宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

ただひたすら長い文章

「クー」はとにかく長文が好きだ。
長ければ長いほどいいらしい。
内容はまったく意味がないが、長文が好きだ。


「たとえばAという事がある。」


こう切り出したら、おそらく意味があるのはその1行だけだ。

「ということはBと考えられ」

いくつもある選択肢の中からその一つを選択して話を進めるのは人間として当然だ。
人間には二つの目、二本の手と二本の脚、選択肢はいくつもあり自由だろう。しかし心臓も脳も一つ、一人の人間に選択ができるのは一つだけである。
それ以上の話をすることは意味がない。

「でもCの人もDの人もいるわけで、Eという実例もあって、Fという話もきく」

とつなげる。
そしてどれもよくてどれも尊重してどれも平等にいい側面があるという。
森羅万象を口から言葉として出すだけで、森羅万象を御す神にでもなったつもりになるのだろう。
人間の言語として発するにまったく意味のない文字である。そこにあるものをあると、指をさして言うだけの事である。
あることが何かでも、何かであるからあると指示して言葉にするわけでもない。ただあるという事を言葉にすることを「光あれ」のようにあれと言葉を作ったものになったつもりなのだろう。

平等や公平は人間として大切ではあるが、それは人としてである。万物を平等にというのはまさに「平和のために全部崩壊させ砂地にして平にすることがもっともよい」とでも言うところに帰着する思想だろう。
自分が神であるのにこの世を思い通りにできなかったからすべてを砂地にして平にしてやり直したい、そう願うのだろう。

まず願いがある時点で神ではないし、やり直したい失敗をしている時点でなんの実力もなく、砂地が出発点までとしか認識がなく、思い通りにできていない時点で人として一般よりもはるかに下であろうことはその欲をしてはかり知れる。
それでいて空想では神なのに現実では異なるギャップにストレスを感じ、彼は女神として降臨したいのだろう。

なんと欲深きことか。まさに強欲

ともかくあったりなかったり、というかもう言葉にすること自体無意味な文字を並べ立てる。
結局はいい事も悪い事もあり、善も悪もあり、人それぞれで、それこそが個性なのでみんな素晴らしい、という事らしい。
そんな事をいちいち出力する必要がどこにあるのか。

世界のどこかで水は滴り風は吹いている。それに何の意味があるのかと問われたなら意味などないかもしれない。
しかしそれがやまないのは、何らかの結果にいずれもたどり着くからである。反対から見たとしても、たどり着く場所への変化はどこにでも常に起きているのだ。

では「クー」の万象を言い表す言動にはなぜまったく何も意味がないと言い切れるのか。
それは「発言の目的が、それらを口から吐ける自分のすばらしさを示して称えられたいがため」であるからと言える。
過剰に肥大しすぎたその欲望は嘘をつくことで作り上げた自分が吐く快感にすでに酔いしれているため、いくら満たそうとも嘘で穴のあいた欲には底がなく永遠に満たされることなどない。

善いも悪いも判断しないことが平等で公平で自由だとでも考えているらしい。万物を包み込む地球のような精神なのだろうか。地球は人に問うたりするだろうか。
もし地球や神が人に問いかける事があったとしても、問いかける自身を上位の存在だと誇示する必要があるだろうか。
そうしなければ人が真摯に答えないだろう、なんて考えはまず思いつくかもしれない。それは人ならばそうだろう。
人より上位のものが人なみにその質問をするのかという事である。その程度であるとするならば、それは人であって上位の存在ではないだろう。
問うより以前に知ることが可能なのではないか。それをわざわざ問いとして人にかける意味は何なのか。そんなものはないから神も地球も人に問いなどかけたりはしない。

彼は自分の言葉で森羅万象をなぞることで、創造主になったつもりになるのだろう。
そうでなければ、あったりなかったりすることを、よかったりよくなかったり、人それぞれであることを、自分は全部よいと思う、という文字列を構成する必要など人の生においてどこに存在するのだろうか。

とくにその万物をなぞる上で、やはり人でしかないため自分の願望や想像の限界、趣味の悦楽を混ぜてくる。非常に不平等である。
目的は自分で自分の森羅万象をなぞって快感を得ること、それを人に聞かせることで自分の存在を確認すること。

自殺したいがために人に危害を加えるそれの欲望に近いだろう。自分の体を傷つけて自分自身の存在を体感したいというそれにも近いだろう。
他人に自分の痴態をお披露目して、困惑する人の顔をみて、人には苦難があって成長をする、させてあげている自分に感謝をすべきだと布教をしているのだ。

自分の外郭を感覚で感知したいために傷をつけたり、他人から極限の存在であることで絶対的な存在であることを認定してもらいためだけに他人に危害を加えてみるなどのそれだ。

自分の欲求のためであればいかな犠牲も、他人がいかに犠牲になろうともかまわないのだ。他人とは創造主である自分の大切な資産であるけれども、その損失には糸目をつけない気持ちなのだろう。

その全てを染め上げ包み込む欲を、自分で愛と呼んでいるのだからまさに救いがない。
悪魔ですらそれを悪意でもって行うと描くのが人間の限界なのに、まさに悪意そのもの、強欲の悪魔そのものであると言えるだろう。