宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

不道徳のススメ

悪や不道徳とはファッションで反社会的・反政府的・反抗的で枠にはまって道に乗せられた自由のない世界から離脱し本当の自由を目指そうとされるものがある。
そういう時期がある。
実際にはゆらぎの一つでエラーチェックのようなもの、サージ機能やガス抜きの役目として生まれてきたまったくの規格内である事に本人が気が付くことはない。

しかし真に不道徳というものはあり得る。
まさに道徳を利用してそこに不条理、不合理、被害を及ぼすもののそれだ。
合法的な道具を使って犯罪行為をするに近い。まったくに救いようのない不条理で不道徳である。


たとえば、がんばる話、つらいけどきっといい成果がでる話、でもいまは助けがほしい話が話題であったとする。
その時に「でも嘘だと意味がないんだよね」「つらいってひどいだけ、いじわるなだけ、すぐにやめたほうがいいこともあるけど」と言って
そうでもないならがんばれ、自分にはどっちでもいいけど、という話し方をする。
これがいかに不道徳的で悪意であり救いがないことか。

まず、言う必要がない。
アドバイスする側としてそうなると予測があるなら、そうなったときに助ければよい。その準備をすればよい。
なぜわざわざ言語化して不幸を示すのか。
不幸を示してその耐性を持たせようとする手段や方法もある。それがまったくそういう意図でないことは「自身がどっちの結果でもよいだろう」と最初から「結末について、自分がそこまで寄り添わない」を示しているところである。
結果の話を最初にしている。自己責任で選べという事だ。不幸の例を呈す側として、そのイメージを相手に持たせること以外に意味はない。
純粋な悪意である。
これを言動だけでみれば、そうではないととれるし説明もできるところが闇の深さを示している。
「じゃあ意地悪で、相手に悪いイメージを植え付けるだけ、その不幸な言葉を発したいだけで言ったとする証拠を示してください」となる。
まさに悪魔の証明である。

無邪気な子供が純真に残酷な行為を楽しむかのようであると認識されているあたたかいユーザーに囲まれかのオープンチャット内では、過去に名前を変えては人にあたりちらすという行動に出ていたこと、そして現在もそれを行っていることについて放免されている。
勝手な解釈でいいかげんな言説を振りまく事も許容されている。

そして当人たちの目の前で生もの、同人用語でいうところの生きた本人実物で同人をするということをやってのける。
どういう人だから、どうなるだろう、こうなのでしょう、と評価をし空想をし勝手に行動をさせ品評する。
そして適当な著名人やそういう文字表現を持った名前を被って人形ごっこを始める。

どうして、なぜなぜ、と実体がないのに道の先へと誘っていく。その先はなんの影もない断崖なのに。
そんな悪い事をいわないで、怖い事をいわないで、ひどい事をいわないで、と自分でそう仕向けておいたことは明確なのに。
もちろん、証明は悪魔の証明のそれである。
良薬をよかれと思って調剤したら毒でした、と無邪気に喜ぶのだ。

それが無邪気ではないことは、他の相談者や相談に「クー」の絶賛をする比較的他のメンバーに注視されていない、どちらかというと善い人というポジションを得ているアカウントが別にいることから察する事ができる。

純粋に「なりきりで迷惑をかけること」を楽しんでいるのだ。


自分の事にはノータッチでお願いと、かまってなりきり指示要望をするけれども、自分には一定の権利があるから自由でいさせてほしいのような言動も行う。

キリスト教の教えの中の一部に、七つの大罪という例えがある。

傲慢
嫉妬
憤怒
強欲
怠惰
暴食
色欲

なぜそんなものを定義するのかと言えば、それらがよくないものであり避けるべきものであり、なくすべきものだからである。


傲慢 いわれなき不利益
嫉妬 向上心の損失
憤怒 選択肢の損失
強欲 継続性の損失
怠惰 生産性の損失
暴食 健康の損失
色欲 健全の損失

社会や共同生活といった集団において、破綻をしないための条理だ。
人の社会は人が作り上げたものだからして、人のルールがなければ成り立たない。人がいないところに人間社会はないのは当然である。

これをことごとく全部破っていくのが「クー」である。


まず責務を果たさない「自身への追求」を避ける。そして自分には得る権利がある、得ることくらいと表現を尽くして強欲に得ようとする。
自分は立場が上である、と言わねばならない状況こそ不条理であるのにはばからない、過去の有名人や著名人の名を語ってその名前やアイコンでなにか発言をすればまるで自分がそうなったかのように陶酔する。

救いがあるとするなら、だれもそれを「その効果」を認めていない所だろう。
輪の中で一人、だれも相手にしてもらっていないのに舞っている状態であることが、わずかに救いではある。


しかし数ある罪のうちの一つに傲慢の「いわれなき不利益」を振りまいているものがある。
実際7つは最低でもあるので一つずつの紹介にはなるが、まず罪の一つに言葉の理解を差し替えて謀り貶め誤りに導いた実例が一つある。

「お経」というものを「一人でブツブツいう事」と提唱しそれがコミュニティ内に定着したことである。

たしかにそれ以前に無意味なことをお経と呼んだ人間はいたようではある。

意味なく繰り返しているだけのことをお経と理解している人もいるようではある。
たしかに、現在お経のそれが何なのかしらない人間も多くなってはいろだろう。
無信仰がゆえにファッションとして浸透してもう半世紀は以上、下手すると1世紀程度は無信仰が浸透しているのではないだろうか。
教育制度が充実したおかげで、教育の基準が地域特化や宗教でなくてもよくなった結果、生活の安全基準が工業化したおかげで、アナログな安全装置としての文化が損なわれた結果ではある。

そもそもにお経というのは読んで字のごとく「経」である。
内容をみればわかるとおり、どういう経過なのかを示したものである。
大きな流れに還れ、そこから来たのだからみたいなものから、一切は流転するなどの単語やことわざ、名言を語るに意味をつけるための詳細説明文だ。

やたらとなにかの皮を被って引用し名言を吐いて自分を誇示する人間がいたり「クー」がそれだがその意味を意味づけるのがお経という文章だ。
それを人に読んだり読ませたり、読んでもらったりする必要がない、自分で繰り返し読むことができるようにセットされた文章である。
それを読んでいる姿だけを嘲笑の扱いにして独り言をブツブツいっている、そしてお経がある程度の価値を示していてそれに意味があるという観念だけ引っ張ってきて、自分の妄想を垂れ流すことをお経といって、そして許容をさせようとした結果、成されたという罪がある。
これに非常に汚染が完成していることにまず悪魔としての功績の一つが与えられてしかるべきだろう。

人にお経という事の無意味さ、恥ずかしさ、醜悪さを植え付ける事に成功しているのだ。
すくなくとも450人程度から「それは不道徳だ、不浄で穢れた行為だ」と指摘されている事はない。450人は少なくとも地獄の14%は進捗させているのだ。