宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

哲学とは何か

哲学が何であるかを説いた言葉はあるのか。

そんなものがあったら哲学とは何かという情報が存在しているはずだ。

しかし、哲学を語る者はことごとく、哲学とは哲学だと言う。

そしてそれが何かを問うと、浅学だ無知だ馬鹿だ本を読め学べ考えろと罵倒をする。

そして愚かだから何もわからないので哲学とは何かを知らないのだ。

哲学とはもっと崇高で哲学していることが哲学だと言う。

解っていないこと自身で誇ってただ他人を罵倒するだけの事が哲学なのだろうか。

恐らくそれは、これまでの哲学はそうなのだろう。それが正解で誰しもが哲学をする際に踏襲してきているものなのだろう。

他人の財産や恋が羨ましい時、恋人の気持ちが離れていくことが妬ましい、他人の才能が憎い、自分以外の人間が幸福を感じることに不平等感を感じる。

そんな時に行うのが哲学だ。

 

哲学にしろ社会学にしろ地政学にしろ、過去にあった事例に名前をつけて自分のポジションを意見という形で確保しようとする時、知っていることを列挙するために情報を保持する容器としての形しかしていない。

そういう事があった、という事象を知っていると発言するためだけに年号であったり、名称を付けたりしているだけに留まる。

それらが何ら意味を成したり、成果を生み出したりはしない。

ただ自分の発言の機会と評価を、おかれた状況下で上げるために威勢を張る決まり文句の暗記の事である。

 

では哲学は魅力がないのかといわれると、人間の感情を情報として共有し思考する事やそれを利用したいと思うのはとても魅力的だ。

自分の思い通りにしたいと考える対象は、人間社会である。

それを構成する人間をどうにかできれば、それはとても魅力的な手段である。

哲学はそれを成すのかと言われれば、現状そうはならない。

クイズを出して、斬新に驚かせればそれが哲学という有様である。

 

不幸な人間は不幸な考えだった為不幸になり、幸福な人間は幸福を掴む方法を知っていたからこそ幸福になれた、と言う名言を吐いたとしてそれに何の意味があろうか。

それが哲学だ。意味はない。

幸福や不幸を定義しなおしつづけ、意味のない流転の中に自分が幸福だというタイミングを見つけて悦に入るためだけにある。

実際には幸福ではない。左右の手にもったコップで水を汲み替え続けているのと同じである。

水が空を飛んだと言うためだけにずっと同じ動作をしているようなもの。

水は空を飛ばないしそれに意味はないし、それを操っているのはそれを行っている自身でもない。ただコップを傾けあい続けているだけだ。なんの哲学もない。

価値もなければ評価のしようもない。ただ擦って快感を得ようとしている動作と同じである。

 

ならば自身の部分を擦って気持ちがよくなる事と何が異なるのか。異なりはしない。

まったく同じものである。

哲学とは自慰行為であり、自慰行為を哲学するという言葉は、自慰行為を他人と共有しようという試みである。

これは大変に有意義な事である。

快感を感じるという事実の存在を確認できるのは自分自身だけだから当然の事だ。

 

哲学が何を成し得たかと言われれば、なんらかの名言を残しただけである。

人が葦やら、人生とは何やら、命や愛やは何かといった、わざわざ別名をつけるだけの行為しかしていない。

それを突かれるとひたすら罵倒し不幸だと言いそれを救うために哲学があると言う。

その不幸そのものを作り出そうとしているのが哲学だと言うに憚らない。

だれも幸福にしない事こそが哲学なのだ。

 

誰かの経営哲学、誰かの成功哲学、そういうものを哲学とは言わないと言うなら、ニーチェとかいう誰かの考えた哲学や古い人間の書き留めた哲学とやらは哲学なのか。

何が何を以って哲学なのか。

自慰行為集を哲学と呼んでいる事実をまず認めるべきである。

そうすることで初めて人類史上初の哲学という名の一歩を踏み出せるはずである。

 

水の入ったコップを持ち上げる、ラーメンを食う、恋に落ちる、足の小指を打ち付ける、それらに価値や意味を見出して名言を吐いて共有するタイミングで決まり文句の共感を得る、それが哲学なのだろう。

ちょっと哲い事を言うと、共感するかしないかの学びが得られる、そういうものが哲学である。

 

とかく哲学をしているとか哲学のなんたるかを知っているなどという蒙昧の輩は、哲学が何かと問われるといきなり歴史の話をし始める。

誰が居たか、どこに居たかそこで何を言ったか、そして周囲にどう理解されたか、歴史の解説を始める。

それは歴史ではないのか。歴史が哲学なのかと問うならば違うものだろう。なにしろもとより名前が違う。山田と岸本は同じかと問われれば哲学的には同一だと言いもするだろうし違うとも言うだろう。そして重なり合う他の例を持ち出して同じ事だと言い始める。

ちょっと語彙が多いだけの「哲さ」をとんちで示していることが哲学だとでも言いたげに。

 

ただ自分が行いたい生殖行為の嗜好についてから、それを達成できるかどうかまでの道程を辿り考察し計画し実行や我慢をして補完する、その自慰の変遷を語ることが哲学だろう。

一体何をもって哲学と言っているのか。

歴史を語ることと、二言目には哲学だという事以外にいう事はないのか。

人間は千年ちかくも自慰行為を拗らせてきて、いいかげんここらで学でもなんでもない自慰語りだというところに立ち戻り再出発すべきである。