宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

追求もされず、放逐もされず

彼の知識は非常に浅い。
たぶんなにかの文節や語録はすぐに引き出せるところにあるのだろう。
参照しているのか記憶にあるのか、引用はしてくる。
辞書にあるからと、先人がこう発言していただの、出してくることはある。
当時のその人がそういったから、そうだと本に載っていたから、だから何なのだろうか。
デートが必ず成功する本を読んだから今日のデートは完璧なのだろうか。
もしドラを読んだから今年は甲子園で優勝なのだろうか。
どこにでも落ちている情報はなんの役にも立たない。役に立つとは、何のとは何にか、その情報が情報としてある意義は、というのは「そういう用途ではない」だけの話である。
本の値段がいくらか、その名言がどの界隈では受けるスピーチのネタになるのか、判断の基準に先人の智恵は役に立たないのか、そういう話ではない。
自動車免許をもっていれば皆運転ができるのかと言えばそうではないという事だ。

知っているだけ、記憶にあるだけではなんの意味もない事はだれにでもわかる、わかり切っていることだろう。
それを使う場面をだれしもが待ち望んでいる、それを無関係なところで出しても、出した、出す場面であったと自己評価で悦にいるのが「クー」なのである。

お経の話で終わっている事ではあるが、その必要な情報を抜いてタイトルだけコールしている状態、中身がカラの容器に貼ってある値札の値段を読み上げる事で空っぽの容器にまるで価値があるかのようにふるまうのが、まさに「クー(空)」なのである。

彼は言語を自分の感覚器官にこすりつけて快感を得るための材料、素材だと思っているのだろう。
定義された言葉や他の人間が使っている言葉、そしてその言葉に集約された背景や意味、意図や役割が伴って現実に反映される様を真似て、それを得た感覚に浸りたいのだろう事はその薄い言動の全てに透けて見える。

キリスト教が整っていて綺麗だなんて話は、ファッションで十字架をかけているゴスロリ嬢ですら思わないだろう。
侵略戦争で文化を浸透させて整地するために教育や規制、立法や放置の他に宗教で生活圏を作り上げる手段に使ったなどは中学生で習う。神が仏が神聖性がなんて、神学者でも言うまい。あまりに無知が過ぎないか。
ここまで無知だと逆に怪しいというか、賞賛のための通常アカウントがあるのだからわかっていての話ではあるだろう。
過剰なフェミニズム信望者を装って過剰な提言で反対意見を、極論を試そうというものに近いと思われる。
その中でも、キリスト教徒でなければ、教会に通っていなければ知る機会がそうあるわけではない教理はいくつかある。ファッションとして誤解をされたりする部分だ。
禁忌として、教育や習慣、生活で気を付けるべき事としているもの、社会的機能を損なわないように人として節度を守るべきとしているものを大きく逸脱してそれが教理に沿っているというとんでもない背信的な言動を得意ともしている。

まず七つの大罪になぞらえてそれらを完璧に犯している時点で既に背信者そのものなのではあるが、その根幹から腐らせていく悪意を「自分の解釈ではキリスト教、仏教、ほか宗教などでは善としているのでは」などと吹聴してくる。
他人の行動についてはもうかなり直接的に「風説の流布」を行い、政治や集団行動、宗教や教育などについて「革命的に平等で平和な思想」を披露してくるがひどく差別的で反社会的、非現実的で「なぜそれがないのか」を考えていないところが凶悪である。

なぜこの世に存在しないものがあるのか、それは無いからである。
淘汰されたり成しえなかったり、できなかったから、もしくは失われたからである。今現時点にあるのものは結果なのだ。
それをわざわざ「ある」としたり「あったとしたら」というのは、もはやそこから話者の想像、空想で作った私小説の中身の話である。
すくなからず対話者を読者とみたてて参加をしてもらうことができれば、会話としても成り立つであろうけれども、独自の解釈に再解釈、対話、考察を許さない「適当な単語を山のように盛り込んで異常な長文に仕上げる」ことで対話を成させない。
自分の世界を「全部読んでもないのに反論をする」「ちゃんと読めば解釈できる」と千変万化に相手を翻弄し愚弄することだけに終始する。

塵芥を寄せ集め高級料理だと見せびらかし、それをゴミだと指摘すれば食べてからものを言えという、物理世界であれば到底あり得ない話を、文字上の情報の交流だけであれば可能な限界ぎりぎりまで人を愚弄にかかるのだ。
これがまた純真に好奇心からであるように装い、同室のメンバーには無視して流す事が最善とすること、また沈黙することで制御をなくし自由であることを謳歌できると悦にいるところも、純粋な悪意の蒸留の加減を感じさせる。
これをまともに会話できる人間がただの愉悦のためだけに行えるのかと考えると、恐ろしい話である。

学ばず、努力せず、行動せず、ただあったものを触れて、それを述べて、あるものはある、それを認めることが支配であり自分が支配者で最上位であることを、認めよと宣言することで恍惚に浸って退出をする。この繰り返しである。
自分の職位を述べよ、その呼び名で私を恍惚にせよとは、まったく無駄の無意味そのもの、神が信仰を求めている(はずである)と神の存在意義を人が定義、人の範疇でしか想像ができない限界の範囲で定義したものに近い。
まさに怠惰の権化である。

食べたパンも数えていないのに、パンに自分に番号を名乗れ、称えよと言っているようなもの。麦を育てたのか、刈ったのか、粉に挽いたのか、捏ねたのか焼いたのか、全くそれらになにも関わることなく、しかも買ったのすら自分でもないのにその態度という、傲慢にも思える怠惰さ。

学びもせずただ文字を感覚でとらえた事を長々と気分の流れを経緯として垂れ流し、それを前提に理論がなりたちそれをくみ上げた自分の才能がすばらしく、だれよりも上位なので賞賛をされるべきと言い放つ傲慢。
他人が努力をしたり苦労をして、時間や対価を支払って手に入れたものを自分にはないのは不平等だとねだり、手に入らないならば破壊してしまおうという、自分の経緯は立証の成す成果の礎だが他人の軌跡は「お経」と馬鹿にする嫉妬。
方法や手段、選択肢や可能性を増やそうという努力もしない。いつでも自分の気分が限界のところで選択肢や価値観はいまその手にもっているものだけであるという簡単な最終手段を選ぶ憤怒。
それらを当然として、他の人間にそれらの片鱗があれば悪や罪と罵倒し愚弄し批難し抜くが、自分には才能で権利で個性だと言いぬく強欲。

それが何の役に立つのかといえば、自分の恍惚のひと時のため。無駄に時間を費やし他人の経緯や成果を破壊し、なにもうみ出さず誤りを作り道をあやまらせることのみという怠惰。
むしろ無であったほうが有益とさえいえるほどの怠惰、具現化した怠惰がそこにあるのだ。

鈍重で粘性の高い、暗く冷たくただ荒涼とした絶望と終焉、死だけが存在するような虚無という、無だけが無限に濃縮されたまさに言葉にするなら地獄を創造し、そこに連れ込もうと怠惰をむさぼるそれを悪魔と呼ばずになんと呼ぶのか。
それを存在しつづけさせることで、悪魔を証明しているという、怠惰が罪であることを体現しつづけているのだ。