宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

極薄のチャーム

今回は「猫堕落無茶斎」に焦点を当ててみたい。
「クー」に比べればただの面の皮の突っ張った否定の一点張り起き上がり小法師でしかないが、これがなかなか面の皮だけで風を切る速度は音速を超えようかという大胆無比な面の皮である。
基本的には同室のメンバーが出したネタを否定しては馬鹿呼ばわり、カス呼ばわり、阿呆呼ばわり、屑呼ばわりしては人格否定をしていかに自分が優秀であるかに酔いしれる、いわゆる酒があれば気が大きいタイプである。
その酔うための酒、出典の言及がついた情報で否定をすることで一人酔いしれるわけであるが、「哲学カフェ」の緩さからしてその程度の内容でゆるふわに空想や妄想を練り合わせて、いい感じの短文を作成することでそれぞれがほろ酔いになる部屋ではあるので効果的になってしまう。
「仏教と量子力学って、なんだか似てませんか?」レベルのふわふわ妄想で「宗教という分野においては」のような切り出して語ってスタンスをとる、ジョジョ立ちを会話で成すような何物でもない何かになりきるなりきり部屋なのではある。
故に、古い本の記述にあっておまえは違う屑だ糞だゴミだ死ねいますぐ死ね、いますぐここから飛び降りて死ね、という言葉にも威力を持たせてしまう。
そんなどこかに記載されてるらしい情報、されているというリンク、解釈を垂れ流してくださるスタンスも所詮はなりきりと同室同レベルの内容であるが、とにかく妄想空想のコンセンサスで成り立つ部屋というのは「なりきってくれている」という緩衝材ありきの部屋でもあるため、そのクッションを外されると痛いのである。
ただ痛みしかもたらさないなんの意味も教養も実用性もない名言格言、原初の情報を垂れ流しては人にぶっかけてその滑りでもってして人が転んで泣く様を見て喜ぶという変態性を持っているのが「猫堕落無茶斎」である。

なりきりチャットはその点厳密にルールが決められており、だれも傷つかずに妄想を楽しめるよう制限が施してある。アニメのBLなりきりチャットのほうがよほど知性としては上だと言えよう。
その知性も度胸も才能もない人間が、ゆるくふわりとなろう系の異世界転生でこの世の全てを言葉でいいあらわしてしまって自由にすることができる天才で万能だが、いまいちひっかかる点をそれぞれが問い合わせ納得し、それぞれの才能に恐怖してまだ無知な世界に絶望するというのがいわゆる「一般に哲学を掲げているオープンチャット部屋」の内容なのである。
そんな柔らかく弱い巣穴に目を付け、ただ面白半分にかみつくだけという面倒な人間が「猫堕落無茶斎」なのだ。

否定は言語の構成が数あるなかで、最も簡単でそれに反比例する効果と意味の大きさを持たせることができるものである。
発された言葉の末尾に否定形を付けるだけで完成する文章であり、その内容は述べた内容を全て知り尽くし完璧に理解をしているという前提を持たせることもできるのだ。
研究し積み重ね醸成しより分け整え簡潔にした言葉を、効力が発生する場所と時間と状況において発せなければまったく意味がなくなる貴重で効果な言葉も、最後に否定形をつけるだけで「まるでそれらの努力をして対等に発言している」かのように振舞えるのだ。
その「価値を最大限に付与できるという効果」を否定から外して指摘をし、あらためて否定をするだけの価値を持ち合わせているのか問いただすことも可能なのではあるが、妄想空想なりきり部屋では、禁忌となるのだ。
なぜならば、現実にもどらないという前提条件、現実という障壁を外郭とした中庭で遊ぶことが暗黙のルールである妄想空想なりきり部屋では、その壁に触れる事や壁の位置を利用したり変更したり、壁からでることは「遊びの終了」を意味するからである。
皆がルールを守って遊んでいる中、一人だけ異常者が異常な行動で場を破壊しようとすることはもちろん許されない行為ではあるが、多数のうちに1だけあるということは比較や前例をもちあわせないため基準を策定しづらく「異端だ」とすることが難しいのである。
もし他に比較のない一つの存在を「異端」呼ばわりしたならば、妄想や空想、なりきりをしている人間はそれ即ち変態で異常者であるという事になってしまう。現実が存在しそこから隔離され、ルールがあって遊んでいる、遊びでしかなくなる事で排除をするには、自分たちの遊びを定義しきらないことにこそ妄想の意義があることを損ねてしまうのだ。
「クー」の「アドラー心理学」部屋でもそうではあるが、二人目が存在すると前例も比較もできるため、突然異常者が常識人のふりをし始めたりすることになる。共同体、組織体、集団とはそういう機能をも齎すものである。

どの本にのっていた、有名人が提言した、どの一節でいいあらわされている、等の本当か嘘かもわからない、皆がやっているごっこと同じ内容で「否定」をぶつけて痛がる様子を眺めてにやつき変態の汁を、「猫堕落無茶斎」は垂れ流しているのだ。
哲学がなにかすら説明することができず、哲学は哲学なので、哲学してる、そんなものは哲学なんかじゃない、本当の哲学というのは説明するのは面倒なので何かの本をよめ、読んでもいない癖にと真に面倒な子供と素振りが同じである。
100年前か200年前か、最近のだとして他人のその時点のその状況で作成した情報を、ここで活用する方法が「唱えて相手を馬鹿にする」というだけであるというのならば、道に落ちている小枝と同じである。
むしろ小枝のほうが利用価値が、生産性がある分まだ上である。人を叩くために使われる小枝の意味とは、いったい何なのかを哲学してから人であることを主張していただきたい、だからこその猫を名乗っているのだろう。

何かを知っている、知っているが知らない人間をひどく痛めつけるためだけに知っている、自分の知識が人を救ったりためになったり、行動のきっかけになることを目的としていない、怠惰の穢れの具合だけ見れば「クー」にも匹敵する部類である。
しかし、できることといえばそれだけなので「クー」ほどの実力は持っていないのだ。
人を貶め誤解を招き道を誤らせ失敗をさせ、それでも自分は自分の選択した結果なのでよいとしたい、と思うほどにまで人間を愚弄し堕落させ嘲笑するためだけに寄り添う悪魔の権化と言える「クー」の、ごく一部の爪の垢程度ではあるが、巣食っている患部が「哲学カフェ」という天才なりきり部屋であることで重症度をあげているのだ。

実際に賢いならば自分が憎まれる事をするわけがないので、自分が憎まれる事でなにをなそうとしているのか、また成されたのかわかろうものである。そんなものはなく、さんざんの罵詈雑言であてこすって赤く腫れあがった自分自身を誇張して自慢げに汁をまき散らしては一人で終了宣言をして、また擦れるタイミングを見計らうだけのその素行からはなんの目的性も感じられない。
その潔い最低な穢れた堕落さを名前でもってして示している「猫堕落無茶斎」は、なかなかに楽しめる人の膿の一篇である。
ぜひともその薄さを目の当たりにしてもらいたい。
本屋で積み重なった本のタイトルを順に読んでいくだけで、その場にいる人間を読んでもいないから愚かで知性がない、そんなこともしらない奴らといると疲れると高説を垂れ流し湿った自己満足を引きずり床を湿らせている、そんな姿が楽しめるだろう。

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