宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

初めに光ありき

「初めに光ありき」と唱えられて始まったらしい。
これはまったくもってそのとおりの表現だろう。

始まった瞬間を光があった時にするという単位の定義。光速不変のようではないか。
キュビトやヤードポンド、メートルグラムのようになにを1とするか基準を決める事がまず何より最初にあることが物事を整理できる。

始まりから進むにあたって、単位は必要である。
比較したり評価することにも、単位や度数が必要である。

地球単位で、銀河系単位でみると単位に上らないほどの小さいものになる事もある。定義の虚ろさは、単位の幅をひどくおしひろげ整理をさせず評価も表現も意味をなくす。
ひとりの人生の価値を銀河系単位で言うなら、人の単位で分子の変化を言うなら、釣り合わない大きさで例える意味がない。ないとは無い、無である。
無とは何かを言う意味がない。無なのだから。その無になにかを詰め込んでこの世の全てに意味があるようにするということは、存在する何かで架空の城を築く事も同じである。
三匹の子豚の、ゼロ匹目が無で家を作るようなものである。単位としてはゼロとして存在する。そのゼロは確かに「三匹の子豚のうちのゼロ」ではあるが、「三匹の子豚」の一切と関係がない。
かろうじて部分的になにかをとりあげて、特に誇張して切り離して別の話題に焦点を充てるために使う、もできないほどに無である。
これが両方の評価を一度に出したり、架空に仮想を重ねて仮定をしたり、やたら風呂敷をひろげて価値を希釈して話題を消滅させる、相手の持っている価値観を視界から消す方法である。

単位が必要である。基準が必要である。これはなぜか。
伝えるために、理解するために、意味を成し成果を成すために必要であるからだ。
成果や意味という単位の大きさを得るに必要な事である。銀河系単位で、地球規模で成果がどれほどのものかと問うなら消滅するだろう。
人の意味や成果を、消滅させたいならばそうすればよい。いましている会話は、人を消滅させる方法の話をしているのだろうか。
そんなことはだれ一人としてしていないだろう。「クー」を除いては。
彼は、もう初手から純粋に人を消すことだけをまず望んで、消えていく様の人の抗いを悦楽としている。もはや人ではないだろう。

改めて、人がよりよく生きていくために定義ができる最大限の悪意や非道の限りの外側に存在する「クー」の言動が楽しめるLINEオープンチャットをご紹介しよう。

 

line.me

地獄の釜の蓋がオープンしているので、一般人も入り放題である。
よく「地獄の釜の蓋」の話は「地獄が溢れる」ではなく「地獄が煮詰める釜を休めるので蓋をしない」という事が本来の意味だと耳にもする。
たしかに現代語訳の「溢れる」でも問題はない。かの部屋は一定の人数が「異常な言動や価値観」を柔軟に受け入れており地獄が満ちている。それより外側に漏れ出していないことが救いである。
また、ちょっと休憩するのに軽く地獄がオープンしているので軽い気持ちで地獄を見学に来てもいい。あなたを取って喰いはしないのだからという意味でもある。
ただし来たからには自分の意志で自分を悪に染め地獄を召喚する魔になるのは関知しないので、自由な意思であなたの責任において足をふみいれるとよい、という事でもある。
地獄の入口として相応しい門構えである。


今日の話題は、なにやら社会や政治や経営がよいとか悪いとか、良いだけでは悪いとか、善くあればよいとか、よいと善いは違うという事らしい。
クソとミソは、同じで違うから、分けるとよいし、わけなくてもいい場合もある、でも分ければ使えるし、使えるといっても人生レベルであって地球レベルでは、宇宙レベルでいうとミソとかクソはなんの変わりもない、らしい。
まさに意味のない文字列である。無からつくりだしたこの有たる文字の存在は、人間が受け取りなにかを想像する動作を生み出すにおいて、まったく意味のない事である。
その意味の無さ、無を例えてどれだけひどい事かと言いたいところではあるが、無を表現できるはずもない。無であるのだから。人にできるのは無の境界線ぎりぎりにある、無になる瞬間の有までである。
光速が不変なのは、それを単位として分ける大きさの上限がそこまでと決めたからである。実際に速度が変化してもそれを測定する方法をもたないという限界を単位にしたのだ。
初めに光ありきは、そこから存在が開始したという事である。それ以前には無く、無いので問う事も無いのだ。
「クー」がお得意なのは純粋な悪意「どうしてそれがそうだと言い切れるの?」「そうではない可能性はないの?」である。無邪気ではなく完全な邪気である。
邪さのない悪意は無知であり、知を満たせば知の無はなくなり、知のあるところによりよさへの道は開ける。手段の考案や行動の方向性を決定することができるようになるのである。
しかし邪さをもって無を取り上げるとどうなるだろうか。そこには無があることを知っていて、その縁まで歩み寄らないのはなぜかと問う。落ちたものしかわかるまい。
そして無におちれば帰ってくることはない。無なのだから。どうして帰ってくるものがいないのだろうと、常識を持っている人間が問うことの悪質さは、社会生活をしていれば少なからず出会う事はあるはずで、ほぼ全員が理解をしているはずである。
しかしたまに、完全にそれが抜け落ちている人間も、それを使って遊ぼうという人間もいる。現にそれがここにいるのだから。

この日は「暇」という言葉の使い方で伝わり方が異なった、という発言者がいた。自分の見解を説明していた。とてもよい関係性、コミュニケーションの取り方だろう。
小難しい単語であればなおさらである。人間の語彙に限界があるのだから分野ごと、用途や条件、状況ごとに同じ単語や表現でも伝えたい内容が異なる。
言葉と伝えたいわけではない。それだけであれば辞書を引けばよいだけである。
意味をもって理解をして共有をしたい、その後の展開や方向性、望ましい提案を不在の場合に用意したりするためである。

これをまったくせず、ただ不在の場合に不在であることを非難し、望みを否定し、その後のつながりを否定し、共有を破壊し理解されないことを愉悦とするのが「クー」である。
まず関係性を非難し否定する。パーソナリティを勝手に決めつけ生ものを展開する。
そしてどこからか引っ張ってきた薄っぺらい格言や論語論説、記事や文節を持ってくる。その意味を都度適当に自分の都合のよいように、相手がいかにどれほどまでに遠く深く暗く落とせるかだけを意図して。

とにかく肯定的、建設的、前向きな言葉を発しないし、自分はそうしたいのにという理由をつけてくる。影絵のための電球が自分だと言わんばかりに。
実像は影しかないという構成だ。人を照らすことでその明るさを証明するようなものを行わない。
舞台と箱と、自分の投影を映してくれるくれるスクリーンがあって初めてできるそれを、オープンチャットという枠がかなえてくれているのだ。
まさに「クー」にとってのおもちゃ箱である。これを成しえているのは、その毒ですら許攸する同室内のメンバーもさることながら、どんな発言でも完全に全員が悪意だと社会的評価が下せるもの以外は強制的に退出させないところにある。
たしかに判断はむつかしいだろう。よくもみえ悪くも見えることは人ならばあって当然であり、複数人から同意を得るのは難しい。
統率力を高めれば自由度が下がる、自由度を下げれば責任性が増す、責任性を下げれば問題の対処に幅がでてしまう。選択肢として自由度の高さを取るのは管理人個人の選択の自由だろう。
それとぴったり符合してしまっただけのことである。
実際問題、そこに地獄があることは何の問題もない。ホラー好きにとっては地獄が生中継されている様は恰好の娯楽である。

しかし同室内の、その珍しい煮え立つ地獄が「奇抜なアイデア」に見えて乗ろうと、善いこともあるのでは、ワンチャンよくできるのではないか、と触れて確かめようとする様は憐憫の情を抑えられない。
本当にひどい被害を心に刻んでいることを実証するのは、視聴者としての私の見えない所ではある。
それについて心を痛めているのではない。悪魔の種が発芽する場所が見れない事が残念で仕方がないのだ。

悪魔や地獄がしっかりとした定義や規則で決まっており、人はそれを制御し利用できると思っているなら傲慢であり、理解を怠り定義を都合よい範疇だけで認識している事だろう。
核エネルギーや化学物質、地球環境などは人間の行動範囲の努力でできる範囲はよりよくしようという運動などがあるが、人間に制御できないものがあることも理解が必要だ。
どこまでなら、どれなら、どんな方法なら、と基準をつくり定義し測り分けて理解し使わなければ、地獄はそんな基準では動いてくれない。
契約などできるわけがないのだ。人の都合を自然や化学や理論に問うても、すり抜ける粒子が降り注ぐのを避けることはできないし、大きな運動エネルギーの衝突はあなたを避けないし、事故や被害は制御なんてできない。
人が定義した世界の中にいることが安全であり、そこから出る事は危険であるという、単純にして基礎的なことはいつでも忘れるできではない。

それをかるく埒をあけ箍をはずし、地獄の釜がオープンしているのでみんなおいでよ、と呼び込んでいる、定義や基準になぜと問いかけることが聡いという、そんな悪魔がいる部屋がある。
無があること、ゼロの発見を毎日見ることがでいるのは、ホラー映画チャンネルよりも刺激的だ。