宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

教育と政治的構造化の必要性

アドラー心理学」部屋からはまともに弱者救済を目的として雑談をする、自身も弱者であり他者も相互に干渉することで助け合える状態になる可能性を模索できる部屋であることができる微量な存在が退出してしまったため、完全な無法地帯となりました。

line.me

 

「クー」が、箍が外れたようにコピペや画像貼り付けを重度に繰り返し、これは異常さを責められても言い負かせる余裕が現在のメンバーであるとの自負か、いなくなったものへの手向けなのかわからないけれども、ストレスによる幼稚性の退行現象であるかもしれないとも思えます。
いずれにしてもそもそもが狂っているので、見ごたえ的には現在も遜色なく、ただアクティブなメンバーのほとんどが異常者なので、風を切って走る快感のために風の抵抗を受けたいという、悪で愉悦を愉しむためだけにまともな会話を望む人間の同居を望んでいる彼らからすると、もうただひたすら幼児退行していくしか選択肢はないというのは少々残念ではあります。
またすぐ新鮮な被害者が入室し、やたら犯罪者や異常者、障害をもった不足な者としてあつかわれてそれでもその「いわれなき非道な扱い」に耐え得ればはれてメンバーとして異常な道を共に歩むことができるものとなる、その道程を垣間見ることは期待できるでしょう。

哲学カフェの「猫堕落無茶斎」はあいかわらず世界では有名人の言葉では、どれにおいてなににおいてでは、と机上の空論を練りまわすことで威圧をしてくるという肩もみ猫のような素振りがあいかわらずかわいいという以外には特にないようです。

 

line.me

 

本日は国際女性デー、ということで性的な差別をどうのこうのみたいな話やら、そういう現場から、また田舎の差別についてみたいな記事を見つけることができて、そういうものもはやりすたりで情報を販売する側がネタとして取り上げる以外には、暗黙の了解になっているところが本質的なその問題よりも闇に寄っているなと感じさせます。

私は風俗もアダルトビデオもエロアニメも変態漫画も大好きで、ロリコンで熟女好きです。
充分に楽しみ、継続して楽しみたい為、それらを商品として金銭による取引で、居住地域で許可された方法で楽しんでおります。
それ以上を求めて狂うのは被害を発生させる可能性があり、それにより自分の楽しみを削る事になるのは理解できますし、一時の大きな体験を得たとしても継続してその記憶を撫ぜることができなくなれば意味がないと判断をしている人間でもあります。
分割ローンは組む分には圧倒的に不利ですが、自分が回収する側だとすればそれは圧倒的に有利です。体験も同じく、一括でぱっと支払う分には楽ですが、貰う分にはじゃあその後の得られない長い時間はどうするのかという話です。

女性が性風俗という職業選択について引け目を感じたり劣等性を感じることがなくなる世になれば素敵であろうと思う派でもあります。
たしかに日本の教育、性教育の疎遠さや距離感、性のコンテンツに対する敷居とその価値、転じてそれ以外のコンテンツの高尚さと優越性、そういったもので育った私は一般的な価値観の持ち主ではありました。
風俗は低俗で誰とでも肌を重ねる女性など下衆で下卑たるもの、忌まわしく汚らわしい職業と思っていましたし、そういう行為に依存して自発的に選択する人間も同じく穢れていると感じていました。
これはある意味教育の成果の成功例ではあります。思考をそうすることで、マインドセットとして社会秩序に清潔さを求める事で、自分も清潔さを得られその清潔さを保持することに貢献的になるのは、人間社会としては機能的で有益です。
そうする背景として、性風俗という娯楽や業務、コンテンツが必要になるという現実が存在しているわけで、その両方を同居させるにあたり清潔と不潔で分けるという物理的な方法でしか分けることができないというのは、矛盾と葛藤を発生させます。
正常な身体機能があれば欲求をするはずの事に社会としてはそれを禁忌とするのは、もはやプレイの域です。

たしかに日本では裁判や事件とか被害や賠償、原理的になにが社会基礎を成しているのかという政治的な教育、ほか性教育など機微な情報についての教育がなされていないため幼児のような正義感で大人になるものや、生涯をそのままで終える人すら少なくないでしょう。
私は性交渉が大好きなので見るのも行うもの積極的です。同意があれば誰とでも行いたいですし、そこに自尊心や虚栄心で偽り身体的な信号だけの快楽で満足をしたいわけではないので、多くコミュニケーションを取り相互に安心して関係を持ちたいと考えています。
したくない人間とする必要はありませんし、どうしても代えがたい外見というものがあるわけではなく、むしろ対話しその人となりがより楽しい性交になると思っています。
したい事についてちゃんと確認ができ行動を選択でき、結果に満足できるようになるには大きく回り道をしてきました。
ちゃんと言うのは失礼ではないか、自分がそうであることを知られるのは恥ずかしい事なのではないか、どれが正解か、失敗は損失か、など誰にも聞くことができず答えもなく、ただ回数をかさねることだけがそれを知り得る道でした。
その体験がない人間には、それらが大きく欠損しているのではないか、たしかにそれらが欠損しており持ち合わせていなくとも社会生活、一般的な人間関係のほとんどすべては問題なく進めることができるだろう。
しかし人が取り返しのつかない大きな間違いを行動する原因は、大きくその部分に関わることなのではないかとも思っています。
間違う人間の量としてはそんなに多くはないけれども、その多くはないを正しく計測し、対策し、同意のもとに楽しんでいる人間に影響せず、またそれらを不要としている人間に危険を迫らせないためにも、周知と教育は必要だろうと考えています。


基本的に、性的なサービスを提供していたり、性的な関係に開放的な人間を責めないで欲しい。価値を蔑まないで欲しいと考えます。
よりよいとまでは言わないにしても、というかむしろ男性は性的な事柄について女性を部分的に非常に持ち上げることは現実でそこには価値があり、大きな市場ともなっていて、魅力の大きさはいわずもがな絶対的に巨大に存在しています。
それをあえて小さく汚く蔑み、不要で遠ざけるべきというのは、富士山を見て小さいというのも同じでしょう。
表現としては自由なのでそういう言葉を作り出すことは問題ないでしょうけれども、その言葉を作り出した意図としてはそう表現された価値観をだれかにぶつけて痛い目にあわせてやりたいがためという事が透けて見えるのと、実際に投げつけることやその様子は許しがたいものであると感じます。
誰とでもねる人は、あなたの大切な人と関係をもつかもしれないという危険性について危惧される、というのは「あなたの大切な人がそういった誘惑にそそのかされがちなだけ」というだけの事なのであるという現実から目を背けるべきではないということです。

これはあの「アドラー心理学」の部屋や宗教的なものについて偶像を崇拝しないという戒律にあるものとつながります。
宗教において人をだますべきではない、騙す人は罰せられるべき、罰則の恐怖による悪行の抑制という下りはあるものの、なぜ善人が善くあれと行動するように教育させられるのか。
神は唯一で一元的なものから一方的に善は流れて、悪は多数あり流れを乱し多方向から双方向に流れ汚れるものとされるのか、その清潔感とはなにかと言えば社会秩序そのものです。
悪事を悪事だという事にのみ、その表層にのみ言及し実際の内容や修正の方法、いわゆる心理学などで実地に即したり哲学で相手側を考察したり、それを宗教でしないのは「話を聴くのは善人だけ」という当たり前の前提にあるからです。
教会で説教を聞くのは基本的に全員善人です。そこに悪人がどうなるか、どうすればよいか、など説く必要はないのです。
アドラー心理学」では「クー」がどうしてそれを教会で行わないのか、善人にむかって悪事をいろいろ教えて対策を考えさせて、その価値とそれを包括する社会の価値を問わないのはなぜかと声高に問うたりしていますが、それ自体が害悪であるということに純粋に感心します。
悪の成し方を善人に問いかけるという形で教え込むという、善意による悪の根の植え方であり、合理的な穢し方であります。

アニメや女性タレントなどの文化についてゾーニングの必要性というのは、その境界線でもってしてその悪意の植え付けとなりえる行為を教育として活用できる範囲において使用する、そうでない域には禁忌とするという、風邪に抗がん剤を使用しない、末期がんに風邪薬が効果的だと言ったりしないという基本的な事です。
まず前提としてその領域であること、確保されている事を明示してその前提をもってしてあらゆる行動があるべきなのですが、それを物理的に確認ができなければ言いたい放題なわけです。

ことにひどいのが「借金をして風俗で働いたが、返せない」という問題について、原因は「返せない」ことに対する「稼げない」が問題で、職業を何に選択しようと返せないものは返せません。
奨学金ですら返せない社会人は、ホストに貢いで借金をしている風俗嬢と同じなわけです。なにも変わりません。それはどちらが上で下か、清潔で不潔か、という話ではありません。
返済計画が立てられていない、という点と、同じ人類という生命体である、という二点においてすくなからず同じであるという意味です。
頭がいいとか、運がいいとか、どこか狂っているとかいいようにあしらわれているとか、そういう話は別問題です。そうだというのならそこを指摘すればいいだけの話です。
世には多くの借金をしている人間がおり、大会社の長ですら億や兆の単位で借金をしています。もちろん会計的には異なりますが利用している制度や方法が異なるだけで、借金です。
それはつまり、借金についていえば制度や方法を変えるという選択肢を取れば不利ではなくなったり、借金と呼ばれなくなるかもしれないということでもあるはずです。
同じ額の返済金額をもっていて、自分のしたいことができずにストレスをためている人間と、文句ばかり言うけれども責任もなく好き放題しているように見える人間と、まだほかにもあると思いますが種類があるというだけの話です。
風俗や性的な問題、性別の問題は関係ありません。


しかし実際そうは言っても被害者が女性に多いのはたしかでしょう。
被害を受ける規模が違うのと、生物的な価値が違う、などからでしょう。
女性が人間社会において価値が低い、地位が低い、と長年ずっと言われていますが、これは人間の智恵で人間が動物的に生命の優位さを上にすると社会が成り立たなくなるだけの話です。
社会という機能は生物的なものに反します。すべてを殺して生かさず、抑制し滞らせ繰り返させるためのものです。これが女性の活動範囲を抑制する機能をしています。

人間がそもそも、サルから進化し物々交換で、という話をする気はないですが、生命を生み出せるのは女性だけです。逆にいえば生命が生まれてくるのは女性からだけです。
他の人種、国、文化いろいろあるけれども名前を継ぐのは「男性の親から」という基礎を持つものが多くあります。どの父親の子であるか、という名前を受け継ぐのです。
これは社会的機能のためで、相続という「前の持ち物を変化させる維持し引き継がせる」ための機能です。
前の持ち主が亡くなったら、所望する人間がバトルをして買ったものが取得するのが「生物的」であるはずですが、社会はそれをしません。
そのため、生物的な原理原則、動作や根拠を排すために女性が主導ではなく「男性が主導」という構造になっています。
なぜなら、「男性は増えない」からです。つまり男系であれば、社会的な継承を存在させ維持させることができるからです。
逆に女性を主軸にした場合はどうなるかと言えば、女性の個人単位で「本家」が生まれます。相続すべきが一つしかなかった場合、女性の人数分で「生物的なバトル」が必要になるわけです。
決闘による死闘が法的に許可されているのならば、女性が主導であることも可能かと思いますがそれこそ決闘による殺人がふつうの取引くらいに世に溢れることにはなるでしょう。
また女性が一人で決闘をする、それが女性の特権だという世界になったとしても、女性は子供を産むことができます。一人ですまない可能性を社会的問題として含むことが発生します。
そうなると、まけたほうの女性の一族は皆殺しが必須ということになります。こんなことは野生動物を見ていれば充分に理解ができることかとおもいますが、野生動物を取り上げるテレビ番組も教育課程もなくなり久しいため、言ってもわからないどころか「それは女性差別だ」と言う人もおられることでしょう。

女性を一万二千枚の装甲という名の拘束具で抑えて付けているのは、その力や価値のためです。
人が美しい人として想像するものは基本的に女性です。そのため美においては女性が多く登場しますし美の神としての男性神や象徴としての男性は存在しません。
空想上の人物や、時代的に流行した男性は幾人かいると思いますし、絶対的にアイコンとなっている男性も存在はしています。ゼロかどうかということで「存在している」の話をしているわけではないことをご了承いただきたい所ではあります。
古い時代の男性俳優や歌手について、同じ男性である私からみても恰好がよい、美しいと感じる人間はいます。それは女性のそれと数的には同じかもしれません。
しかし個人の枠をこえて、概念的であったり評価価値を共有して認識としての美人とする話になると、利用できるのは女性の美の基準のそれになります。
美を構成する要素について共有が可能なもの、言語化でき情報が遡れ共有できるものが多いのが女性に多くあり、男性は非常に限定的だという事です。
これは文化がそういう形に醸成したからであって、男性が着飾り化粧をし小物をもって活躍の場を評価によって多く持ったならば、現在の女性の地位を男性が持っていたかもしれません。
古代の文明ではそういう状況が立場や地位によってあったのではないかと思われるものもいくつかありますが、基本的には男性にそういう価値があるとされたことはほとんど見かけないでしょう。

まず本家を創造できる身体機能であること、それを自然と成せるだけの誘因力が遺伝子的に、生物的構造として相対にあること、それだけでも人間という生命に大しては充分すぎる価値と威力でしょう。
少年漫画の世界で言えば、その実力者が実力をもって行動することが当然で、強いものが強いものを倒すのが正義で、強いものが弱いものを守るのが正義だと、清い教育では育成されてきたことでしょう。
しかし実力に対して叶わない強いものに挑むというのは無茶な話で非効率的、不条理で愚策なのは思考をするためにブドウ糖を消費するまでもないことです。
勝てる弱い相手に対して実力をふるう事こそ効率的で効果的、そのために強くなるわけで、勝てた相手は弱かっただけ、相手を強いと賞するのは得たものの大きさが実力より大きかった自己賛美であるというだけの話です。
男性がこれを好み行い、社会としてこれをあるようにとすることは生物的にはまるで無意味な逆方向の意義しかないのですが、これを行ったという遺伝子を、その極大なレバレッジを経験した遺伝子を残すという意味で価値を成すものでもあります。
つまり男性が特異性を常に求めて変化して、状況に適応しそれを女性が組み込んで残すという形が生命なのです。
男性は無理無茶無謀を試みて脱落し死亡し、欠損を経験し生きて帰ったら、必要があるならばその情報を後世に残すという役割なわけです。
現在の人間社会では人間は死にません。特異な経験も紙やモニターから摂取するだけのものです。競争も指先で行うものだけですし、情報の収集、収斂のための遺伝子としての生命体としての男性は、今現在ほぼ無意味と言えます。
その中で、社会として貨幣価値を得たり与えたりする基礎を生産する労働力として男性が使われていることは、法制的にも合理的だと言えるでしょう。
女性が主導で家族が増えるたびに財産や資産を分けていれば、現在の日本の核家族のような構造になってしまいます。結果がどうなるか、現実に現在を見れば答えがでています。
家をまもって家族と血筋を守るというのは、日本以外の国ではわりと多く存在しとても重要なものだとして引き継がれているものも多くあります。
日本は同じ社会の担い手としての同僚という感覚で民族をとらえている個人は多くいるかと思いますが、家族というものは先の大戦の終わり以降徐々に削られ、いまではもうほとんど存在していないといっても過言ではない状況だと感じます。


社会においての直接関与の率や選択肢の幅、それと比べて価値的なもの、実質的に得られるものの大きさを比べてどちらが上だとか下だとか、差別だとか、そういった表現で同調する人間に情報を売りさばく媒体に影響されず、それぞれが自由でいれることの価値を再認識できれば日本がどれだけ文化的に恵まれているか体感できると思います。
私はこの価値の醸成された現在の日本というものがとても理想郷に近い非常に素敵な国であると感じています。
本来ならばもっと社会を維持させるために生物的な構造に即した、社会機能のために倫理や政治的に構造化した、教育や価値観、文化といったものになるべきであろうとは思います。
しかしながら、一番瓦解しかけていてゆるくあまいところでゆっくり崩壊にむかっていっている現状の自由すぎる、拘束されない部類として自由を謳歌できる貧しい人民としての日本人でいれることにありがたいことだとおもっています。


願わくば、そういう叶わない行動をすることで行動に意義があると思わせて協力を募らせて生活をするような無駄な商売が減り、正しく分けられた文化圏でそれぞれの楽しみが充分に楽しめる世界を共存させることができ、豊かさを求めていければと考えています。
実際そうはいかないことくらいはわかっていたとしても。