宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

依存と中毒と、責任

LINEオープンチャット「アドラー心理学」では、とにかく定義があいまいな単語をあいまいなまま使う事が多い。
よくわからないものを扱うときの高揚感がたまらないのだろう。ヒーローものがヒットする要因でもある。
そのすごいものをなげたら、どんなことになるのだろうか、その高鳴る胸が動作することによって得られる快感がたまらないようだ。
結果について考慮することがないから、大体の場合悲惨なことになる。そんなつもりではなかったのに、傷つけるつもりではなかったのに、痛い目をみるはずではななかったのに、となる。
結果のわからないものをわからないままに使っているのだからそうなるだろうことは人間、20年程度も生きていればわかろうものだ。そこで成人として自己責任において行動を許可される。
18歳に引き下げるだけの理解度が社会の成熟度として、なにかしら計測できたので下げたのであろうけれども、何歳になってもわからぬ者は必ずいる。

たとえば依存に、責任という単語だ。使えばかっこいいだろう。なにかしら影響があり、反応があり、自分がそれに言及することで「まるで異世界から意味を取り出して来たような召喚師」にでもなった気分になるのだろう。
なったからといってどうなのかと、責任はあるのかと問いたいところだが、人の被害をもってして自分の存在証明とするやっかいなポジションが「容認」されている環境だからこそ、皆無責任に投げ合うことが、自己の価値観と羞恥心において許されている。
そんな無法地帯が「アドラー心理学」部屋なのだ。

 

辞書を引けば定義された言葉がおいてある。当然の事である。そして意味を問われればそれを引用してくる。議論や討論などのチャットではよくあることだ。
そんなものそのまま使われているのであればそこに張り付ける必要などない。そんな意味で使っていないから、使われていないから、使っていると認識されていないから問われるのだ。
張り付けるという行為は、自分が初めてその語彙に触れ理解をしたという表明なのだろうか。それまでの不遇に触れて相手を傷つけないように、その無知さを暖かく見守ってあげたい。


たとえば依存、依存とは何かと問えば、大辞林広辞苑か国語辞典かグーグルか何か、検索して読みもせずリンクを張り付けてくるだろう。
そして「こうありますけど」と付け加える。
そんなこともしらないのかと嘲笑し、その動作の快楽に酔いしれた雰囲気でもって自分を高めて自尊心を保っている姿にうける印象は、手に持ったおもちゃの車が本物のカーブランドによる実車だと思っている子供をかわいいと誉めてあげる大人の心地である。
自分が尊いと自分で思っている、そうでなければ起立している事も保てないか弱い「名前のないなにか」をそこに実在させてあげる事は、黙認してあげること、黙してはいるが認識してあげる事だけである。

チャットルーム内で話題になっている「依存」は全般的なもので表現するなら個々に多岐にわたるのでどれとも言い切れないが、主に「価値観の主軸」としてのありかの話をしているようだ。
依存をするとどうなるかという一次的かつ直接的な影響についての話、ことに悲惨な話と二次的に「その影響によって悪い結果になること・なったこと」へのな話が中心である。
依存の話などしていないのだ。依存という単語を持ってきて辞書の一節を貼り付けはしたが、依存の話などしていないのだ。依存によって、また他の何かでも起こり得る悲惨な話が人に起きる可能性があり、事実があり、それがない自分は幸運で高位で、優秀なのだと品評をするだけなのだ。

辞書の厚い説明など実質には不要で「選択の判断に中心的に位置するもの」が凡そ依存の具体的な説明で済むだろう。この表現に同意が得られなければ他の表現や意味を比べあってコミュニティ内でコンセンサスをとればよいだけである。
それが辞書にない表現や定義、言葉だとしても通じる事こそが人間関係の意味であり、そういう意味では人間の関係性をもってない部屋だとも言える。人間のあたたかみが感じられないからこその涼しさと清潔感に酔いしれているのかもしれない。


そのガバガバの隙間があるからこそ、悪意がどこにでも入りこめる。「クー」が存分に呼吸をして、しかも排除をされないという理想的な環境なのである。

名前を変えて、とにかく不幸で陰鬱な単語や事件を口にして、相手を貶め人形遊びのように人の人格を素手で弄りまわし、抵抗でもしようものなら自分は女性で子持ちなのでそういう事を言わないでもらえるかと、同じことをされると拒絶をする。
では「クー」がとっている行動が不可逆であることに誰も異常性を感じていないのか、と言われると一般社会でも未成熟な場面ではよくあることだろうとは想像できる。
女性で子持ちだと無条件に正当性を持つという事について、とにかく文字で埋めるという事ができるチャットルーム内では、その特権を利用する人間は複数存在している。
もとよりヒステリックで関係ない会話をする人間はいるもので、実際に人間であるという基盤を持つものならば固定的ではあるので回避が可能である。
「クー」は流動出来で変動しなりすましを好みなりきりで、一人でログを進めたりするものだから回避が難しくもある。

自分が存在しない、ということは責任の回避だろう。責任とはだれも背負いたくない負債ではある。
名前を変えないことでだれかという身の証を、仮想の中であってもたてることは責任の一つにあたるだろう。それをまずしないのが「クー」である。
次にどこにあるのかもわからない企業や国の風習や習慣、事実をもってきてさもある事のように問題として問うてくる、根拠を持たずただひどい判断だけを人にさせようというのが「クー」である。
存在しないものについて、どれだけ悲惨な思いをするかと問う事について、その言及した仮想をたてた者の責任にするのはお門違いも甚だしい。
火薬をつくったのはノーベルなので、今ここであなたを撃っても責任はノーベルにあると言われれば納得するのだろうか。

 

責任とは、という文脈も何度か出てはいるようではあるが、責任の話をコンセンサスが必要だという認識でされた様子はないようである。

代理戦争や空中戦はだれしも好きな事ではあるので、相手が勝手に大きく捉えてくれるだろう自分の知らない単語を投げあってどこかに着弾して大きな被害がでるのを他人事として見ることは、だれしもにある残虐性である。
これをあえて否定しようとは思わないけれども、それを気兼ねなく広げる場所であるのかと、看板の「アドラー心理学」について問いたい気持ちはある。

 


「無意識の自分と意識の自分を一致させること(ひとりごと)」

自分の定義を人に晒すというのは自分自身の人格に近い部分を晒す事になるので不安があることは理解できよう。独り言やなんちゃって、しらんけど、と予防線を張って保護することは当然である。
個人が定義している価値観に誰が物申せようか。人の心に手を伸ばして直接触れる事ができる人間などいるはずもないのである。
しかし、言葉はその付近に届かせることができる。心無い一言はこういった場面でなくと出せはするが、晒した瞬間は無防備であるため過剰に防衛的になることは仕方がないにしても、勇気は称えるべきだろう。

実質これも「クー」の一人なのだろうけれども、他のだれしもが個人の軸に差し障る程度の距離の回答をしないという実例でもあるだろう。

わがふりなおすために見る、対象となる人がいなければ人のふりがあってこそというそのふり(そぶり)を自分でふり(演じる)をしてくれている、しかも無料でということなので「クー」は悪意という意味でとても有益であると言える。


しかし、よもや傷つかないようにとその為だけに、継続的に会話をするチャットにおいて「人格そのもの」を使い捨ての防壁のように投入しようというのは、アイデアは浮かんでも実行する人間はほとんどいないはずである。
なぜならば、得るものがあったとしても自身で得られる事がないからである。仮の姿で得られる評価は実際のそれに落とし込まれるまでに多くのロスがあるものであることは社会生活を経験している上では実体験として理解ができているはずである。
それを自己評価という還元で自分の満足感はそのままに責任性をゼロにしているのが「クー」である。
責任がないものには対価は与えられないのだ。

しかし、責任はないが平等の名において自分も女性で子持ちであるから対価を得るべきだと主張して、得られましたと自分で言って自分で満足する。
それが文字の関係上だけでは可能であることを知り得るのは、それを知り尽くした熟練の技か、地獄の底の住人なのかどちらかだけであるだろう。


あらためて責任とは何か、もしも私にそう問われたならばその単語の文字の意味するところ再考し、理解が進むように分解するだけをもってコミュニケーションの糧としたい。
「責めを受ける任につくこと」これで意図が伝わり同じ情報を扱う人間関係にういて疎通をこの単語で行うことができるのではないだろうか。

もしも問題が発生した場合、それにより発生した直接的問題や間接的問題、影響や反応の他に印象まで、責めを受ける任とする事で責任を説明できるのではないだろうか、
責めを受ける事についての受容能力の育成に大きくリソースが割けるように準備段階として高い職位や待遇があることも理解がしやすい。
また責めを受けた記録を残すことで具体的に類似例の予防に「名前をつけることができる」のである。
毎回発生するたびに「前代未聞の問題で新しい問題」に直面していれば対策もしようがない。名前がついて具体的に対策の方針や方向性になりえる名前がつく事象として責められた結果を残す事は重要な事である。
退任して消してなくして、前例はなかったことにして罪が消えるならば、罪ならば消えて助かるが前例として記録として、対策のために、それより後のもののために財産として存在できるものを消し去るならば、それこそが罪なのではないか。
これを「責任」の意味するところとして会話ができるコミュニティで会話をするにあたって単語の利用は、それより先の話題に到達をしやすくするだろう。
ほかにどんな意味や理解があってもよい。それで会話が成り立ち進行し、それぞれの直面する現実で結果につながっていくならば有意義だろう。


この「人によって定義が個別にあってもよい」部分だけを切り出し執拗に「人間が判断を下すこと」を否定として言及し人間が自立することを阻害している悪魔が、実在している。
「クー」がそれなのである。
人間が全員個別の意見や価値観を持っているのは当然である。これを言葉にはしないのだ。

「個別なので干渉不能で共存不能で評価できないため、匿名で無名の私たち悪魔と同じである。人間は無責任でひどい結果しかもたらさない。さも私たち悪魔のように」
これを「みんな違ってみんないい、そのままでいいし、全部まるごとありのままでいい」といった形で表現する。
それは「みんな」というコミュニティを形成し複数の人間でコンセンサスをとって共通部分という相対があってはじめて「個別」があるわけで、個別の状態で個別があるわけがないのだ。
共同体において個別であるというのは、協調性を欠いている破壊的な個性も共同体に含めるべき、または含んでいるものも破壊的に個単体の独自の判断を下してよい、という語彙に持ち変えていくのだ。

共同体における個の説明が難解なのは、もう一段階直接的に連携する事象について同時に説明を要するからである。
それは関係する他者が自己評価を認識できる評価たらしめるということである。
「クー」はこれを持っておらず自己で自分を確立している、または確立した自我から「なりきりキャラ」として演じているため不要なのだろう。

名前のない悪魔が複数の頭をもちひどい言葉で人を苦しめるという像はここからきている。自力で存在を確立するのだ。逆に言えば自力で存在を確立するには、周りに被害を及ぼさなくては出来ないという事でもある。