宇玖頼奈A.k.a涅惡陶狂邪愛魅異

尻の穴で、伝わる愛

ジェンダー問題は一言で片付く

体の性別と心の性別に差がありつらい、困惑している、解消することに問題が多い、など聞くようになって久しい。

ニューハーフという言葉がおもしろおかしく受け入れられて男性のあくなき女性への性欲の発展形として性消費に特化して伸びた社会倫理感に端を発しこぞって体と心の性の差について声をあげられるようになってきた。

経緯なんぞはどうでもいい。

最近は哲学的に考えて、性とは、ジェンダーとは、問えるとか答えられるとかいう話題もあった。

哲学的になどと問うたり語るのは狂気の沙汰だろう。

哲学で性を語るなど無意味にも程がある。馬鹿を生産しないと哲学は成り立たないのだろうか。

哲く考えることすら放棄してカテゴリにわけるべくもない。身分のある者からの言葉だとしても独り言の声が大きすぎる。

 

そもそも性別とは何か、と問うべき所だろう。

幽霊とは何か、妖怪とは何か、それをその存在の与える影響から逆算からのみ考えることに智などない。事例の感想文だけだ。

 

存在しないもの、発生していな事象について価値を問う事の無意味さである。

予想や想定、準備や練習といった類の話ではない。無いものを有るとして存在するかもしれないなんの根拠もない想像、空想そのものに意味はない。

ただの娯楽だ。つまり性問題を娯楽としてとらえているということが如実に示されている。

例えば5億あたったとしたら、から始まる話と同じだ。初めから当人の心境を嘲笑すべくとして「ジェンダー問題」に入っていることが「性とは何か」と問わずに事象に対してかかる態度そのものであると言える。

 

まず最初に性とは何かを定義する必要がある。

そうでなければ、男性の女性の女性の男性性が女性性をもって男性であることを女性的に主張したいと女性性が男性的に言う、なんて言葉が作れるしそこに意味はない。

それこそが哲学だ、とか言う話になり歴史を鑑みろ本をよめ、おまえは馬鹿だからとマウントをとって豆知識のクイズ王合戦になる。

そんなに過去の情報を重ねることでしか問えないものが哲学ならクイズ学と括弧で括って書いておけ。

その情報群で解決するなら本を読んで歴史を知っているお前が答えを出せ。

答えも出せず相手を嘲笑し問題を深くえぐり続けただ傷つけることだけに特化したものがお前の哲学なら、そういう哲学もあるんだろう。

だったら自分だけが楽しむ学とかでも言っておけ。ひどい行動をとる人間を同じ人間だと思いたくなくなる感覚と同じく、その言葉の棄損具合が甚だしい。

 

社会学や哲学といった分野で本当に頭が悪いのは、なにも定義しない事だ。

死んだ人間が言い残した事だけが定義だとする風潮だ。

過去の学者の言葉を借りるならば、とことわざのように枕詞のように一説を挟んで何かを言った気になってる。

その過去の人間は預言者か何かなのか。その名言で何か解決したことがあるのか。

感想文を一言で他人に伝えるために、その伝える相手の基礎学力を頼るという行為だけでしかないのに、それが何の成果なのか皆目見当がつかない。

 

性別があり、男性と女性があり、自分がどちらであるかなんてことは小学生でもわかる。

男女に分かれてと言われれば分かれることができることを見ればそれは明白である。

何が性別だとしているのかといえば、自分の身体的構造を他人が評価した結果がそれである。

そうではなく問題は心の問題だと性急に推し進めさも性別が何かわかった風に、問題の事例を挙げてありがたい事や非道な例をあげて感想大会で大喜利して名言を吐くことが哲学となりやすいポイントでもある。

これでだれも言い返さないのでさも哲学が尊いような事になってしまっているのは文化や社会の豊かさ故なのだろう。

そんな蒙昧が許され存在できる豊さの象徴でもある。

 

では心の性別とは何なのか、定義をする必要がある。

それが定義され、男の心とは女の心とは何かを示してそれらに属している具合や割合で問うべきだろう。

やわらかいものが豆腐かプリンかを問うような事で、食べてみた感想を後日、何年後かに語る内容でそれが何だったかと荒唐無稽な事をしているのが現状である。

 

まず男性とは女性とは何かといえば身体的特徴のそれだけでのみ言われることだろう。

つまり身体的特徴の事を男女、性別という。至極当たり前の事である。

それから発展して、などはない。発展などしないのだ。身体的特徴だからである。

しかし、身体的特徴以外にも雄雌、男女、性別について言及することはあるだろう。

あるだろうけれどもそれは性別ではない。

空に浮かぶくもと言えば雲なのか雲なのか、あきびんのあきは空きなのか秋なのか、そんな事を問うのは大喜利である。

なんの意味もないし、ただ違っている事を言う、違いをしっているという愉悦に浸ることで笑いを誘おうという、その笑いを嘲笑として愉悦に浸ろうというのがどうやら哲学らしい。

そうでないなら、山と海は性別ともいえるとか、空と地では、朝と昼ではとか言うわけがない。

そんなものは男女ではないし本質ではない。本質とは何か。

まず男性であるか女性であるかはその身体構造がそれであるか、それのみに限られる。

言葉の使いようについて限る事はないが、性別は身体構造を示すものである。

言葉が自由だからといって一つの種類に二つの属性がみられ相互に関係するもののことを男女というわけではない。

そもそも規模としての視野が異なれば相対であるか一つの種類にまとめることができるかなど異なる。いい風に言うためだけに性別の表現を利用しているとしか言えない。

 

だれがどんな表現をしたか、という時間的な系譜は歴史の分野である。

表現として言う事ができるというのは国語の分野である。

哲学が多岐にわたるという言い訳でそれが何かを定義することから外れていく者のいう事はいつも同じだ。

哲学が多方面にわたっているのではない。いろんなところをかいつまんで哲学っぽいという雰囲気をなんとなく自己採点の評価をしていて、自分にしかわからない心情をクイズにして言い当てられると癪なのでなんとかして相手を罵倒しようとすること、それが哲学に成り下がっている。

 

では心の性別とは何かを改めてだれでもわかる方面から見てみる。

哲学書や歴史や文学の価値など関係ない。全部ゼロでできることでなければ意味がない。

ゲームソフトだけ持っていても意味がないのと同じだ。

オセロや将棋でできること程度がゲームとして成り立つ本質というところだろう。

 

心の性別を定義するに

・異性を性的対象としてみる

・行動や言動に一貫して多くの類似に寄る

といった部分で性別と考えられるだろう。

こんなものに男女などあるものか。異性であろうと同性であろうと性的対象とみる傾向など既に知れている。

行動に女性的や男性的といったもの、趣味趣向、衣服や製品について、人間社会に男女で分けられ準備されたものは多くある。どちらの使用を選択するかということで性別を決めるという事は、性別ありきで語っている事と同じく無意味である。

往々にしてその社会的機能の利用選別について性別を問う事ばかりが論点の多くである。

 

社会が男性か女性かその利用にあたり性別を問うというものがジェンダーの主だと言える。

男性か女性かなど身体を見ればわかることであるし、心に性別があるかと言えば、無いと言えるだろう。

気持ちとして、身体の性別をどうしたいか、という事が問題の本質だ。

男性がある、女性があるという前提ではない。身体構造に合わせた男女の機能分けが社会にあり、伴わないけれども利用したい権利を主張することがジェンダー問題だろう。

 

つまりどうあっても身体構造の区別が男女である。

精神に性別はない。

陶器の器かガラスの器か、どちらに入れるかだけであって入れる水にはその差は関係ない。

水自体がどちらに納まりたいかを望むというものであるだけだ。

髪の色、肌の色、目の大きさや鼻の高さなど好きにすればいい。成形が悪であるような風潮は現代でもある。

そういった身体の利用状況を精神の落ち着くものにしたい類に性別もあるというだけの話だ。

精神が伴っていない、心が不一致、等というあたかも「精神に性別がある」かのような表現を許しているのが言論、哲学の怠慢だ。

男性か女性かの肉体の容器に入っている精神が女性であるか男性であるか、確認にしようもないしあったとしてもそれが肉体にどう干渉するのかなど不明だし、そもそも精神に性別や相対、偏りがあるとして、というか偏りができるほど精神を集合させた単位はあるのだろうか。

精神の動きを表す物理行動の偏りをもって男性的、女性的とは言うがその実精神のなんたるかなど測定方法がない。

科学的に証明できるものではないし、もしもなされたならそういうものではないとして新ジャンルを確立しようとするだろう。

正体がないにもかかわらず現象としてそこにある、権利なんかと同じで永遠に取り合う部分だからだ。

それを問う事が金になるから永遠に反なんとかはなくならない。搾取されないかぎりは存在していてもよいと思うし、貢ぎたければそれは自由だろう。

ゼロを生み出した功罪である。

ないものは無いと言った瞬間無いとして有るので、それは有るといえる理屈だ。

無いものが無いのなら無いとして証明しなくてはならない、というのはそれが有るということになる。証明できないので無いと言っても人をひきつけ出資を募らせることができるのだ。しかしその無いという状態を保存できなければ永遠に広がり続ける裾野を追って科学が進歩を遅らせたであろう。まさに功罪である。

 

身体的機能をもってして男女を選び、機能に合わせた男女を用意すべきが結果であるはずだ。

社会機能が生物学、というか自然界における2極を4極として選択可能にする必要がある。それは社会的な機能についてのみだ。

たとえばトイレの問題。これは男女に分ければいい。生物学的に男女に分けるだけで良いのだ。

生物学的に異なっている性別を社会機能に含めるならば4種類なり8種類なり、性別として社会機能に組み込まれた数で用意すればいい。

そんな無駄なことをするだけの余裕があれば、その豊かさを享受すべきでありそうでないなら社会が許す機能に甘んじるしかない。

日本で唱えることができる人権と、発展途上国大自然の中で訴えることができる権利では全く異なる。

人が生まれながらにして持っているのは、理不尽な社会に抗うという尽きることのない欲望だけでありそれだけが平等である。

 

人間がどうあるべきかという事を言葉で問う時点でそれは社会機能がいかに豊かで自分の心の機微な部分まで差し入ってくれるかどうかという要望であり、その震度は豊かさの反映である。

 

どこかの国が女性として認めた人物に女性としての権利をすべて与えられていたとしても、その地域を外れると扱いはただの人間でその分別は身体の機能によるもののみである。

学もなく言葉ももたない動物などに対して説得ができる状態ではない権利や主張を存在すると言えるのは社会の中だけである。

その社会の機能として実際に稼働している領域での差が、その社会の豊かさであり差別や不足を感じるのならばそれは豊かさが満ちていないのであり、貢献が足りなく社会参画が足りないものだと言える。

それこそ無いものを有ると言ってないから不足していると、反なんとか活動で資金を潤沢に用意できるのと同じく、活動をして整備をすればいい。

 

なぜ整備しないのか。

一つは豊さが足りていない、怠慢に甘んじているからだろう。

もう一つは、実現しないほうが金になる人間が主導しているからだ。

反なんとか主義、反なんとか活動、面白おかしい政党もそうだ。

実現すると実現するまで力を貸してくれると約束した票田が尽きてしまう。

いつまでもかなわない夢を追うので、年金で逃げ切るまで活動を支援してほしい、というものだ。

 

 

ジェンダー問題は、いいかげんその基準を設定すべきだろう。

過去のだれかの言葉にすがって、その形におさまることを有難がっているうちは何も進展はない。

つまりこれまでもこれからも、いい顔する人間にいつでも甘い汁に化ける資源だという事だ。