陰茎の湾曲は何故発生するのか。
これは長きにわたり謎である。これまでも、これからも。
所説、仮設はある。主に扱き過ぎであるとか、扱く際の傾き、利き手であるといった話は、あるにはある。
しかし実際、そうであるかは謎である。
これを解明する手段も方法も概念もあるだろうけれども、これを解き明かす事自体が人類の起源に関わる真実の一つにたどり着くことになろうと想像するに難くはない。
人はそこに触れることが、まだできないのだ。
仮説の中でも自分で最も可能性として大きいと、この半世紀以上男性として過ごした人間として感じるアイデアとして近年想像するに至った案として「収納している際の形状によるものが大きいのではないか」とするものが心理の深層に突き刺さり、芽を吹き成長の具合を感じる。
若年にあってはたしかに、扱き過ぎであろうというのは十分すぎる情報で構成されていた。
しかしそれは、その時点での知りえる最大の知識においてというだけであった。
幾つ年を重ねようとも発見ばかりしかない。
常に新しい情報が入ってくる。
今の時点でさえきっと通過点なのだろう。
床オナ、中間的勃起状態、利き手と小用の関係性に、その形状を維持している時間の長さと状態変化の中間状態もしくは状態の変化しているその最中が影響するのではないかと、現時点では考えるのだ。
恐らくもって陰茎の形状についてより望ましい形であることが男性の人生をより良くするであろうは必然である。
人生のうち他の者に見せることなど殆どないであろうけれども、自分がそれを確認する事が自分自身と向き合うことになるであろう器官の一つであることはその俗称からもうかがい知れる。
女性の胸と同じ位置関係にあるだろう。その形状や大きさについて評価をする環境についての考察をここで行うものではない。位置的にそれであるということについてのみ、おそらくそれだろう。
アイデンティティというもの、それそのものだ。
これを育てることも整えることも現在の人間の医療技術、科学技術では叶わないのだ。
形状の状態維持の長さがそれを形作る、現時点で陰茎の形状をそれにする原因と私が考える最も有力な説が、これである。
しかし、この案に考えが至る、この話題をすることができる、そしてそれを実施しようと考えるも、実際に履行するかできるかという時点が、すべてにおいて既に遅いのである。
結果論、という言葉や原因論、なんでも論をつければよいという話ではない。
論という言葉の柵の中に人を閉じ込める行為を行うべき場面はそう多くはない。
しかし、すべてが終わってからでしか言語化、情報化できない一例にこれも含まれるのではないだろうか。