宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

生産するという罪

神は始めになにかをありきと作った。
そこから増やすのになぜ作ったものに任せることにしたのか。
神の手によって完成度の高いものを作りつづければ、間違いなど起きないはずなのに。

いかに人が考え出した像とはいえ、そんな矛盾を含む構図にしたのか。
人が主体であるからこそ人の営みが基本にありそれに準えているからではある。
しかし理想像をそこに置かなかったのはなぜか。
人間は循環の中にしかいないことを知っているからではないのか。

人が生み出すものは、特にない。むしろ消耗消費して現象させることが役割だ。
それは生物全般に言えることだろう。
既にこの世にあるものを使って変化させ、それを使用して減少させる。
この世は無限に広がり無限に生産を続けている。それを維持とはいかないけれどもある程度縮小させ後退させ遅くすることが発生している現象が生命だろう。
我々が生産していると思っている変化の発生は、その消費のための機会増加であって無から作り出したものは未だない。

無いというのは、物理的にではある。
あることはある。無から生み出した人間の創造物は、想像だ。
想像が他者に認識できる形にできるようになったものが言葉である。言葉をつくることができるということはまさに無から人間が生み出すものである。

存在するものを存在すると言葉にすることで、人はその存在をあるものとないものの二つに分ける事に成功した。ゼロの発明もそれと言えるだろう。
同時に「無いものを無いと言葉にすることで存在させる」という事にも成功してしまった。

我々は存在して維持し継続の上で変化させ、消費消耗することで循環を生み出し膨張や増加を抑制している。
膨張し増加していく物理現象に抗うことで存在をしている。

それが、存在と同時に生産を行い膨張を促進するとしたらどうなるか。
無いものを無いと、無いものを在るとも、とかく有無を問わず口にだし言葉にし、あったらどうなる、あったとしたらと言葉にする。

消耗消費、食べて変化させ抑制をする生命の作業がまるで反対に作用する、命の逆である。
悪魔などは死から生まれてくるという。虚無から想像を生み出し仮想のなにかを土台にまた妄想を増やしていく。まさに悪魔的と言えるだろう。

食べたものを食べた以上に膨らませぶくぶくと太っていく。まさに暴食の権化。

仮想に予想を重ね、妄想を仮定したものを、質量ゼロの非現実を同室のメンバーに投げつけて哲学だと言う。罪そのものを生産して純粋な悪意と罪を人に投げつけることができる行為を誰ができようか。

沈黙は金という言葉はだれしもが一度は耳にしたことがあるだろう。
銀と比較して沈黙が1位というだけの意味としてとらえたとしても、その金としての価値がある言葉の使い道はよく考えたほうがよい事くらいは感じられるだろう。
金をまるでゴミのように掘り出しては散らして塗れた姿を妄想して陶酔するその狂気は、脂肪に塗れてなお食い続ける大食、暴食の魔そのものである。

この記事を書いている今日もまた社会が政治が、どういう人物のどんな人格がと熱弁を「クー」がふるっている。
ゴミのような汚濁に満ちたひどい表現と単語を選んで、危険が危機が、汚職で不良でいいかげんな人たちが暴虐に差別的な、問題を起こし怪我をし困窮し、と人を喜ばせないための言葉を丁寧に選んで紡いでいる。
それに対してよくしよう、慈善や慈悲を考えるとひどい汚物の上洗濯したてのハンカチで覆うような素振りで善人だと主張をするその姿は、針の穴からみればなんの問題もない善意かもしれないがあきらかに悪意しかない。
これをただ感覚として楽しみと感じてしまっている道徳や善意をまだ知らぬなら救いはあれども、これを他のアカウントで自身が見ているなどという構図は七つの首の獣にまたがるそれを模しているようだ。