宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

ホラー要素①

私はホラー映画が大好きだ。
恐怖や醜悪を見るのが大好きだ。

私がホラーを好きになったのはいい歳になってからで、幼少期は本当にビビりだった。
こわいお化けの絵を見ればなれなくなり、天罰や神様を信じていた。神様を信じていたから天罰を信じ、お化けを恐怖していたのかもしれない。
閉塞的でかつ教育的な環境にあったから比較的真面目な部類だったのかもしれない。

しかしあまりに自己嫌悪に陥るほどに恐怖に対する耐性がないことを自覚していたため、これでは将来日常生活に支障をきたすと感じ克服すべきだとしてホラーを見始めた。
ホラー映画を、あまりに不快で恐怖で耐えられないそれを楽しいと自分に言い聞かせながらみる事にしたのだ。
人間は適応能力が高く、洗脳すればなんでもできるというのは周知の事実で日常にも多くまぎれていることは誰でも知っていることだが、自分で自分に実施する事はそう多くはないのではないだろうか。
学問や芸術でそれを施し才能が開花した人間も多くいるだろうけれども、自分は耐性あげのために変態になった。ただそれだけの事だ。

最初にはまずお化け特集を見始めた。こわくないこわくないと言い聞かせながら。
そのうちお化けや怪物、グロについてよく見ると芸術的な点を見出すようになりはじめた。エロは元々大好物だったがエログロから、グロエロ、グロに嗜好が伸びていった。
よりとがった表現、とがったテーマを求めホラーの品質を見るようになってきた。
推理ものなども元々好きではあったが、ホラーはもっとリアルを追求する必要性をもつ。現実味のない恐怖はもはやギャグでしかないのだ。
よりリアルで辻褄のあう、全体のストーリーを人外のものでありがならリアルに人のものに落とし込んでいく繊細さがホラーには必要なのだ。
ただはじけてばらけて、血まみれになって突然でてきてびっくりする、そんなギャグエンターテイメントはホラーではないと感じるようになっていった。


そのうち、そのホラーを成すのものに悪魔や悪意、悪の存在は欠かせなくなっていった。
倫理的におかしい、狂っている、害をなす、悪であるもの、それら「反対のもの」を「正常のもの」とするかっこよさを感じていた。
悪を先鋭化させていくと、結果善になると気が付いた。どちらも正義でどちらも悪なのだ。人は正義で悪を成すのだ、というのは近年めずらしくもないテーマでもある。
ここまで時代とともに成長してきた私だが、時代と道をたがえる時が来る。完全な善意こそ悪であるという点の発見だ。

善悪を問い詰めていくとどちらとも判断がつかないとはなる。それは都度点を追っていくといつしか円になるその形ににている。点で追っては意味がないのだ。
甘い言葉は最終的にその対象へのためとはならない、甘やかしは脆弱を呼ぶ、というのはあたりまえだ。
そして物語をつくるためにはそれぞれ善悪の立ち位置を固定しておく必要がある。最終的に大逆転で善意が悪に、悪意が善にという逆転が一度きり発生する作品もいくつかあった。

本当の悪意とは、それが悪意だとわからない程度に善意としてちりばめられていることのそれ、物語としても成り立たない不誠実そのものがまさに悪そのものなのだ。
実際にはそれを描き切る事などできないのかもしれない。


しかしそれを一人の人間が行っている様子をみたとしたら、それはまさに悪意の権化それそのものなのだ。
それを文字に書き起こすことができたなら、それは完全な悪意の描写の一つができるのではないだろうか。


それがまさに最近発見した「クー」なのである。
彼自身「空(くう)」と呼ばせたがっているらしい。まさに悪にふさわしい。自覚しているのだろうか。しているのだとしたら相当な書き手だ。
そこに正体がいない、まさに責任を追及できないただの空虚な闇そのものがそこにあるとするそれがまさに悪そのもの以外に何が存在していると言えるのだろうか。

人間がなにか行動をする、いや存在しているだけでそこに人はいるのだ。名前があり、姿が確認でき、行動をすれば成果がでる。結果を得るためには行動が必要であり、行動の結果に「人間がそこに存在していなければ」得ることができないのだ。
それが、なにもない空虚な暗闇から相手を誉め、なにもしなくていい、自分が認めている、自分はしっているぞとまさに「根拠のない」空虚な持ち上げをして相手が宙に浮こうものなら、その姿に質量がまったくないことを呈し落下させる。
なんの得も損もなく、ただ落下し問題を発生させ迷惑で困惑する姿をみて、解決策を考えようと言い出す。税金を使うために道路を破壊している道路工事のようなものだ。しかもそれが責任追求をされない無なので永遠に問題を引き起こし放題である。
言葉としては切り取ると攻撃的ではない、しかし受難的、被害的なことを並べ立てることで問題をどこかに寄せて結果非難の対象にする。自然発生的な害悪そのものである。

とりあえず対象の詳細を見ていこう。
古くはVやXという名前で「何物でもないがいいこと言うをしたい」評価はされたいが特定はされたくないという矛盾を含んだ存在だったらしい。
その「得られるものは欲しいが一切払う気はない」という矛盾そのもの、欲そのものが既に大罪の一つであるけれども本人曰く「キリスト教が好き」らしい。
ファッション的なものについてだけだろうけれども、自分を汚で悪で穢としている相手を好きだというその無神経さが無邪気な悪、純粋な悪を感じさせる。

何かをしてくれ、何かをしなさい、場をしきりたい、誉められたい、高い評価を得たい、それは人として当然の気持ちでありそれを踏みにじるのは悪だ

とはいうけれども、その評価を受け取る先が常に変わる。評価の支払い側が都度支払いだけはするがなにもその責任を果たしたり、受け取りについて功績を相手に返すこともない。敬意なんてものがないのだ。
敬意なんてものを感知する器官が欠損している。それを指摘したところで何も気づきはしない。悪意そのもので出来た生物としか言いようがない。
一時私はこれは精神的な疾患や知性の不足かと思ったのだが、いくつかほかに「まともに会話しているクー」がいることからこれは純粋な悪意そのものを楽しんでいるとしか見れないことに気が付いた。

いわゆる「クー」の名前は、それだとわかる範囲では以下のとおりである。

あかちゃんまん(クー)
いいかげんに城(クー)
いくらどんちゃん(クー)
ううん副校長
うん校長
おばあちゃん🍊
おばあちゃん🍬
おばあちゃん🍵✨
おばあちゃん🪻
おばあちゅん🍭
お土産話しと劣等感満載してきたクー
くみこ
くみこ(卒業生V)
くみこV👩‍🎓✨
くー
くーちゅん
してあげたいマン✨
してくれ女帝✨
してもらいたい帝王✨
そうなのねえさん
そうなの?副担任
そうなんだ先生
そんなんだ先生
やっぱり卒業できなかったクーちゅんHSP
ゆげせんにん(クー)
ゆずじいや(くー)
ゆず姫(くー)
アドラー100%(濃縮還元果汁1%)
アンパン(クー)
カレーパンマン(クー)
キャプテン・オッケー
レイマン(フィクション)X
クー
クーちゅん
コキン(くー)
コビテルンとシットシテルン兄妹
ゴマすり和尚とスリコギ坊主
ソフトクリームマン(クー)
ナイト・アドラー
ナイト・スマイル
ナイト・ユング
バイキンッ(クー)
ブラックロールパンナX
メロンパンナ(くー)
モーニング・アドラー
モーニング・アーティスト
モーニング・コーヒー☕️
モーニング・コール
モーニング・サンデー
モーニング・スタディー
モーニング・スフマート
モーニング・ツイッター
モーニング・ペイジ
モーニング・ムーン🌙
モーニング・ユング
モーニング・ラフ
モーニング・ルーティン
モーニング・X
ロムれなかった森のクー🌳
ワッフルちゃん(クー)
丸投げのクー
全否定のエゴ将軍
夢子(フィクション)X
天性のナルシスあおらーX✨
宿屋のよーこさんX
悩める通行人(X➕モーニング・アドラー)
昨日書き溜めたお経を披露するか悩むくー
森のカタツムリ(フィクション)X
気持ちは声を取戻したマーメイド🧜‍♀️✨
水のコトリ(フィクション)X
火山のバン(フィクション)X
粘土クレイマン(フィクション)X
葉っぱちゃん(くー)
見上げるコビト
見上げるコビト(☠️)
見上げ入道(ボス)※架空人物です
超優越性の追Qダンディー
運営者
風のバグネ(フィクション)X
100%アドラー(濃縮還元果汁1%)
100%勇気!(老子)
TNT(クー)
V
X
X(いす)
kumiko
kumiko(アフターサービス)
x
クゥちゃん

これらを用いて「文字的にはいいこと」を言って、自分は人だ当然の権利があると主張して相手に譲歩を求めて、自分は都度名前を変えて消える。
会話の相手はただただ常に配慮の無駄払いである。
それもご丁寧にログアウトしてから同一だとばれないように名前を変えて入室してくる。
これが複数のアカウントで行われるのでもはや追いきれないのだ。
おおよその傾向としては、柑橘系のもの、男性の下の名前のもの、という傾向があるようだ。
ちょっと前までは「自分のレスにだけ絶賛してくる相手」がほぼなりすましだったことでわかりやすかったのだが、最近巧妙化され無関係な人間も誉めレスを返し紛らわせてくる。

無条件に配慮がされるべきキャラクタとして自身を「女性で、子持ち」だと設定して都度なにかあるごとにそれを言及してくるが実生活的にありえないことくらいは誰の目にも明らかだ。
ただ無条件に免罪をされるべき社会的に最強の存在として女性で子持ちを持ち出しているのだろうけれども、おおよそその知性のレベルと発言のタイミングや内容からうかがい知れる生活とはとうてい釣り合わない。

サタンに多数の名前があることは有名だけれども、まさにこれを体現しておいて「キリスト教が好き」と純真に述べるそれは「ダミアン」以上であると言えるだろう。
教会に向かうのを拒んで暴れるくらいに純真なファッションとしての悪をもっているならまだ善意の痕跡を確認できようものだろうけれども、笑顔で教会に出入りしてこともあろうかそれが好きという悪意ほど暗く恐ろしい悪があろうか。