宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

すぐ出る最終手段

怒りとは何か。
怒りとは、怒りだという事をすぐに想像できることからそれが何かを問われた事は少ないだろう。
怒りとは、何か。

不満や不安を感じた時に発生するものである。
どうして発生するのかと言えば、不満や不安があるからである。
不満や不安とは、人はどうしたいものなのかと言えば、解消したいものである。
そして解消法とは、である。

解消する方法を考えたり、情報収集をすることで解決へ導くことができる。
練習をしたり準備をすることで、解決へ導くこともできる。
それらが出来ない場合、ない状態で進めなくてはならない場合はどうなるだろうか。
もちろん、無い状態で進めることになる。

解決方法も準備もなく、解決にむけて行動するという事になる。
それ自体が不安で不満になるのではないかといえば、もちろんなるだろう。
不満と不安を解消するために、不安と不満を抱えることになる。
マイナスとマイナスが合わさるとプラスとなるような逆転現象が発生する。
「現状もち合わせているもので、解決策へ乗り出す」という定義である。

手段も前例も方法も経験もあるわけではない、何もないところに何かをもとめて足掻こうというのである。
無を信じる裏付けなどなにもなく方向性もなにもない、そこに信じる理由としての異常な熱意が非常に狭窄した視野である。
そして自分の経験上、他に解決の糸口を検討することもなく1方向的に推し進める理由とは、感情によるものである。
この動作が怒りである。裏付けがなく方向性がないものに対し、自分で決めるという自己決定の理由付けに現実的な反応として突飛な態度というものを発生させるのが怒りである。
ほかにも責任を持つという自己犠牲であったりだれかにさせる、何かで補うなど具体的な手段は同じくある。その一つなのだ。
数ある手段を放棄して新しい手段を試そうというのが怒りであり、それは熱中や熱狂とほぼ同じで確度の低い挑戦だ。
つまりお手上げで最終手段にそれが出るということでもある。

腕力の強いもの、プロの格闘家は得意なのですぐ手が出るのか。
スピードレーサーは制動に長けているのですぐにアクセルを踏むのか。
立場が上のものは優位なのですぐに見下すのか。

それらは最終手段である。
できることなら使わずに済むなら使わないほうがいい手段である。
他に選択肢があるなら、上位で得意で長けているということは、選択肢があるという事である。
豊かさとは、選択肢があることである。

得意な直接攻撃をしなくてなならない時、ブレーキや操作以外にアクセルを踏まなければいけない時。
自分の立場を利用して物事を進めなくてはならなくなった時、それは最終局面である。

高い立場の人間が自分で自分のことを高い立場だと自己紹介しなくてはならなくなってしまっている状況、こんな苦しい状況を想像できるだろうか。

アニメや漫画や映画を見ていれば、視聴者にそれが必要なためセリフで直接的に説明をする。説明用の登場人物がそれを解説する。
実際の現実と大きく異なる第一の点は、その有無である。

あまりにも面白い状況なのだけれども、当の本人は大真面目にその演劇の舞台になっているそれになりきることが現実にもあり得ると思っているらしい。

もちろん同室の他メンバーは全員そんな事は現実と乖離していることを理解している。と、信じたい。
無駄に長文で意味のない事柄を自慢げに長々と書くだけに終始しているので相手にされていないだけである可能性ももちろんある。

大きな功績を残した有名な何かの名前にして入室をしたり、どこの本にでも書いてあるような名言、格言を引っ張ってきて張り付けたりする。

そもそも定義や名言なんてものは経緯がそろってそれを略すためにあるもので、経緯を「お経」と馬鹿にしてなんの効果も目標ももたない名言を吐いて署名をキメることで「自分はそれに能う人間だ」と良いしれては捨て台詞に自分を崇めよと言って退出する。
常に、「クー」はそういう流れなのだ。

他の正常なとりまきに成り下がっている自我も、その一部分を熱心に擦って達することでなにかしらが満足するのだろう。
異常ではあるが、非常識で非道徳的ではあるが、あまりにも人間を愚弄しすぎてはいるが、賢い遊びだろう。実に悪魔的である。

話題の中心であるアドラーも心理学も、なにかにつけて言及するこの世のあるなしごとについても、自分では理解ができていないものについて、自分が理解していないのに存在している事に許可を与えると言葉にすることで自画自賛に酔いしれている。
まるで赤子のようである。おそらく昆虫の羽をむしるのも踏みつけることも、楽しく感じるのだろう。
それを知れと返したなら、途端にわめきちらし自分の不満を全否定しはじめる。純真な赤子のような悪意、悪意を濾過して純粋な濃度を高め切った悪意そのものと言えるだろう。

あらゆる悪意が姿を見せる時、その存在が質量を持つという事が憤怒というもの、ではないだろうか。

その最終手段をいきなりひけらかしてくるのは、余裕がないため、本気なため、実際に真剣に思っているため。
そう考えられる場合もあるだろう。しかし彼についてはまったく異なる。そういい切れるのはなぜか。
「ただ他人を問題に巻き込み、自分はそこからいきなり無関係と梯子を外し被害者の様相になり、自分が投げた言葉で相手を責め始める」、だからそうだと言い切れる。
人に刺激の強い言葉を投げかけたい。その欲求だけで問題を解決する善人の顔をしている。

砂糖は甘いが砂糖自体が悪を成すとしても、自分から入り込んでは来ない。
炭水化物もタンパク質も、毒もミネラルも、ウイルスすら自分から入り込んでは来ない。
そういう環境を自身が使用することで接触し、取り込んでしまうことはあるだろう。
だが問題は玄関をあけて入って気はしない。少なくともノックもせずに入ろうとは試みない。

しかし「クー」は違う。
いい話、ためになる話をする前提として、なろう系の物語の導入、ざまあ系の導入と同じくまずひどい話をする。
それが必要なのかという事である。
そういう場でなければ、それを相談する架空の人物に入室させる。そして相談に乗る形でひどい話をして、賢いと自画自賛、ためになる救われたと自画自賛する。

こんなことをして同室にいる良心で接してきている対話者たちをどこに突き落としたいのだろうかと考える。
おそらくは純粋に楽しみ、趣味としてなのだろう。
趣味で人の精神をいかに不安定に、不愉快に、不幸にできるかを、ただ自分が一時の楽しみ、食事をするように、いつもと違う道を通るだけのようになんの思考もなく自然と行う、それを魔と言わずなんというのか。
まさに悪魔の所業である。


これがいかに罪深いかを寓話や説話、解説や体験を以て教えるなんてことはおそらく無駄だろう。
できれば人はそれを知らないままで生きる、これ以外の方法を知り、得て、選択していくことこそが人らしいと思われる。
だからこそ教理教義として、盲目的に禁止事項に掲げそれに触れることすらしないでおくことを美徳とするのだ。
包丁が人の手にあれば善意でも悪意でも、ときに問題を起こすことはある。それ自体がなければ問題は起きないのだ。


それを実演している、憤怒の罪を具現化しているのが「クー」である。
もちろん七つともそつなく犯しているので、これではもちろんとどまらない。