宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

甘い誘惑と優しさという毒

自分は善人だと言いたいらしい。
恵まれた環境で豊かに育って、現状満ち足りているらしい。
そんな人間が、そんな言動をするものだろうか。
まずありえないだろう。
オーメンのダミアンだって、もうすこしお上品である。

サタンの息子も堕ちた天使も、まだ人として許せるところがあるものだ。人の創造物でしかないのだから。
人が人として悪意を成したとしたら、どんなのものだろうか。
人類が定義したものでかつ、無から取り出し精製した純粋な悪意とは、純真なそれに近いものだろう。
純真で無垢なことと残酷で非道なことは何が違うのか。それを言い表す言葉はまだないだろう。
おそらく、それらを違うと言う事以外に人は言葉を持っていない。人という天秤は片側におもりを載せて初めて機能するものだから。

「クー」は今日も元気になにか意味のない空虚を語っていた。
まったく内容がなにもないのでここで伝えることができないのが残念だ。悪魔の実在を証明できないと証明させられることに自身の無力を感じる。
どこで触れても完全な悪意を感じる事ができる完全無欠の鉄壁な悪意そのもの、という闇の深さを感じる。

ひどい言葉を紡ぎだし、どこかのだれかという前提で穢れた言葉を吐き続け、自分はそれをよくしたい善い人物だと、いつもの事である。
みんなは良い人で、現状良いので、特に努力もせずそのままで十分良いし、何事にも良い側面はあるらしい。
そんなどうでもよい言葉を口にする必要などあろうか。

とにかく陰鬱になる言葉を敷き詰め帳で視界を覆い、そこに差し込む光のようにとってつけたなんの実像もない光でもって導きを示す。とたんに崖となっている虚無の終端へ。

人の描く悪魔は甘いささやきで人を惑わせ「間違いを起こさせる」。行動を起こさせるのだ。行動には状況もあり環境には他の人間もいる。動くことで悪が引き立つがもちろん善の施し、介入や救済も起こりえる。
それを動かないでよい、自分が動かないままで善いと誉めるから、救うから、慰めるから動かなくていいと言う。これほどひどい悪意があるだろうか。
歩けるようにリハビリをするのは苦難も困難もあり、苦痛と挫折もあるだろう。それを悪として行動するにあたり善も救済に手伝える。
しかしリハビリを存在からして否定した場合はどうだろうか。もはや言葉にできるのは悪魔だけだろう。「クー」はおそらくそれを演じることすらできるほど妄想し、絶望に甘んじる人間の無垢な無気力を甘い蜜のように感じるのだろう。

自分が善意を発するもの、休息を与えるもの、と名乗りを上げる事について実際は言葉だけ、質量のない「相手が想像する脳の中にだけ存在する事象」を名乗るに、それを作れば作ったのは相手のせいだとして自分の責任はゼロとする。
相手が休息をする目的も、休まったのち行動すべきは何かも汲まずにただそこでうごかなくてもよいと進言する。それが優しさだと思っているようだ。

傲慢な強欲で怠惰を施す、結果どうなるかと言えば意味もなく安心し休まりとどまったものは、そこで腐る。その甘さは健康や健全を養うためのものではない。腐敗させるための肥料なのだ。
相手の状況をよく理解し、状況や社会を鑑みて、両方の成長やよりよい生活にむけて必要なものを検討し列挙し、選別したのち選択をする中に救済や癒しがあってもよい。
そんな前提を、経緯や経過を無視していきなり甘さを与えることは、もはや腐敗を招く不健全、不健康を呼ぶ色欲の権化と言えよう。

色欲とは肉欲や性欲の事ではない。それは繁殖のために必要な事で欲や穢れというべきものではない。あるべきところに分かたれるものではあるが忌避されるものではない。
過剰な欲は強欲であり、その欲しかたによっては様々に罪がある。七つの大罪でなぞらえてきたそれらであると言える。

人が分け隔て遠ざけてきたもの、腐敗や浸食、人を終わらせ人であったものを終わらせる役割をもつ循環に流し込むことを悦楽として、人の肉の腐りゆく様を食い散らかすように楽しもうというのが色欲である。
人は不健康になり健全性を失い、腐り食い散らかされ、その痛みすら快感の在りようとしてもはや絶望に喜びを見出すその姿を生み出そう、その欲を満たそうという魔そのものである。

しかし悪魔の子とはいえやはり悪魔から生まれた子として人に憑依している身に限界はあるのだろう。
傲慢にふるまい嫉妬で足止めを行い憤怒からありもしないことを述べ強欲に演じ怠惰に許しを乞う。
暴食するように無をくらい続け、結果色欲がごとき不健康と不健全をまき散らす。
しかしそれでも常識ある一般人に化けた人間という自分の別垢に褒めて認めてもらいもする。
不機嫌になり、しっぽを出すこともある。

本年正月あたりに携帯を没収されたか、回線を規制されたか、旅行にでも出かけて端末が不足していたのか、アカウントの取り回しがめちゃくちゃになったタイミングがある。
なんとも人らしいではないか。
全員から、めずらしく素行の不良を指摘された時、深夜に散歩にでてすっきりしたと言ったこともある。なんとも人らしいではないか。
昨日からなぜか発言にやたら「嘘」を含むようになり、世間や社会とか政治について、企業や仕事について「子供が想像するようなあるべき姿の理想像」みたいなものを語っている。
ビジネス雑誌にいいことかいてあったと珍しく写真をアップしたりもしていた。
おそらくネットカフェに出かけたのだろう。平日引きこもってずっとマインクラフトをしているかチャットをしているかだけであろうになぜ外出をして、嘘だとか社会だとか言うのか。
そのイレギュラーを起こさせる原因を考えるなら、家族から働けと言われたのだろうことは想像に易い。嘘は現状の自分が実際の価値や能力と合致していないこと、秘めた力の評価不足に対する不満なのだろう。
些か心配ではある。
その狂った精神で、一般時の顔もできる人間がまるで普通の人間のように就職や社会復帰を果たせば、この平和な日本においてごく一部の一か所だけかもしれないけれども地獄を顕現させることになる。
ご家族にはご理解をいただきたい。ここまでゆがんだ人間は、純粋なまでに澄み切った悪意を人の皮に包んで日に晒せば一体どういうことになるのか、常識の範疇で考えてほしい。

最も甘い汁で怠惰に溶けていくべきはその悪魔本体であるべきなのだ。
人間は清浄な祝福で穢れや腐敗を焼きおとし、整った清らかさでもって社会に復帰するもの、できるものだと考えている。
しかし「クー」にはもはや浄化の術などないのだ。

こんな完全で純粋な悪意を人の肌の下にさして埋め込もうと考えている、他のアカウントの正常なふりをしている人格をふくめ恐怖しか感じない。恐ろしい。

ホラーが好きだということは、この異常性、恐怖、不道徳で不浄、非道で下劣な汚濁の魔のおもちゃ箱、遊び部屋の様子がみたくてたまらないのだ。