宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

人間観察地帯

「クー」が居場所を確保するために必死にまともな言動に近い行動に出ているのは面白くもあるけれども、人々が求めているのは自身の愛着の場を「他人」との関係による「共同体」として保持しようと奔走するそんな姿ではない。
安寧に達成感の不足を感じ、無感覚に「無」を感じるがゆえに破壊行為を行い他傷行為によって自傷を自覚し、それらを許容されることで自身の特別性を認識しようとする癌細胞のような所業こそ「クー」であるべきだ。
しかしながら最近増えた同族のルームメイトにその役割を奪われかけ、有害な因子が後続の有害を、既存の健全性によって撃破し健全を維持してもらわなくては自分が異常で有害でいるという悦楽に耽ることができないため共同戦線を張っているのだ。
すこし残念ではあるが、有害を成すために健全でいてもらうために独占をするために健全のために、その他の有害性を攻撃するのはまさに人が悪魔を従える構図に近いものがある。
それも含めて破壊を狙うほどの悪性を持っていないのは残念ではあるが、人という枠に収まっている限りはそういうものだとしてそこまでの動作を観察するのが、人としての娯楽というものだろう。

入室から三日ほどでその奇行も許容されてしまい丸まってすっかり毒を抜かれかけている新しいメンバーに、沈静化をみてまた「クー」が狂気を放つかと思われるが、さすがに今の今で自業自得になりえるタイミングのうちに再発動はしないようだ。
すっかり常識人ばかりになってから、それらを狂わせて「異常者がいれば相対的にまともになる」人間が過剰に異常な発言をするようになるまでは、まだしばらくかかるかもしれない。

アドラー心理学」部屋も奇態の集合体であるけれども、「哲学カフェ」というオープンチャットルームも見逃せない。ここの異常者がいらっしゃる。

 

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「猫堕落無茶斎」である。とにかく口がわるく人を貶めるだけの「人間」ではあるが、こちらは老害に近い「耳の遠さ」である。「クー」のような建前はなくとにかく露骨に罵詈雑言を吐く。
それは哲学ではない、そういう事ではない、世界では、どの文学では、何に示された、と豊かな文化に醸成された経験らしきなにかを語るけれども、経験談のうちの「経験した」というフラグだけを自慢するだけである。
他の人間の罵倒できる部分があるとみるや批難を浴びせとりあえず印象が悪い言葉を吐いて、必要最低限とする高いハードルを定めて、定めた発言をした自分はハードルの管理者であるからして偉く尊ばれ褒めたたえられるべきだとする態度を示す。
実際なにがと言えば、表面的な単語で関係性がありそうなものを持ち出し、意味が違うわかってないと否定をするだけである。飲食店でまずいと暴れる老人と同じである。まずいかどうかは本人の舌の具合なので暴れるなら集中治療室ですべきではある。
しかしながらその暴れる行為によって、その行為を許容されることで自身の環境の豊さを自身でのみフィードバックして愉悦を得るため、「クー」に近いものはある。
往々にして悪魔的といえるほど利益を他者に与えず独占的に得ようとしてそのために他者をいかに迷惑に晒そうともおかまいなしであるのは、同種の至りであるというか、当然のそれである。

何も解説せず、共有もできず、ただひたすらに批難と否定だけをする老害が「猫堕落無茶斎」である。その優秀だと自身で誇る発言には一切の学びも感心もない。自分がみたなかでは一番だとか二番であるというご高説をいただくだけである。
それで現金なり仕事なりをいただけるのであれば拝むこともやぶさかではないわけではあるが、不快感以外の何も落とさないのである。
アドラー心理学」でもそうだが「たまにいいことを言う・いい単語を使う」というだけで人間的な価値があると見られているようである。この「哲学カフェ」でもそうらしい。
包丁を振りまわす人間がたまに料理もするので、それは凶器ではないと許容してくれるのはとてもすばらしい事だと思うが、それは狂気の沙汰であるとしか見えない。そう見えない人間があつまっている沼が「アドラー心理学」であり「哲学カフェ」である。

「猫堕落無茶斎」が所詮は人間、人間の域を出ないのは居場所を守るために成りすましたり堂々と間違いを言い放つという事ができない、恥に弱く部屋の管理者に敵対されることを恐怖するところからだろう。
優等生として扱われながらいじめをしたいという子供の心理に近いものを感じる。暴力や虚構に落ちたくはないが、常識的であるのも評価に満足しない、いかに常識的な土壌で暴力的になれるかというところが「人間」らしいだろう。
人間だからこそに汚く面倒で厄介ではある。しかし所詮は人のつくった部屋にいさせてもらってその限りで暴虐を許可してもらう、自身で暴虐と批判を許容できる範囲を作成できない人としての憐憫の中にある事は残念である。

自身で喧嘩部屋なり批判部屋なり、または哲学の部屋なりをつくって人を呼び込み悦楽の限りに批判や罵倒、暴言を放てばよいものを、管理をすることも人を集めることも、それを許容するコミュニティの形成やルールの策定、条件の設定などできる知性を持ち合わせいないのだ。
やればできると思い込むのはこの手にありがちな事で、なにかといえば面倒だといって罵詈雑言以外の言葉や説明を避ける。親族の不幸で会社を休むのもその頻度で出されるとさすがにもう死ぬ親族はいないだろうとあきれてしまうものだ。
いつまでも面倒だという言葉で避け続けることが優秀であることの証明になると信じることができるのかという所が神経の太さであり、その太さであるがゆえの鈍感さであり、その破廉恥な痴態を堂々と晒しているところこそ可愛さでもある。

なかなか香ばしい人間が、哲学や心理学、悩み相談や知的好奇心に関するタイトルを冠した部屋には、いるものである。

「哲学カフェ」ではそこそこ哲学的なもの、議論的なものを行おうという気概がありただ無意味で無関係な「猫堕落無茶斎」がいるだけというおかず逸品にふつうのごはんだけという彩ではあるけれども、「アドラー心理学」が「異常者を見て正常になっていくだけの治療部屋」になっている現状から脱すまではたまに覗いていきたい。

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