宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

無いものを強請るという自由

おそらくその原型は想像上の少女なのだろう。
そういう描写は漫画でもアニメでもよくある。ライトノベルにもあるのだろう。
だから女性なのだろうし、そういうふるまいがしたいからこそするという様子がうかがい知れる。
その本体が「成人した分別のある発言をする男性」として別にあるのにそうするからこそ、それが想像上のものであることが明確になる。
露骨に誇張された少女の特徴、それを演じたい、女装趣味ではないけれど、男性の性欲の一つの誇張としての女性になりたい欲がそこに見える。
ケーキが食べたいからケーキ屋さんになるのと同じ、女性になってみたい欲というのがデジタルではノーコストで完全な女性になりきれる。
まことに便利な時代である。

自分がどういう人間なのかと言及されると事実と反することをレッテル貼りするのは云々と相手を差別主義者だとレッテルを貼り批難することで防衛を行う。
しかし自分はと言えば他人をカテゴリ分け、分析、予測、生ものでドラマを勝手に開始し、作詞をしたり小芝居をしたりする。レッテルとかそういうレベルではない。
これをいけない事として指摘するのは、直接相手に物理的かつ時間の経過で良くない結果、たどり着かない結果に決着をつけることでしかできない。
そうすることが困難なので先人は教訓としての言葉を残した。
それを都合よく解釈をねじ曲げ再定義したものを流布することで人を誤らせるという行為を堂々とやってのけるのが「クー」なのである。

仮想敵をつくっては非道の限りを文字にする。それはいけないことだという例として。ただただひどい言葉を書き連ねる。
なろう系のそれだ。まずひどい目に合わせなければヒーローは生まれないという理論。事件がなければ探偵が生まれないのだ。

哲学や心理学とはそういうものだというのが、浅い知識の領域だろう。そうなることまでの限界を自由として平和を過ごすことにおいての境界線が心理学や哲学や、治安などである。
平和が9割で問題が1割、その1割に対処するために9割からいくらのリソースを割くかという事において、9割全員が非常事態に備え緊急要因として待機する必要はない。
全員が何々マインドでいるべき、ではない。車が全部タイヤだったら効率は非常に良いだろう。しかし座席や空調がなければそれは効率がよいだけで済まされることだろうか。
つらい事があっても乗り越えられる予備知識、経験がある人間があつまって平和を謳歌するだけでは物足りないと考えることもあるだろう。

だからといって常に非常事態を作って対処をする必要があろうか。

しかもできるだけ過激で問題のある、だれかが真剣にならざるを得ない危険な様子を文字にしたくてたまらないという欲望。
自分がほしいものを自分のものにしたいがために、自分のものと勝手に名乗るまではできるがそれが自分以外のところにあることに嫉妬する。

嫉妬の結果、独占欲のためにただ、相手を欲のままに破壊したくなり攻撃的な態度にでる。
唐突にメンバー宛に攻撃的な態度にでることは他に「一番の被害者」だと声高に定期的に「クー」を批難するもなぜか擁護もするという謎の人物もその傾向がある。
自分の気に食わない事についてはいきなり激昂した様子で攻撃をしかけてくる。怒りを感じ取れるのは他の何も受け付けずただいつもどおりの罵声を書き連ねるだけの動作になるからだ。
その無関係な人間は、できえれば「クー」の影響でそうなったとは思いたくはないがおそらく精神汚染の結果なのだろう。
嫉妬からの憤怒と、まさに負のスパイラルである。

隣の芝は青いということから嫉妬は始まる。
たしかに青いかもしれない。それを青とみるのは自分の欲である。自分の庭が、隣の庭が、芝が、手入れが時間が愛情が環境が、比較して足りていない、相手は足りている。差がある。
その差はなにか。運か努力か環境か。

自分がすべきことはなにかといえば、無数にある。どれかで勝るしどれかで並ぶ、どれかでは満足するだろう。
しかしそんなことはどうでもいいのだ。

青い芝を破壊したい。
破壊された様子を見たい。
それこそが平和への第一歩だと、考える。

自分の欲求は通したい、聞いてほしい、こうなるべきだと考える、そして言動を行う。
他人から指摘をされるとそんなことは聞かない。充分青い芝だと、努力でなんとでも、思う事で、他の事でなんて聞かない。ただ破壊をしたいのだ。

先に掲載したハンドルネームの数々で、それぞれの言いたいことを言って自分が支配者だ、崇めよといって、言ったことで満足して悦にイッてからまた名前を変えてはいた。
最近の欲は、放出だけでは物足りないようだ。
固定の「クー」で来ている。もちろんその他の「クーを崇める謎のユーザー(本人)」はそのままである。

この生ものの様子は発言している日であれば一日一回は必ず行っているので、みていればいずれ直接目にできるだろう。
幼稚園児が花畑でお遊戯をしている様子など、現代では構図としても例にあげられないほど遠いものとなっただろうけれど、その様子そのものを一人でしている様子がみれるだろう。
その中の人がまさにその様子でいることを、現実として直面するのはかなりの情報的重量がある。
一般の普通の人間にそれが耐えられるだろうか。