法や手段、選択肢や可能性を増やそうという努力もしない。いつでも自分の気分が限界のところで選択肢や価値観はいまその手にもっているものだけであるという簡単な最終手段を選ぶ憤怒。
それらを当然として、他の人間にそれらの片鱗があれば悪や罪と罵倒し愚弄し批難し抜くが、自分には才能で権利で個性だと言いぬく強欲。

それが何の役に立つのかといえば、自分の恍惚のひと時のため。無駄に時間を費やし他人の経緯や成果を破壊し、なにもうみ出さず誤りを作り道をあやまらせることのみという怠惰。
むしろ無であったほうが有益とさえいえるほどの怠惰、具現化した怠惰がそこにあるのだ。

鈍重で粘性の高い、暗く冷たくただ荒涼とした絶望と終焉、死だけが存在するような虚無という、無だけが無限に濃縮されたまさに言葉にするなら地獄を創造し、そこに連れ込もうと怠惰をむさぼるそれを悪魔と呼ばずになんと呼ぶのか。
それを存在しつづけさせることで、悪魔を証明しているという、怠惰が罪であることを体現しつづけているのだ。

ただひたすら長い文章

「クー」はとにかく長文が好きだ。
長ければ長いほどいいらしい。
内容はまったく意味がないが、長文が好きだ。


「たとえばAという事がある。」


こう切り出したら、おそらく意味があるのはその1行だけだ。

「ということはBと考えられ」

いくつもある選択肢の中からその一つを選択して話を進めるのは人間として当然だ。
人間には二つの目、二本の手と二本の脚、選択肢はいくつもあり自由だろう。しかし心臓も脳も一つ、一人の人間に選択ができるのは一つだけである。
それ以上の話をすることは意味がない。

「でもCの人もDの人もいるわけで、Eという実例もあって、Fという話もきく」

とつなげる。
そしてどれもよくてどれも尊重してどれも平等にいい側面があるという。
森羅万象を口から言葉として出すだけで、森羅万象を御す神にでもなったつもりになるのだろう。
人間の言語として発するにまったく意味のない文字である。そこにあるものをあると、指をさして言うだけの事である。
あることが何かでも、何かであるからあると指示して言葉にするわけでもない。ただあるという事を言葉にすることを「光あれ」のようにあれと言葉を作ったものになったつもりなのだろう。

平等や公平は人間として大切ではあるが、それは人としてである。万物を平等にというのはまさに「平和のために全部崩壊させ砂地にして平にすることがもっともよい」とでも言うところに帰着する思想だろう。
自分が神であるのにこの世を思い通りにできなかったからすべてを砂地にして平にしてやり直したい、そう願うのだろう。

まず願いがある時点で神ではないし、やり直したい失敗をしている時点でなんの実力もなく、砂地が出発点までとしか認識がなく、思い通りにできていない時点で人として一般よりもはるかに下であろうことはその欲をしてはかり知れる。
それでいて空想では神なのに現実では異なるギャップにストレスを感じ、彼は女神として降臨したいのだろう。

なんと欲深きことか。まさに強欲

ともかくあったりなかったり、というかもう言葉にすること自体無意味な文字を並べ立てる。
結局はいい事も悪い事もあり、善も悪もあり、人それぞれで、それこそが個性なのでみんな素晴らしい、という事らしい。
そんな事をいちいち出力する必要がどこにあるのか。

世界のどこかで水は滴り風は吹いている。それに何の意味があるのかと問われたなら意味などないかもしれない。
しかしそれがやまないのは、何らかの結果にいずれもたどり着くからである。反対から見たとしても、たどり着く場所への変化はどこにでも常に起きているのだ。

では「クー」の万象を言い表す言動にはなぜまったく何も意味がないと言い切れるのか。
それは「発言の目的が、それらを口から吐ける自分のすばらしさを示して称えられたいがため」であるからと言える。
過剰に肥大しすぎたその欲望は嘘をつくことで作り上げた自分が吐く快感にすでに酔いしれているため、いくら満たそうとも嘘で穴のあいた欲には底がなく永遠に満たされることなどない。

善いも悪いも判断しないことが平等で公平で自由だとでも考えているらしい。万物を包み込む地球のような精神なのだろうか。地球は人に問うたりするだろうか。
もし地球や神が人に問いかける事があったとしても、問いかける自身を上位の存在だと誇示する必要があるだろうか。
そうしなければ人が真摯に答えないだろう、なんて考えはまず思いつくかもしれない。それは人ならばそうだろう。
人より上位のものが人なみにその質問をするのかという事である。その程度であるとするならば、それは人であって上位の存在ではないだろう。
問うより以前に知ることが可能なのではないか。それをわざわざ問いとして人にかける意味は何なのか。そんなものはないから神も地球も人に問いなどかけたりはしない。

彼は自分の言葉で森羅万象をなぞることで、創造主になったつもりになるのだろう。
そうでなければ、あったりなかったりすることを、よかったりよくなかったり、人それぞれであることを、自分は全部よいと思う、という文字列を構成する必要など人の生においてどこに存在するのだろうか。

とくにその万物をなぞる上で、やはり人でしかないため自分の願望や想像の限界、趣味の悦楽を混ぜてくる。非常に不平等である。
目的は自分で自分の森羅万象をなぞって快感を得ること、それを人に聞かせることで自分の存在を確認すること。

自殺したいがために人に危害を加えるそれの欲望に近いだろう。自分の体を傷つけて自分自身の存在を体感したいというそれにも近いだろう。
他人に自分の痴態をお披露目して、困惑する人の顔をみて、人には苦難があって成長をする、させてあげている自分に感謝をすべきだと布教をしているのだ。

自分の外郭を感覚で感知したいために傷をつけたり、他人から極限の存在であることで絶対的な存在であることを認定してもらいためだけに他人に危害を加えてみるなどのそれだ。

自分の欲求のためであればいかな犠牲も、他人がいかに犠牲になろうともかまわないのだ。他人とは創造主である自分の大切な資産であるけれども、その損失には糸目をつけない気持ちなのだろう。

その全てを染め上げ包み込む欲を、自分で愛と呼んでいるのだからまさに救いがない。
悪魔ですらそれを悪意でもって行うと描くのが人間の限界なのに、まさに悪意そのもの、強欲の悪魔そのものであると言えるだろう。

すぐ出る最終手段

怒りとは何か。
怒りとは、怒りだという事をすぐに想像できることからそれが何かを問われた事は少ないだろう。
怒りとは、何か。

不満や不安を感じた時に発生するものである。
どうして発生するのかと言えば、不満や不安があるからである。
不満や不安とは、人はどうしたいものなのかと言えば、解消したいものである。
そして解消法とは、である。

解消する方法を考えたり、情報収集をすることで解決へ導くことができる。
練習をしたり準備をすることで、解決へ導くこともできる。
それらが出来ない場合、ない状態で進めなくてはならない場合はどうなるだろうか。
もちろん、無い状態で進めることになる。

解決方法も準備もなく、解決にむけて行動するという事になる。
それ自体が不安で不満になるのではないかといえば、もちろんなるだろう。
不満と不安を解消するために、不安と不満を抱えることになる。
マイナスとマイナスが合わさるとプラスとなるような逆転現象が発生する。
「現状もち合わせているもので、解決策へ乗り出す」という定義である。

手段も前例も方法も経験もあるわけではない、何もないところに何かをもとめて足掻こうというのである。
無を信じる裏付けなどなにもなく方向性もなにもない、そこに信じる理由としての異常な熱意が非常に狭窄した視野である。
そして自分の経験上、他に解決の糸口を検討することもなく1方向的に推し進める理由とは、感情によるものである。
この動作が怒りである。裏付けがなく方向性がないものに対し、自分で決めるという自己決定の理由付けに現実的な反応として突飛な態度というものを発生させるのが怒りである。
ほかにも責任を持つという自己犠牲であったりだれかにさせる、何かで補うなど具体的な手段は同じくある。その一つなのだ。
数ある手段を放棄して新しい手段を試そうというのが怒りであり、それは熱中や熱狂とほぼ同じで確度の低い挑戦だ。
つまりお手上げで最終手段にそれが出るということでもある。

腕力の強いもの、プロの格闘家は得意なのですぐ手が出るのか。
スピードレーサーは制動に長けているのですぐにアクセルを踏むのか。
立場が上のものは優位なのですぐに見下すのか。

それらは最終手段である。
できることなら使わずに済むなら使わないほうがいい手段である。
他に選択肢があるなら、上位で得意で長けているということは、選択肢があるという事である。
豊かさとは、選択肢があることである。

得意な直接攻撃をしなくてなならない時、ブレーキや操作以外にアクセルを踏まなければいけない時。
自分の立場を利用して物事を進めなくてはならなくなった時、それは最終局面である。

高い立場の人間が自分で自分のことを高い立場だと自己紹介しなくてはならなくなってしまっている状況、こんな苦しい状況を想像できるだろうか。

アニメや漫画や映画を見ていれば、視聴者にそれが必要なためセリフで直接的に説明をする。説明用の登場人物がそれを解説する。
実際の現実と大きく異なる第一の点は、その有無である。

あまりにも面白い状況なのだけれども、当の本人は大真面目にその演劇の舞台になっているそれになりきることが現実にもあり得ると思っているらしい。

もちろん同室の他メンバーは全員そんな事は現実と乖離していることを理解している。と、信じたい。
無駄に長文で意味のない事柄を自慢げに長々と書くだけに終始しているので相手にされていないだけである可能性ももちろんある。

大きな功績を残した有名な何かの名前にして入室をしたり、どこの本にでも書いてあるような名言、格言を引っ張ってきて張り付けたりする。

そもそも定義や名言なんてものは経緯がそろってそれを略すためにあるもので、経緯を「お経」と馬鹿にしてなんの効果も目標ももたない名言を吐いて署名をキメることで「自分はそれに能う人間だ」と良いしれては捨て台詞に自分を崇めよと言って退出する。
常に、「クー」はそういう流れなのだ。

他の正常なとりまきに成り下がっている自我も、その一部分を熱心に擦って達することでなにかしらが満足するのだろう。
異常ではあるが、非常識で非道徳的ではあるが、あまりにも人間を愚弄しすぎてはいるが、賢い遊びだろう。実に悪魔的である。

話題の中心であるアドラーも心理学も、なにかにつけて言及するこの世のあるなしごとについても、自分では理解ができていないものについて、自分が理解していないのに存在している事に許可を与えると言葉にすることで自画自賛に酔いしれている。
まるで赤子のようである。おそらく昆虫の羽をむしるのも踏みつけることも、楽しく感じるのだろう。
それを知れと返したなら、途端にわめきちらし自分の不満を全否定しはじめる。純真な赤子のような悪意、悪意を濾過して純粋な濃度を高め切った悪意そのものと言えるだろう。

あらゆる悪意が姿を見せる時、その存在が質量を持つという事が憤怒というもの、ではないだろうか。

その最終手段をいきなりひけらかしてくるのは、余裕がないため、本気なため、実際に真剣に思っているため。
そう考えられる場合もあるだろう。しかし彼についてはまったく異なる。そういい切れるのはなぜか。
「ただ他人を問題に巻き込み、自分はそこからいきなり無関係と梯子を外し被害者の様相になり、自分が投げた言葉で相手を責め始める」、だからそうだと言い切れる。
人に刺激の強い言葉を投げかけたい。その欲求だけで問題を解決する善人の顔をしている。

砂糖は甘いが砂糖自体が悪を成すとしても、自分から入り込んでは来ない。
炭水化物もタンパク質も、毒もミネラルも、ウイルスすら自分から入り込んでは来ない。
そういう環境を自身が使用することで接触し、取り込んでしまうことはあるだろう。
だが問題は玄関をあけて入って気はしない。少なくともノックもせずに入ろうとは試みない。

しかし「クー」は違う。
いい話、ためになる話をする前提として、なろう系の物語の導入、ざまあ系の導入と同じくまずひどい話をする。
それが必要なのかという事である。
そういう場でなければ、それを相談する架空の人物に入室させる。そして相談に乗る形でひどい話をして、賢いと自画自賛、ためになる救われたと自画自賛する。

こんなことをして同室にいる良心で接してきている対話者たちをどこに突き落としたいのだろうかと考える。
おそらくは純粋に楽しみ、趣味としてなのだろう。
趣味で人の精神をいかに不安定に、不愉快に、不幸にできるかを、ただ自分が一時の楽しみ、食事をするように、いつもと違う道を通るだけのようになんの思考もなく自然と行う、それを魔と言わずなんというのか。
まさに悪魔の所業である。


これがいかに罪深いかを寓話や説話、解説や体験を以て教えるなんてことはおそらく無駄だろう。
できれば人はそれを知らないままで生きる、これ以外の方法を知り、得て、選択していくことこそが人らしいと思われる。
だからこそ教理教義として、盲目的に禁止事項に掲げそれに触れることすらしないでおくことを美徳とするのだ。
包丁が人の手にあれば善意でも悪意でも、ときに問題を起こすことはある。それ自体がなければ問題は起きないのだ。


それを実演している、憤怒の罪を具現化しているのが「クー」である。
もちろん七つともそつなく犯しているので、これではもちろんとどまらない。

初めに光ありき

「初めに光ありき」と唱えられて始まったらしい。
これはまったくもってそのとおりの表現だろう。

始まった瞬間を光があった時にするという単位の定義。光速不変のようではないか。
キュビトやヤードポンド、メートルグラムのようになにを1とするか基準を決める事がまず何より最初にあることが物事を整理できる。

始まりから進むにあたって、単位は必要である。
比較したり評価することにも、単位や度数が必要である。

地球単位で、銀河系単位でみると単位に上らないほどの小さいものになる事もある。定義の虚ろさは、単位の幅をひどくおしひろげ整理をさせず評価も表現も意味をなくす。
ひとりの人生の価値を銀河系単位で言うなら、人の単位で分子の変化を言うなら、釣り合わない大きさで例える意味がない。ないとは無い、無である。
無とは何かを言う意味がない。無なのだから。その無になにかを詰め込んでこの世の全てに意味があるようにするということは、存在する何かで架空の城を築く事も同じである。
三匹の子豚の、ゼロ匹目が無で家を作るようなものである。単位としてはゼロとして存在する。そのゼロは確かに「三匹の子豚のうちのゼロ」ではあるが、「三匹の子豚」の一切と関係がない。
かろうじて部分的になにかをとりあげて、特に誇張して切り離して別の話題に焦点を充てるために使う、もできないほどに無である。
これが両方の評価を一度に出したり、架空に仮想を重ねて仮定をしたり、やたら風呂敷をひろげて価値を希釈して話題を消滅させる、相手の持っている価値観を視界から消す方法である。

単位が必要である。基準が必要である。これはなぜか。
伝えるために、理解するために、意味を成し成果を成すために必要であるからだ。
成果や意味という単位の大きさを得るに必要な事である。銀河系単位で、地球規模で成果がどれほどのものかと問うなら消滅するだろう。
人の意味や成果を、消滅させたいならばそうすればよい。いましている会話は、人を消滅させる方法の話をしているのだろうか。
そんなことはだれ一人としてしていないだろう。「クー」を除いては。
彼は、もう初手から純粋に人を消すことだけをまず望んで、消えていく様の人の抗いを悦楽としている。もはや人ではないだろう。

改めて、人がよりよく生きていくために定義ができる最大限の悪意や非道の限りの外側に存在する「クー」の言動が楽しめるLINEオープンチャットをご紹介しよう。

 

line.me

地獄の釜の蓋がオープンしているので、一般人も入り放題である。
よく「地獄の釜の蓋」の話は「地獄が溢れる」ではなく「地獄が煮詰める釜を休めるので蓋をしない」という事が本来の意味だと耳にもする。
たしかに現代語訳の「溢れる」でも問題はない。かの部屋は一定の人数が「異常な言動や価値観」を柔軟に受け入れており地獄が満ちている。それより外側に漏れ出していないことが救いである。
また、ちょっと休憩するのに軽く地獄がオープンしているので軽い気持ちで地獄を見学に来てもいい。あなたを取って喰いはしないのだからという意味でもある。
ただし来たからには自分の意志で自分を悪に染め地獄を召喚する魔になるのは関知しないので、自由な意思であなたの責任において足をふみいれるとよい、という事でもある。
地獄の入口として相応しい門構えである。


今日の話題は、なにやら社会や政治や経営がよいとか悪いとか、良いだけでは悪いとか、善くあればよいとか、よいと善いは違うという事らしい。
クソとミソは、同じで違うから、分けるとよいし、わけなくてもいい場合もある、でも分ければ使えるし、使えるといっても人生レベルであって地球レベルでは、宇宙レベルでいうとミソとかクソはなんの変わりもない、らしい。
まさに意味のない文字列である。無からつくりだしたこの有たる文字の存在は、人間が受け取りなにかを想像する動作を生み出すにおいて、まったく意味のない事である。
その意味の無さ、無を例えてどれだけひどい事かと言いたいところではあるが、無を表現できるはずもない。無であるのだから。人にできるのは無の境界線ぎりぎりにある、無になる瞬間の有までである。
光速が不変なのは、それを単位として分ける大きさの上限がそこまでと決めたからである。実際に速度が変化してもそれを測定する方法をもたないという限界を単位にしたのだ。
初めに光ありきは、そこから存在が開始したという事である。それ以前には無く、無いので問う事も無いのだ。
「クー」がお得意なのは純粋な悪意「どうしてそれがそうだと言い切れるの?」「そうではない可能性はないの?」である。無邪気ではなく完全な邪気である。
邪さのない悪意は無知であり、知を満たせば知の無はなくなり、知のあるところによりよさへの道は開ける。手段の考案や行動の方向性を決定することができるようになるのである。
しかし邪さをもって無を取り上げるとどうなるだろうか。そこには無があることを知っていて、その縁まで歩み寄らないのはなぜかと問う。落ちたものしかわかるまい。
そして無におちれば帰ってくることはない。無なのだから。どうして帰ってくるものがいないのだろうと、常識を持っている人間が問うことの悪質さは、社会生活をしていれば少なからず出会う事はあるはずで、ほぼ全員が理解をしているはずである。
しかしたまに、完全にそれが抜け落ちている人間も、それを使って遊ぼうという人間もいる。現にそれがここにいるのだから。

この日は「暇」という言葉の使い方で伝わり方が異なった、という発言者がいた。自分の見解を説明していた。とてもよい関係性、コミュニケーションの取り方だろう。
小難しい単語であればなおさらである。人間の語彙に限界があるのだから分野ごと、用途や条件、状況ごとに同じ単語や表現でも伝えたい内容が異なる。
言葉と伝えたいわけではない。それだけであれば辞書を引けばよいだけである。
意味をもって理解をして共有をしたい、その後の展開や方向性、望ましい提案を不在の場合に用意したりするためである。

これをまったくせず、ただ不在の場合に不在であることを非難し、望みを否定し、その後のつながりを否定し、共有を破壊し理解されないことを愉悦とするのが「クー」である。
まず関係性を非難し否定する。パーソナリティを勝手に決めつけ生ものを展開する。
そしてどこからか引っ張ってきた薄っぺらい格言や論語論説、記事や文節を持ってくる。その意味を都度適当に自分の都合のよいように、相手がいかにどれほどまでに遠く深く暗く落とせるかだけを意図して。

とにかく肯定的、建設的、前向きな言葉を発しないし、自分はそうしたいのにという理由をつけてくる。影絵のための電球が自分だと言わんばかりに。
実像は影しかないという構成だ。人を照らすことでその明るさを証明するようなものを行わない。
舞台と箱と、自分の投影を映してくれるくれるスクリーンがあって初めてできるそれを、オープンチャットという枠がかなえてくれているのだ。
まさに「クー」にとってのおもちゃ箱である。これを成しえているのは、その毒ですら許攸する同室内のメンバーもさることながら、どんな発言でも完全に全員が悪意だと社会的評価が下せるもの以外は強制的に退出させないところにある。
たしかに判断はむつかしいだろう。よくもみえ悪くも見えることは人ならばあって当然であり、複数人から同意を得るのは難しい。
統率力を高めれば自由度が下がる、自由度を下げれば責任性が増す、責任性を下げれば問題の対処に幅がでてしまう。選択肢として自由度の高さを取るのは管理人個人の選択の自由だろう。
それとぴったり符合してしまっただけのことである。
実際問題、そこに地獄があることは何の問題もない。ホラー好きにとっては地獄が生中継されている様は恰好の娯楽である。

しかし同室内の、その珍しい煮え立つ地獄が「奇抜なアイデア」に見えて乗ろうと、善いこともあるのでは、ワンチャンよくできるのではないか、と触れて確かめようとする様は憐憫の情を抑えられない。
本当にひどい被害を心に刻んでいることを実証するのは、視聴者としての私の見えない所ではある。
それについて心を痛めているのではない。悪魔の種が発芽する場所が見れない事が残念で仕方がないのだ。

悪魔や地獄がしっかりとした定義や規則で決まっており、人はそれを制御し利用できると思っているなら傲慢であり、理解を怠り定義を都合よい範疇だけで認識している事だろう。
核エネルギーや化学物質、地球環境などは人間の行動範囲の努力でできる範囲はよりよくしようという運動などがあるが、人間に制御できないものがあることも理解が必要だ。
どこまでなら、どれなら、どんな方法なら、と基準をつくり定義し測り分けて理解し使わなければ、地獄はそんな基準では動いてくれない。
契約などできるわけがないのだ。人の都合を自然や化学や理論に問うても、すり抜ける粒子が降り注ぐのを避けることはできないし、大きな運動エネルギーの衝突はあなたを避けないし、事故や被害は制御なんてできない。
人が定義した世界の中にいることが安全であり、そこから出る事は危険であるという、単純にして基礎的なことはいつでも忘れるできではない。

それをかるく埒をあけ箍をはずし、地獄の釜がオープンしているのでみんなおいでよ、と呼び込んでいる、定義や基準になぜと問いかけることが聡いという、そんな悪魔がいる部屋がある。
無があること、ゼロの発見を毎日見ることがでいるのは、ホラー映画チャンネルよりも刺激的だ。