宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

空前のエクソシストブーム

昨年は、エクソシストブームであった。 ヴァティカンのエクソシストが日本で劇場公開され、空前のヒットから再度エクソシスト熱に日が着き、だれもかれもが怨霊や悪霊、悪魔に憑いては離れ世はまさにエクソシストブームなのであった。 呪術廻戦にしても陰陽師にしても、エクソシストの影響によるものと言わざるを得ないだろう。 実際には逆というか、いわゆる時期的に発生する定番メニューであり基本的には同じ展開である。少年漫画のように新しい技やキャラクターが発生するわけでもなく新しい概念や哲学を披露する場でもない。 少年漫画は必殺技の名称のために使われる素材の一つに近年抜擢されただけであり、陰陽師は同じ役を歴代の人気俳優が演じるという定番演目、エクソシストも悪魔の形を人の肉をもって映像化するためだけというものなので、ハズレもなければあたりもないのが現実である。 私の大好物の地獄が人間の体温ですっかり冷え切っていたところにまた「クー」が燃え盛る血を注ぎ込んでくれてまた人の脳を焼いてくれていて大変助かっている。 真に賢い人間が登場して退治されたい、と目いっぱいの自信を滾らせて発言の活動がある人間に「人間にしてはよくやっている、合格」という儀式を行ってくれている。 心理学や哲学、宗教に精通していて、かつ直感的にそれらを理解してしまう頭の良さが自慢の「クー」である。 しかしながら、はたから見れば「いまの自分が社会的にどういう立場にあるのか、それを省みればその自慢の評価結果が現実にはどういういものか推し量れよう」というものである。 その現実と空想の差を埋めるのがオープンチャットであり、自分の意のままに人間どもを操作することができるのが「アドラー心理学」という部屋である。 同じタイトルで繰り返し同じ演目を繰り返すのに、なぜ新作が出るのかについて話す機会を、その知性の低さでもってして人を欺けるのはなぜかという事に並べる事で説明の機会があるのは悪意の存在価値だろう。 宗教が苦手と言われるのはその不透明な部分や教養的な部分を説明する人間がいないからである。そしてそれを知らないまま使う事に躊躇がない民族性や文化の醸成という背景もある。 人を罵倒すれば気持ちが良くなるが名誉棄損で訴えられて実刑を食らうのに、実刑になるかどうかはわからないし名誉棄損というものが何かわかっていないのに、気持ちよくなるために人を罵倒する人は後を立たない。 つまり実行して気持ちよくなって実刑をくらう人は、いなくならないのだ。それを気持ちよくなる手段として選択し得ないという教育や環境がなく、説明ができる人間がいないのだ。 自分にされたらいやな事を、人にしてはいけませんよ、それは人からされる事を許容してしまうので、という定型句と「もしもあなたがされたら」という例を持ち出すまでしか現在の日本には言葉が存在していない。 人に抑止抑制をさせるために、日本人が現段階で可能な干渉行為は暴力か罵倒しかないのだ。それで嫌な思いを体験させ、それをもって教育としているのだ。 心理学や哲学というタイトルの旗印の下に集まる人間は「天然水というラベルの貼ってあるペットボトル」だから中は天然水だという体勢でもって、水を使う場面動作全般に「それは水だから」という理由だけで対処をする人間が多い。 つまり過去の心理学や哲学の学者が書いた本の一節を持ってくればそれはまるで悪魔を払うかのように、常識的で一般的な常識を払拭し自分の勝手な妄想をそこに据え置き芸術作品かのように干渉し恍惚に浸ることができるのだ。 人間がひどい姿に変形し悪態をついて超常現象を引き起こすという描写によく似ている。エクソシスト映画に悪魔が絵として出てくることはない。出演者、全員人間である。 ペットボトルに貼ってあるタイトルが水であったり石油であったり、書いてあればそれはその機能をする「そういうペットボトル」であるのと同じである。中身が問題だとして中身が出てこない話をしているのである。 国語の読解力や情報の理解力というのは、それを他に利用することができる点について問われるべきで、それが不要であれば録音装置と再生するスピーカーがあればよいだけである。 それらを完全放棄しはじめた傾向が「クー」にはあり、基本的に個性がないので一次的ではあるけれども画像の貼り付けに必死である。名言のコピーを画像にして張り付けているのである。 Facebookやインスタグラムではよく見られた傾向なのだが、それを画像にすることによって「威厳のある発信者」からの直接的な発言なのではないかと勘違いする人間が少なからずいるものである。 不幸の手紙が届いたら、その巨大で闇深い恐怖に慄くわけだが、実際それを配達する人間の手が手渡しをしなければ、途中で紛失したり破損したり、届けられないという状態が発生すればその不幸の手紙は届ける先に到達することはないのだ。 名言がどんなにすばらしくその本人が書いたものであることを自身が受け渡す際に加工をしていないという証明として包装したもので相手に渡るようにしたとしても、手渡しした人間の責任である。 それが画像ならば、受け渡しをしただけ、自分は仲介をしただけ、その言葉の責任は発信者本人にありその責任をそのままお届けするために手垢がつかないように画像にパッケージ封入をしてお渡ししたのである、と通用すると思っているのである。 稀にその効果がでる人間がおり、そのため不評被害や詐欺被害が発生する際に無関係の一般人が加害に加わることでその被害をさらに大きく、犯行の一助となす事がある。SNSなどではそれが顕著に大きくあるだろう。 人に差し向ければレッテル貼りという名称で忌み嫌われる事として有名にはなっているものの、それすら気兼ねなく行う「クー」であり、説得力のある言葉を人にぶつけたいだけという物理的動物的な欲求を持っているのが「クー」である。 これはもう肉欲や性欲が高まって行き所がなくなった若い男性の異常な思考形態に近いと思われる。実家がお小遣いを出してくれているだろうから、そのお金でその欲求を解消する術を見つけてほしい。本物の犯罪者になってほしくないという老婆心である。 その人にものを手渡すときに手渡した人間がどれだけの割合を、責任として持っているかという配分は被害者という立場から問う時には狂ったように大きく問う。 自信が被害者でなくても代理として執拗に請求することが最近のSNS界隈ではよく見られることはニュースになっている事件の多さからもわかるだろう。 私人逮捕や暴露系、犯罪被害者や犠牲者の声を代弁することで相手に社会復帰ができない程度が打倒な対価なので支払うべきと迫る人間やそれをもとに事件になったものの多さである。 なんの役に持たないため、それを使う場面の想像力を養う目的で学習課程に組み込まれた一文や、それにまつわる人物や事象から引用して一文をもってくることが頭の良いことであるという教育の結果の産物がこれである。 人がみんな違っていてそれを評価して善いものとするというのなら、言葉自体を発する事すら意味がなく、いいねと常に発信するボットが自分の所有する現金を見るや否や募金をするくらいであるべきだろう。 それがまったく反対の意味として、発した言葉について強烈な背景と尋常ではない状況に置かれた人間が、その状態に屈せずまたは脱出してから描写を言葉にしたものがあるという事に気づきはしないのである。 エクソシストの構図で言えば、有名どころなので誰でも知っているところだろうとは思うが、祓う側が呪文を唱えて悪魔が苦しんで出ていくというものである。 西洋のものがうけるのはその背景の不明さであって、不明なところに自身の見たいものを適当に詰め込むことができるから、日本ではヒットするのである。 不透明な部分をだれも説明しない、そこに入れるものは視聴者各位の好きなものを入れてみんな違っていていい、という事なのである。 そうすることによって何が発生するのかと言えば、その薄暗い謎の不明なものが自分で語り始めるのだ。偶像の崇拝するものである。 笑えるシーンやギャグがある部類の、除霊やエクソシズムものやホラーものには神の姿も声も出てこない。戦うのは人間である。しかし悪魔はありありと像を出し語り具体的に実在を見せる。 「なぜ悪魔だけが存在し、神が見えないままなのか」について言えば、実際に問題を解決するのは実際に責任が発生しているところの者だけだからである。 神が悪魔の存在を許容しているのか、悪魔を作ったのは神なのか、人を苦しめるのは神なのか、について「神」自体は無関係で責任はないのだ。全てを創造していたとしてもである。 神によって堕とされ作られその悪行を神の許容範囲でのみ行え、神の名の下に代行者である人間がそおれを否定すれば行動は直接さえぎられるのだ。 現場にいるのは全員責任者である。そこを「クー」は自分以外の全員について強制的かつ一方的に存在させることで責任を問うが、自分は無関係だが自体を全て掌握している「神」であると名乗るのだ。 そんなもn存在しないので全体の罪を創造している悪の権化、呪いの権化で悪魔そのものである。 人に害以外を与える事一切を否定する、否定により全てを掌握している実感を撫でまわし恍惚に浸った自分の溢れる欲望で作られた粘液に肩まで浸かる姿は人のそれをもはや大きく超えた悪意そのものである。 これをほとんどの常駐メンバーが「善い事」に分類しているのが、地獄の描写として非常に美しくある。 細かい話ではあるが、エクソシストが悪魔に打ち勝つという構図は神の言葉を借りて召喚魔法のように神の力を呼び出してそれをぶつける事によって除霊をするわけではない。 そんな構造的に悪魔を退治できる手段を選択して退治する系統で言えば「コンスタンティン」である。基本的な構図はまったく一緒であるが描写が異なる。 海外のエクソシストの映画で行われるのは、人が神の力を借り物ではあるが手から出すことができ、それを悪魔に当てることで追い出すわけではない。 日本の除霊や陰陽道と方向性が違うのがここである。エクソシストは信じる気持ちを持った人間が神に赦されると、それを証明として悪魔に当てる事で退治ができるのだ。 悪魔が恐れおののくのは神に守られた人間の存在そのものであり、人間の役割は威力を発したブロジェクタイルのようなものである。射出する構造や機能は天国にある。弾丸の強度が一次的に加速によって高まるのだ。 日本の場合にそれが異なっているのは、人間自体は弱いままなのである。借りてきた力を貸主が高い威力のまま悪魔にぶつけることで退治ができるのだ。 借りてきた名言の画像を張り付ければ、だれだって同じ威力を出せるのである。銃社会ではないのに構造が銃社会であり、銃社会のほうがむしろ人間の存在を弾丸に見立てる構造になっているのは面白い。 銃というものをよく知っているからこその落とし込みなのかもしれないし、人の行動範囲や価値基準といったものが社会の中にあり社会から借り物だけで生きている仕組みの違いなのかもしれいない。 その自身の価値が高まるという構造の中には借りてきたもので強くなるという要素がないため、お札や聖遺物は武器として出てこない。主人公が手に持ったものが武器である。 日本の場合は道具であればだれが使おうとも威力を発揮するのである。社会という機能ではないのだ。個人の個別の対応で大きな威力を期待できるため、個人の裁量で事象を解決するのである。 まずこの根本的な異なりが異なった方法を選択したときに大きく道をそれ、誤った道が無意味な結果にたどり着く事を助長することになる。 借りてきた名言で相手を退治できるので、自分は偉いという、どこにも接続する関連性がないまま最後の「自分は偉い」を獲得するだけという構図なのが「クー」であり、日本人にはこれを問題視する手段が少ない。 死ねと書く事は最初にその言葉をつくった人間ないしは悪魔の責任で、それを書きはしたがその字は自分の責任とは自分がそれによる影響で物理的にプラスになることがなければ無関係であるとするのだ。 受け取った人間がいたとして、その人間が自殺でもしようものなら責任は「死ねと書かれた紙」を渡した人間であり、書いた人間も同一人物ならばその責任はすべて書いて渡した人間にあるはずなのである。 ところがそんな紙や行為はなんの効力もないことは「他事例で証明されている」ので、書いて渡した人間には問うべき責任はなく、読んで勝手に死んだのだから被害者本人の責任だとする。 そんな事は異常だろう。だれもその書いた人間渡した人間を許すことなんてできないだろう。 しかし「アドラー心理学」の部屋では直接被害者すら、基本的にいい人だからと赦す傾向すらあるのだ。少しずつ村人が減っていくのにそこにいる人らしきなにかが人の皮を被った熊か悪魔かなにかとは問わない。 自分を食ってくれる寄生虫のような悪魔を体内で飼う事に意義を感じているのだ。 チャットルーム内で発言された単語をしゃべるから、まるで人のような形をしているから、それが借り物で遊んでいるだけなのでレッテル貼りや虚像の一人歩きをさせていたとしても、神でもないが許してあげよう。 それだけでも人の枠を超えんばかりの勢いの慈悲であるか、人間以上のものや自分以外にまったく興味がないかのどちらかである。 ただ自分が神であるというポジションに居座り高みから他のメンバーの頭を撫でてやるというプレイが好きなだけならば、それだけでも大概に迷惑な話でありそんな無用なもので恍惚に浸る顔を見せるためにコミュニティにはいてほしくないものではあるが、そういう性癖ならば仕方がない。 しかしその歪んだ自論を展開することによって、同室のメンバーが異常な行動を正常だと理解して同調していく姿があまりに惨すぎる。洋館に架けられた古くとも色あせていない、見た者の目をそらすことを許さない地獄の絵画のようで、甘く楽しみに溢れている。 アドラー心理学と銘打っているからには優越性、劣等性、共同体という単語が出てくるが全てがその引用されるべき内容から酷く乖離している。乖離だけならばまだ間違いですむが、独自の偽情報で埋めてくるのだ。 造語のように単にコミュニティ内で連携を生み出すために独自の言葉を使うようなものではない。完全に悪意でもって方向を間違うように選択させる手段として、自分の都合のよい解釈を読み上げるのだ。 どう見ても崖しかない方向に指を指し示すのだが、人の適応能力というか能力としてなければ生み出すエネルギーに変えてしまうのがすごいのである。 この記事を書いている最中、もう帰ってこないという宣言をして「クー」は退出しました。あの人間の汚濁をさんざんかき回した部屋で自分こそが汚濁の根源だという存在がいなくなることで、うっすら全員が暗く澱んだ穢れになっていくのは残念である。 しかしかの狂気を受け入れることができる部屋が他にあろうかと考えると、またすぐに戻ってくるに違いない。残っている記録用、自己賞賛用アカウントを使うのかもしれないが、おそら物理的に維持が困難になったのだろう。 いいかげん就職するか受験で結果を出すか、みたいなところではないだろうか。就活で半年くらいはのらりくらりと小遣い生活で通信も必須だということで維持はできるだろうから、時折帰ってはくるだろう。 ガラス越しの地獄はほんとうに心の癒しになる。間違いを恥とも思わず自分で考えた言葉遊びで楽しそうにしている姿は、他人の子供だからこそかわいく見えるそれである。 一時祓われてしまったとはいっても、すぐにまた受肉してもらいたいものである、と締めたい所ではあるけれども、結局名前をコロコロ変えて今朝も入ってきているのである。 悪魔がそう簡単に誰にでも憑くわけではなくドラマになるのは、居場所を探すのも一苦労なのだろう。