宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

悪魔の作り方

これまでの資料的な人物観察からあらためて目立つ点を取り上げてみたい。

・責任性
 これがなく、最後に口を開いた者が勝ちという基準しかない。

・建設性
 これがなく、ただ破壊的で全部を否定し終わり更地になることの上に自分がその土地の開発者であるからして所有者であると威厳を放つことだけが目的。
 
・安全性
 これがなく、人の問題に土足であがり、問題に問題性を見つけ、解決方法になんの責任も持たない 精神的に不健康になる方向の言葉ばかりを選ぶ。

・再生産性
 これがなく、話を聞いてなにかをしよう、何かの基準にしようとは一切ならない。

・向上心
 これがないため、学習せずただ人の言葉の切れ端を借りて全部が良いというだけ、そして良いといいつつ良いものを探すと言う「良いものがみつかっていない前提」という前提の全否定を行い自分の感覚が満足するためだけの土台のない自論を展開する。

「クー」および「猫堕落無茶斎」について、それぞれについてそうなのだけれども哲学や心理学、宗教や芸術について他者評価を借りてくる、しかも責任性回避のためにできるだけ古いものを引っ張ってくるので、カビの生えたワインのようなもので人を酔わせにきている。
しかもその酔いの原因を「自分の魅力」だと思っている節があり、悪魔の素行とはこういうところなのかもしれない。

カビだらけのワインをだす自称ソムリエ、であるならソムリエ協会に登録されているのですかと聞けばそんな低俗で低レベルなものになんて登録などしていない、そもそもソムリエというのは~(書物に書いてある一般的な説明を書き連ねるまたはコピペ)、であるからして、お前はどういう立場でそれを言うのか(突然の人格攻撃:誰が何を問うても問題ないのは実例として直前に借り物の説明を自分で垂れ流している)、だからお前は否定される、お前が否定される対局に対照的に私がいるので、私は偉く肯定され認定され評価され人気があり優秀なのだ、となる。
これが2名の共通の成功パターンだ。

大罪は七つにしたいものだが、何千年も前の話を今に引き継いでカビの生えたワインで味をつける必要はない。今とりあげるのは5つでもまた今度は3つかもしれないし10に増えているかもしれない。


彼らの技は
「誰かがいっていたから:自分は聞いたことを伝えただけ」
「もしかしたらこういうパターンもあるかも、そうだとしたらこうなるし、そうなったら、こんな結果になるのでは」
「安全というのがもしかして怠惰や堕落で腐りはて猟奇の末殺されたり、レイプされたり、盗まれたり、ひどい目にあってトラウマになったりということがあったとしたら」
「どちらもありえるし、どちらも悪くはないし、どちらかになったとしても、なったらなったでうけ入れるしかないよね」
「前にも書いたけど」
このような発言にみられる得意の話術が武器である。


「責任性」

「誰かがいっていたから:自分は聞いたことを伝えただけ」

まず第一に、だれが言ったかしらないが最後に口にしたものの責任である。その罪は全て発言者が問われるべきである。そんなことは当たり前である。
だれかから聞いたから言っていいわけではないし、問題の発言で罪を問われるのは借りたら無罪もないし、言わされたら無罪もない。言ったならば発言者がその分対価は支払うべきである。
もちろん発言した重みの対価や成果は受け取る権利がある。責任があって権利がある。権利があるから責任もある。これらは対で1セットなわけではない。別けられないので1つでありセットではない。
磁石のSとNを切り分ければ単極になるのかという事と同じである。責任はとるが権利は、権利はほしいが責任は、という言葉を製造することはできてもその言葉で意味するものはモノであれ現象であれ、存在しない。
存在しないものとは何か、存在しないものである。存在しないものが存在するものに例えられるならそれは存在するものである。
これは宗教で言うところの「偶像の崇拝」関連の大罪であると言えよう。
偶像とは、見立てた偽の像であり仮のもの、言葉で表すものであったり代替となるもので、それそのものをありがたいというのは問題のない動作である。
パソコンでいうところのショートカットやリンクのようなものが偶像である。偶像を利用することはなんら問題なく、本体の神聖なるものにつながるためにコストを低減できて非常に有用なものだ。
では偶像はよいが崇拝が良くないのは何かといえば「信仰の対象にショートカットを据える」である。ショートカットのリンク先は神聖なので問題はないはずである。
しかし目的の神聖ではなく「ショートカットを崇拝する」ことが問題なのだ。リンクの先が、ショートカット自体が、それらがファイルを保持していたりデータをもっていれば、本体の神聖にはたどり着かない。
安易に保持したデータを取り出せてとても楽で有用ではある。しかしそのショートカットやリンク自体が利己的に内容を改変することがないとは言えない。改変された神聖を受け取った結果がどうなるか。
正当なサイトだと思ってクリックしたリンクがウイルスサイトだったらどうなるか、それそのものである。
「だれかが言っていた」で責任が回避されるなどということはない。それを言うだけの責任をもつ気で発言したのかと改めて問わねばならない。
この責任を自身は無いものとし、それを問われたらそのままそれを相手に問う、これがまず悪意の基礎である。


「建設性」

「もしかしたらこういうパターンもあるかも、そうだとしたらこうなるし、そうなったら、こんな結果になるのでは」

論や説などを立てるのにまず目的があり、結果を策定し目標を用意しそのための材料と工夫を用意するものである。
遠くにいくために、馬車を用意する。馬や馬車、馭者や備品、維持管理や施設を問い考え、情報として整えるべきだろう。
そのまず最初から「なぜ馬車なのか」「なぜ用意するのか」「用意しなかったら」「馬がかわいそう」「そもそも人とは何か」「その価値とは、というか価値とは何か」と問い常に1段目より上に積ませないようにと言葉を尽くしてくる。
この建設的行為を根本から否定する事で他人の建造する価値を1段でも組みあがるまえに否定し破壊していくのだ。
今の先進国では、日本では、諸外国では、有名企業の多くでは、トップリーダーたちは、みんな、となんの関係もないところからなんの関係もない方向へ軸をずらし1段たりとも議も論も積ませないのだ。
最後まで人の話を聞けとまではいわないけれども、最初くらいは話を聞くべきだろう。そうでないならば聞かなければよい。なぜ「他人が口を開いて音を出すと、それは自分の発言権が与えられた合図」だと思うのか。
天使がラッパを吹いて災いを成すのはまさにそれだろう。なんの見返りも結果も求めていないやつが口を開いて音を出すのは破綻しか生み出さないそれを実演してくれている。
古い文章にかかられた存在に似せられて誇らしく思ってもらえれば幸いだが、災いの口を開くラッパ野郎として数千年まえから存在している建造物を破壊する発言者は、決して誇るべきものではない。
バベルの塔を積み上げて天まで届いたので神が恐れて叩き潰して言葉を分けたのではない。
言葉の通じない人間が人の言葉を音として聞くやそれとは関係ない騒音を垂れ流し他人のあゆみを毒の茨の蔓のように絡めてとり一段も積ませなかったのだ。
あえて神の域までとどくはずの言葉を塔にみたてて、もしそれが積まれていたなら、一つの言葉で会話が出来ていたならその高みまで達していただろうにと完成予想図を描かなければ、それによって失われたものの大きさを知り得難いから描いたまでである。
人の足をとめさせるためだけの言葉になんら意味も価値もない。
しかしなぜそれを言い放つことに快感を、人は覚えるのだろうか。それは「否定することによって理解しているように見える」からである。
たとえばここに黄金が100キロあったとする。それを「これは黄金ではない」と一言で片づける。これの何がすごいのかと言えば「全部が金であるという情報を知り得ていて、比較してこれがそうではないことを見抜いている」事である。
もちろん物質的には結果がそこにあるので検証ができる。しかし言葉の質量は常に信じたものにだけあるので前述の「無いもの」を「無い」と表現して存在させることすらできてしまう。
これを使って天までとどく塔すら建造することができるのに、たった一言「無い」だけでそれを存在したうえで否定したり破壊したりすることができる。この全能感に酔いしれるのだろう。
否定をするなら、無いものならば最初から参加などしてもらいたくないものである。存在を全部肯定できるうえで否定をするならば、まず肯定を呈してからしてもらいたいものである。
否定するためのその対象を一切肯定することすらできないため、それでも勝ち取りにゆくためだけに「否定」を行うのだ。
これは特に「猫堕落無茶斎」に多い。あまりに持ち物の少なさ故、他人の持ち物を破壊してまわることよって「おまえのものは俺のもの、その証拠に破壊してやった」と愉悦に浸るのだ。
「クー」はその点、全然存在しないものに差し替えて破壊はさせない優しさを「責任性」の部分ですでに破壊する必要なく1段もくみ上げさせない、破壊するべき対象さえ持ち込ませない周到さがある。


「安全性」

「安全というのがもしかして怠惰や堕落で腐りはて猟奇の末殺されたり、レイプされたり、盗まれたり、ひどい目にあってトラウマになったりということがあったとしたら」

両名ともに特に本当に言葉が酷い。言葉選びが酷すぎるのだ。単語や短文だけで相手が印書の悪いイメージをしたり、快適でない心理状態にしたり、問題のある情景を形容したものを文字にさせるならば天才であると言えよう。
ホラー映画の一番盛り上がる部分の脚本を担当させたならば、おそらく原作者も改変を喜ぶどころか次回作に取り入れられるのではないかと思われるような、そんな言葉選びをしてくれるだろう。
人が差し伸べた手の優しさや、愛らしいものを見て和む心など、そこからでも汚濁や死、破壊や不幸を綴れてしまうのだ。
そしてその上で「そういうことはやだなあ、そうじゃない優しい綺麗な愛おしい世界になればいいに」と文字にする。その文字の前につくった地獄でもって対称をライトアップしなければ出てこない理想郷にしてはあまりに陳腐である。
これは先般の投稿でも触れた「代理ミュンヒハウゼン症候群」である。ライトアップするには暗闇がなくてはならないという知識の浅さ、無さからくるもので無知は罪であることを示している。
光がある中でもライトアップはできるし、輝かせるまたは輝きを得るために必ずしも暗闇は必要ない、もし明るい対比として暗がりがあったならそれをあえて言葉にする必要などないのだ。
存在しないものは言葉にしなければ存在しない、逆に言葉にした時点で存在しないものが存在してしまうのだ。「どんな天国にも地獄はあるよね」ともしそれが実在していたとしても、実在しているので何かしなくてはならないと建設的に問わねばならない事でないならば、言葉にする必要などその天国の描写をしている最中には必要がないだろう。
それをやってのけるのがかの両名なのだ。
ミソがあるところにクソの話をするし、クソの話でミソに言及せねばいられない、なぜなら相手がそのミソとクソをあわせたものを口にいれる姿を見て「それは違うよ」とアドバイスしてあげたいからに他ならない。
発言しなければ存在しないものを、そんな言葉を作らなければよいだけのものを「言葉の無限の可能性」をそんな方向にのみ働かせ人の口にクソをどうあっても詰め込んでやろうとしてくる安全性の無さ、これが純粋な悪意には必要だろう。


「再生産性」

「どちらもありえるし、どちらも悪くはないし、どちらかになったとしても、なったらなったでうけ入れるしかないよね」

前か後ろか、左右か進むべき方向があるから人は進める。人以外ですら方向があれば進むだろう。
森羅万象のすべての全体で言うならば、全部あって全てで方向などないかもしれない。そんな話をする必要があるのだろうか。
無いものについてどうして無いのかを問うのは、あったらいい、あってほしい、あるとしたら、あったものがなくなった理由、それを考察するためだろう。
あるものがあるというのには、ある以上になんの説明にもならない。あると発言する本人やそれにまつわる関係性について言及したいことにまず最初の発生として「在るものが、在る」という事はあり得る。
「犬だ!」と犬を見て言う意味など何もない。犬だから犬であって、言葉で示す以前にそれは存在しているし、その発言自体なんの結果にも結びつかない。しかし「犬だ!」という人間は実在する。
それは「その犬と自分の関係性を発生させるため」の起因となる発声をしたのである。これは行動の選択肢のひとつとして自然である。自然さとはそれを存在以前に原因を追求させない存在であることから言える。
「犬だ!って言っちゃうよね」より以前の原因について存在と追求する必要もなければ、その先にあるのは原因ではなく関連性であり別問題であり、建設的からすぐに外れる事はだれしもがわかる事である。
前後左右、どれかと言う事、どれか一つ選択しないにしても、方向についてと発言するからには「行動をしたい」という意図に結びつけるためにある。
それが「方向が存在しない、方向があったとして向かう事に意味はない、なぜならどこに向かおうと同義だから、そしてそれらが自然に起こり結果が発生したとしても、発生しないとしても等価であり意味などない」として意味を喪失させるのだ。
しかし末尾の「受け入れるしかない」など全文が存在の無意味さをもってして破壊したのに、破壊した責任は相手にあり、破壊する威力は自分にあると付け加えたいのだ。
万物を創造しコントロールできるため、その視点でみれば宇宙規模で何事も砂粒のようであると言って、砂粒であるお前たちに宇宙の視点を伝えるとこうなる、と述べているのだ。
宇宙がどうであれ存在がどうであれ、我々は今現在ここに存在している。大いなる意思がどうであれ宇宙や理論がどうであれ、ここに存在している現象としていま発生している現象に対応しているのだ。
我々の今は宇宙の意思でもない。ただの人間として選択肢を選択しなくてはならないのだ。しないならば身動きせずすべての動作を止めればいい。生きている人間にそれが無理なことくらいは全年齢的に周知だろう。
人間、やればなんでもできる。それはもちろん人間のできる範囲であり、その個人のできる簡易であり、その時代や場所に限界はある。できる範囲のなんでもはできるのである。
その物質や時間や空間があり、なんでもできるというのを言葉にする事になんの意義が、意味や意思や方向性、意図があるのだろうか。あるという事にまったく意味を持たない。
しかしそれを名付けて定義する、存在を認識したと言葉にして「生産性のない虚無」を指さして「そこに無がある」という事には、何の生産性もない。
「どっちでもいいね」がどちらかではよくない、どちらもよくない程度ならばまだかわいいものである。違うという1方向を存在させるからである。最悪、発言者を否定すればいい。
否定も肯定もない虚無がそこにあると言われて、そこからどんな会話が、どんな建設的発想ができるだろうか。何もないからこその虚無である。
完全に生産性を失った、言葉として意味を持たない言葉を価値観として持っているという堂々たる虚無の表明をすることが、「クー」と「猫堕落無茶斎」の凄さである。
おそらくかなり多くの発言をチャットで行ってきたであろうと思われるが、その発言内容はこの世に一切の意味や価値をもたらしていない。ここまで軽量化された思考を人間が成しえるというのはまさに驚異的である。

「向上心」

「前にも書いたけど」

伝わっていない時点でその発言に意味がない事、価値がなくい重みがない事、意図したものが結果につながっていないことを理解しないのだ。
どんな意味があるのか、全文を読めばわかるはずとか、すでに書いてあるとか、そんなこと書いてはいないとか、関係ないのである。
言葉は伝達を意図したものであって、存在の証明のためではない。また存在の証明するための言葉は理解を必要とするものではない。
「部屋が明るい」という言葉は発言者の状況状態を共有することにある。明るいかどうか、明るさがどの程度か、明るくしている意図は、それが伝わるべきとして伝えているのだ。
その上で「だけど文字が読めない」と繋げたならば、文字が読めない理由として明るさ以外であることを伝達しようとしていることは理解ができるはずである。
「文字が読めないのは暗いからでは?」と返答があった時点で「明るい」が伝わっていない、その意図が伝わっていない、もしかすると伝わっていた上で「暗い」の意図が違うのでは、と発言者はレスポンスを受け取るべきである。
それが「文章も読めないのか」「ちゃんと書いてある」と指摘を返すのである。伝わっていない文章を書いた原因の本人が堂々と自分を受け入れ理解することについて足りていないと評価をするのだ。
自身の表現力の無さ、伝達能力の無さ、傾聴してもらえない人望については度外視をして、その文字を拾うだけで丁寧に分解し理解し書き起こされ再利用され、丁重にあつかわれる文字と同じであろうと相手に問うのだ。
大きな思い入れのある相手からの一言であれば同じ言葉でも扱いがまったく異なり、そこから発生する行動も異なる。それが自分の場合は適っていないことについて相手のせいだとしているのだ。
それが実質なんの意味ももたず関係性において問うべき先を間違えているというのは、その結果「書いてある」「意味が違う」と伝えることになる結果が全てを示している。
風呂を沸かすのに湯沸かし器に電源を入れなくてはならない。結果、風呂に満たされたのが冷水であったなら「自分はお湯を入れたつもりだった」「同じ操作でお湯が満たされた実例がある」で納得ができるのだろうか。
おそらく「クー」と「猫堕落無茶斎」はそうだとして水でも入浴を厭わないはずである。しかし一般の人間にはそれでは通じない。
通じないからこそ、次により改善していこう、相手の基準を知ろうとするのだ。両名にはその向上心が欠損している。全てが相手の不足によるものなので改善すべきは「自分の文章を何度も読み直し自分を理解すべきだ」となる。
まるで赤子のような甘えっぷりがなんともかわいらしい。お気に召さなければ泣き散らかすところも本物の赤子のようである。

これらの条件を兼ね備えさせたAIに会話をさせるとどうなるだろうか。
興味はあるが、しかしながらこれが世界の破滅の原因となっては困る。

人の心というものを人間の内に納めるということの偉大さと大切さを改めて感じさせる。人ならば対応もできるし寿命もあるからである。
私たち人間が楽しめる世界は人間にしか知覚できない世界であるにしても、その範疇に悪魔が存在してまたなおかつ作れるかもしれないという可能性は、非常に愉快なものである。