宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

知覚という麻薬

知覚は時に麻薬的な効果を発揮する。
自分の外郭を認識するのに知覚を利用することができ、それをありありと継続的に知覚していないと「していない状態がある」ことを認識してしまう事がある。
自分の外郭を認識していない瞬間は、禁断症状に似ている。
自分で自分を知覚的に認識していることで安心し、無いことを自覚することで不安になる。

一部の精神的疾患の症状に「狭いところに挟まっていると安心する」というものがある。
猫の類も多くはそれに似た傾向があり、箱や袋に収まるのが好きという事らしい。


言葉で元気づけたり、言葉で安心感を得られることは言葉によって具体化され現実味を帯び認識できることで精神的に不安を払拭できるものになり得るというのは、そういう効果を利用しているのだろう。

自傷癖や身体への刺激、状態の形成、ピアスやタトゥー、化粧や洋服の選び、対外的評価や階級、職位に対する感覚にはそれらが効果を表しているのかもしれない。

自分の体がそこにあることを知覚するために傷をつけたり、危険にさらすことで「危険がある」と認識することによって存在を確認できるようにするため、わざわざ不要なところでそれを活用しようと試みているようにも見える。

不幸自慢や、極端な幸福自慢もその類だろう。言語化された評価や結果をもってして関連性の高い順位にその評価と同等を得ることができる、それが自分であると言うがために。

 


うんなんなら鶏を殺したり、ペットを虐める人だっているけど、それも許容してもいいのかも(OK)✨
広い視点大事
2024-02-21 11:58:00 
 
私はヤダけど
🍗
2024-02-21 11:59:00 

 


この日のキラーワードは「認知症は個性」。

とりあえずMRIが何かわかっていないという致命的な問題についてはさておき、さんざんに他人をレッテル貼りなどではすまない程度に「生ものドラマ」を脚本家がごとき執筆で無関係な社会や企業、人の歴史にあてはめて怪演している。

自分が嫌な事を言う理由は何か。嫌ではないから、もしくは嫌な目に合わせたいから、であろう。自分がされていやなものをするわけがない。
自分が食べないものを食卓に上げるわけがないのである。
それをあげて、私は食べないけど、とはどういう意味か。お前たちに食わせるためだとする以外になにがあろうか。

しらんけど、とは引用で他人のものでそういう見解があることを自分たちには関係なくとも「引用」をしようというもので、その言葉の効果で雰囲気が壊れようものなら発言者の責任である。
持ってきたものが何であれ、その場所についての責任はその人間にあるものだ。

「クー」は名前をコロコロと変えて自分はいないので、どこのだれかが勝手にもってきて、自分は関係なく消えて、他人に言及されることなく存在がないので責任もないらしい。そういうスタンスである。
なので気軽に食卓にゴミをあげることができるのだ。さあ召し上がれと言えるのだ。

 

悪魔に名前があり、言い当てることでそれを制すことができるという「幻想」は人間の都合でに人間の限界に合わせてでてきたものだろう。
「ルンペルシュティルツヒェン」にあるのは、現代的な安心という上辺だけの状態を称す事に収まるべきではない。
名前を付けて安心する程度ではないのだ。そこが人の限界であることに気づいて危険性に注意するべきである。
名前がないモンスターがどれほど恐ろしいものか、ハリーポッター浦沢直樹のモンスターも、名前を言い当てられない限り邪悪な行動を繰り返す悪魔も、さまざまに表現されてきたが一般には「安心しないもの」程度に収まっている。
犯罪の被害や事故の遭遇がどれほど恐ろしいものか、それらは「認識の外からやってくる」という手段自体が恐ろしいものであり、名前をつけることで「手段が具体化し物質化した」ので退治ができるものだと言うわけではない。
認識の外を具体化しなくては人間は表現をし伝達し理解することができないため、物語になった時点でそれはこの世のものである何かの一つにすぎない姿に変わり果てるが、名前の無いもの、認識の外は常に人の世にあり隣にあり、いつでも襲ってくるのだ。
その名前がないを体現することで「クー」は好き放題存在を誇示しているのだ。
なにかを言えば人がいっていた、偉い人の言葉にはこうある、みんながしっているこれは、と隙間から手を伸ばしてきて、名前のある現実のものたちの足をひっかけ現実の負傷をさせようと、負傷した傷をもってして自分の存在証明をしようと手ぐすねを引いているのだ。


死や悲観や悲愴、痛烈で悲惨でまさに地獄を顕現させることで、さあこれがないと幸せですよね、と具体的な幸福を探す手段しか得られていないのか、得られていないという設定でどう人間が足掻くのか見ている人間がいるという事なのである。
ないことが幸せという、幸せが無から生み出されるためには痛みが必要だという「現実主義」なのかもしれない。しかし無は現実に存在しないので、それは現実を見てはいないのだ。

痛みが発生し、幸福が相対的に生まれるとしても、まず痛みがどこから生まれてきたのかということになる。それが無というポジションの自分自分の口からだという事だけで現実の確証になるのだろう。
口から災いしか生み出さない、まさに聖書にある獣である。数千年前からそういう人間はいたという物証なのだろう。

幸福を知覚するのに交換条件は必要ないし、幸せな風景をたり、むしろ見る事すらなくとも幸福を想像することで幸福は満たされる。条件や状況によって得られるその幸福感に似た何かは、状況の変化による満足感である。
満足感も幸福を引き起こす一因ではあるが、満足は幸福ではない。安心も達成も、無感覚ですら幸福になり得るが、幸福がそれらに転じるわけではない。幸福は到達点であり、幸福になるための条件はありとあらゆるものが含まれ経緯であり経路であり、要素なのだ。

不幸をもってして得られる麻薬的な知覚の認識による充足を幸福というのは、中毒症状のようなものだろう。
麻薬を提供して禁断症状に苦しみ泣き叫ぶ相手に慈悲の心をもって接する事で救済の神になりきった感触を得たいのだろう。

ホラー映画に「着信アリ」というものがある。そのストーリーに添加されたアクセントとしてのスパイスに「代理ミュンヒハウゼン症候群」というものが出てくる。
やさしいお姉ちゃんになるために、傷ついた妹を作らねばならなくなってしまう病気だ。着信と霊のホラー要素に直接関係があるわけではないが、あどけない子供ですら怨霊に変化させる隠し味として風味を出している。

この「絶対的な幸福などあり得ない」という感覚は、幸福を理由なく感じた瞬間がなければ想像できないものだろう。
それを味わうためには多くの人間関係と経験、それに裏打ちされた重厚な人生があってこそ、記憶のそこから醸成されるものでそう簡単に味わえるものではない。
時に幸運にもそれがかさなり若くして幸福とは何かを体験する人もいる。不幸にも長く生きてもそれを見つけることができない人も多くいる。
偶然にも幸福とは何かを知らずに、ただ幸福らしきなにかを気づきたくて人を傷つけつづける人も、偶然ここに「クー」としていただけなのだろう。

人の不幸が蜜の味なのは、経過を持たずに結果だけを得るからである。肉が旨いのも蜜が甘いのもその経過を知らないが故である。
それを知った上で旨さや甘さを感じる時に人が出す感情は「感謝」であり、感じる感覚は「幸福」である。

旨い肉をむさぼり甘い蜜を舐め、幸福とは何だろうと考え、これらが得られるのは奪われ殺される苦しみがあるからこそ旨く甘いのだと、経験から現実を見て知覚するのだろう。

ということは、「クー」は感謝を知らない、犠牲も知らない設定なのだとうかがえる。これを作った人間はかなり緻密で人間に嫌な感情を植え付けるためだけに特化した怨霊に近い存在なのだろうとうかがえる。

もし本人が本人の意思でそうなってしまっているのだとしたら、ぜひ治療が必要なので「幸福」とはなにかを認識するに必要な補助を受けてほしい。
現在の日本にはそれができる準備がある。異常なまでに欠損している幸福への条件をそのままにしておくのは人間社会にとって、なにより本人にとって良好とは言い難いからである。

他にも、どんなに残酷で非道を想像で尽くしても出てこない思いもよらない言葉や表現を、「クー」やすやすと出してきて幸福とは何かを、誰かに問う。